微睡む宵闇 揺蕩う薫香

萩尾雅縁

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最終章

162 澱

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 これは僕の
 愚かさの罪



「なぁ、キスくらいさせろよ」
 静まりかえった資料室で、ラグビー部の新キャプテンになった男は僕の顎を掴んでそう言った。
「いくらでも、お前が言うだけ払ってやるから」
 顔を背ける僕をその鍛えられた躰で書架に押しつけ、耳許で囁く。

「注文が先」
 辛うじてそれだけ言えた。息をするのも苦しいほど、喉を押さえられていたから。
「今ここで小切手を切ってやる」

 指先に力が入り、無理やりに仰向けられた口に強引に舌が侵入してきた。

 あの子たち、何をやっているんだ! 早く助けに来いよ!

 心の中で絶叫しながら、必死で身を捩りこいつの拘束から逃れようとしていた。けれど、びくともしない。背中に回された両手を、こいつの片手で押さえられているだけだというのに。

「七万ポンド払えば、お前を独占できるんだろ?」

 やっと僕の口から離れ、呟いた言葉がこれだった。

「ブラッドリー先輩と同じだけ払ってやるよ」

 冗談じゃない!

 こいつは僕を離し、本当に胸元の内ポケットから小切手帳を取りだしてさらさらと書きだした。
 その隙に戸口に駆けだす。だけどその前で引き摺り倒され、したたかに床に叩きつけられ転がされた。こいつはすかさず馬乗りになって、僕を組み伏せた。

「モーガン先輩! モーガン先輩! 生徒総監がお呼びです!」
 小さくドアが叩かれる。安堵の吐息をついたとたん、「うるさい! 引っ込んでろ!」

 頭上で罵声が飛んだ。彼らの声も、ノックの音もおかまいなしで、こいつは僕のトラウザーズを脱がしにかかっている。

「ほら、確かに払ったぞ」

 僕の胸許に、はらりと長細い紙切れが舞う。

「ケネスを呼んで!」

 僕は思わず叫んでいた。通常なら考えもつかないことを。この状況で、僕が銀狐を呼ぶなんて!

 それくらい、屈辱で湧きあがり、怒りで煮えたぎっていたのだ。

 こんな、年下の下種野郎にいいようにされるなんて!

 銀狐の名前にこいつは一瞬怯んだものの、行為をやめようとはしなかった。



 遠ざかる足音を聞きながら、僕は、ぼんやりと壁にかかる歴代の校長の肖像画を眺めていた。いや、肖像画が僕を眺めていたのか。互いに目配せしあいながら、くすくす、くすくす笑っている。愚かな奴だと、笑っている。

 少し、後悔した。
 こんな場面を銀狐に見せようとしたことを。
 それから、願った。
 彼が執務室にはいず、ここには来ないことを。



 銀狐がこの資料室に駆けつけた時には、あいつはもう立ち去った後だった。最中じゃないだけ、マシだったのだろうか。
 銀狐は僕を見るなり辛そうに唇を噛んで顔を背けた。ドアの隙間からちらりと見えたボート部の子たちは部屋の中には入れなかった。

「誰に犯られたの?」
 怒りを押し殺した、静かな呟きだった。
「ラグビー部の新キャプテン」
 思ったよりしっかりと声が出た。喉はまだ痛かったけれど。
「ねぇ、腕を変なふうに捻ったみたいで上手く動かせないんだ。トラウザーズを直すの手伝ってくれない?」
 僕は冷たい床に転がったまま、傍らに膝をついた銀狐を見あげた。銀狐は顔を背けたまま僕を見ようともしない。

 諦めて、痛くない方の肘をついて半身を起こした。躰を動かすたびにぎしぎしとそこかしこが痛む。ハンカチを取りだして、躰に残るあの男の排せつ物を丁寧に拭った。

「そのハンカチ、僕に預けてくれる? その男、刑務所にぶち込んでやる」
「冗談だろ?」

 銀狐、喉の奥から絞りだしたような掠れた声で大真面目にそんなことを言うものだから、僕は、ははっと笑ってしまったよ。

「笑うんじゃないよ! こんな時に笑うなよ!」

 突然の怒声に僕はびくりと縮みあがった。彼には似つかわしくない透明な綺麗な雫を湛えた瞳が、怒りにゆらゆらと金の焔を燃えたたせて、僕を睨めつけていた。

「どうしてきみが泣くの? こんなこと、へっちゃらだよ。慣れているもの」
「馬鹿を言うんじゃないよ! こんなことに慣れる訳がないじゃないか! 絶対に慣れてはいけないことだよ。二度と、そんなことを、言うんじゃないよ、マシュー……」

 激しく叱咤する彼の声は、だんだんと力を失くし、震える涙声に変わっていた。その彼の腕が伸びてきて、僕を強く抱きしめる。銀狐の力強い腕は、痛めた腕に酷く響いた。僕は悲鳴を上げそうになりながら、息を呑みこんで我慢して、片腕で彼をそっと抱きしめ返した。

「あいつには、言わないでくれる? 心配かけたくないんだ」
「ジョナスには? それとも、表沙汰にはするなってこと?」
「僕まで放校になってしまうだろ?」
「なるわけないじゃないか! きみは被害者なんだよ。きみが言うなというなら、言わない。でも、こいつはこの学校から放りだしてやる!」
「いいんだよ、もう。それより、トラウザーズ……。冷えるんだ」

 あまりにも僕が淡々としていたからだろうか。銀狐は唇を尖らせて腹立たしそうに拳で涙を拭い、やっと僕の足先にひっ掛かっている下着と、トラウザーズを引きあげ穿かせてくれた。

「立てる?」
 僕は首を振った。
「無理やり捻じこまれたから痛くって」
 また銀狐が露骨に顔をしかめて俯いた。
「ごめん。表にいるあの子たち、呼んでくれるかな? 肩を貸してもらうよ」
「こんな時に僕は、きみを助け起こすことも、きみに肩を貸すこともできないなんて! 僕は今ほど自分の脚のことを――、走れない、役立たずな、この脚のことを呪ったことはないよ」

 吐き捨てるように言われたその言葉に、僕は首を振った。

「きみ自身を否定しないで、ケネス。きみがいてくれるから、僕は正気を失わないで済むんだ」

 そして、ふと目に入ったあいつの残していった小切手を拾いあげた。

「七万ポンド。子爵さまのつけた値段が、僕の相場らしいよ」

 苦笑が滲む。僕はくっくっと笑いながら、この小切手を破り捨てた。

「可笑しいだろ? こんなのって。僕はなんだって、いまだにこんなところにいるんだろうね」


 こんなおりの中に、囚われたまま――。




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