微睡む宵闇 揺蕩う薫香

萩尾雅縁

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四章

160 オックスフォード城

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 流れていく時は
 もう戻らないはずなのに
 なぜ僕にだけ
 留まり続ける?




 このオックスフォードですごしたひと夏の日々は、今までで一番印象深く、穏やかな、幸せな思い出となって僕の心に刻まれ、忘れられない記憶となった。

 銀狐のいない、鳥の巣頭と二人だけの時、僕は度々発作的に泣き崩れた。鳥の巣頭はもうおろおろすることもなく、子どもをあやすように僕を抱きしめてくれていた。

「辛い記憶を消すことはできなくても、その上から幸せな記憶を書き加えていこう。いつか、他のことなんて思いだせなくなってしまうくらいに、僕との記憶できみを埋め尽くしてしまいたいんだ」

 鳥の巣頭はそう言って、週末ごとに僕をいろんな場所に連れ回した。
 ピットリバース博物館に、自然史博物館、レンタサイクルで遠出のピクニックにも出かけた。
 僕はこいつが、こんな活動的な奴だなんて知らなかった。一緒にカレッジ・スクールに参加していた頃は、宿舎から一歩も出ることもなく、週末はベッドの中ですごしていた。宿舎の外で食事することすらなかったのだ。




 そんなある週末、オックスフォード城を訪れた。
 ここは観光名所だから至極当然の選択だ。僕たちは、時代がかった従卒の衣装を着たガイドが城を案内してくれる、城内見学ツアーに参加した。小雨が振っていたせいか訪れている観光客は少なくて、ツアー客は、僕たちとカップルらしい若い二人連れのふた組だけだった。


 鳥の巣頭にまったく悪気はなかったのだ。これは彼の預かり知らないことなのだから。

 初めは良かったのだ。狭くて急な螺旋階段を登って得られた塔の上から俯瞰するオックスフォードの街並みは絶景だった。天気は今ひとつだったけれど、十一世紀の建立から連綿と続く、歴史を感じさせる重厚な石造りの城郭には威厳と存在感があった。だからまさか、自分がこの場所に恐怖を感じてしまうなんて、思いもしなかったのだ。

 ガイドに続いて階下に下りた。ひんやりとした石の匂いが漂っている。息を吸いこむ度に感じる、湿気た空気に混じるあの埃っぽいざらざらした感触。カツカツと響く足音に、背後にいるカップルも声を殺して辺りを眺めている。剥がれ落ちた漆喰壁に囲まれた薄暗い通路。階段。囚人の引きずる鎖の音。陽気なガイドの冗談交じりの説明がどこか遠い。その冗談にわざとらしく反応する、女のけたたましい下品な笑い声が空っぽの部屋に反響する。

 処刑道具だの、幽霊話だのがそんなにおかしいのか!

 僕は心の中で毒づいて、肩で息をしながら、鳥の巣頭の腕を掴んだ。

 ここは、あの、寮の地下室を思い起こさせる。そして、それ以上に、窓にはまる鉄格子が僕の未来を暗示しているようで堪らなかった。

 城から監獄に改築された遺跡、それがこのオックスフォード城だ。

 前知識がなかった訳じゃない。ここが数十年前まで王立刑務所だったことは知っていた。それが、こんなにも身近なものとして僕に迫り、僕を脅しつけ、僕の罪を突きつけてくるとは想像できなかっただけ――。

 立っているのもやっとの僕を気遣い、鳥の巣頭はガイドに出口までの道順を聞いて、早々にこの場所から連れだしてくれた。

「もう帰ろう。きみのフラットに戻ろう」
「その前に少し休もう。温かいものを飲んで、ね?」

 ここから一刻も早く離れたくて、頭を振って鳥の巣頭にとり縋った。

「もう少し行ったらカフェがあるから、ね? そこまで歩ける、マシュー?」

 鳥の巣頭は僕の言うことを聞いてくれそうにない。僕の肩を抱いてずんずんと進んでいく。そしてもう何も言わず、目の前にあるカフェに入っていった。

 広々としたフロアに置かれたテーブル席はそう混雑している訳ではなかったのに、そこには座らず突き進んで、こいつは窓際の奥のソファーに僕を座らせた。

「注文してくるよ」

 注文って――。ここはカフェテリアじゃないだろう?

 ふわふわとした意識のまま背もたれに頭をあずけてぼんやりしていると、すぐに鳥の巣頭が戻ってきた。

「横になって、マシュー。大丈夫、お店の人にちゃんと断ってきたからね」

 鳥の巣頭は僕の頭を腰かけた自分の膝に載せ、ハンカチで丁寧に僕の額や髪を拭いてくれた。霧雨と混じり合い、髪がべっとりするほど冷や汗をかいていたことに、僕はようやく気がついた。

「大丈夫だよ、マシュー。ごめんよ、こんな所に連れてきてしまって。――あそこは、あの部屋に似ていたね。ごめんよ、思いださせてしまって」

 泣きだしそうな鳥の巣頭の、掠れた囁き声に応えるために、僕はこいつの手を握った。僕の目にはふわりとハンカチが載せられていて、僕からはこいつの顔が見えなかった。
 だけど僕は知っている。
 こいつは決して人前で泣いたりしない。だから人気のない場所ではなく、ここに入ったのだ。決して泣きだしたりしないように。そして、僕が泣いてもいいように、自分の躰で僕の顔を隠してくれている。優しく僕の髪を梳きながら。

 僕の記憶を共有するたった一人の――。


 カチャカチャと食器を置く音と甘い香りに、僕はゆっくりと起きあがり、乱れた髪をかき上げた。

「もう平気。いつもの軽い貧血だったみたいだ」

 ウェイトレスが「お大事に」と、にこにこと作り笑いを浮かべ、上ずった声をかけてきた。僕は「ありがとう」と言って、鳥の巣頭が頼んでくれたホットチョコレートを手に取った。


 ちらちらとこちらを見ながら、ぐずぐずと辺りのテーブルや椅子をこれ見よがしに動かしていたこの女が立ち去ってから、鳥の巣頭はふっと吐息を漏らした。
「もう少し横になって休んでいたらよかったのに」
 なんだか不満そうに聞こえるこいつの声音に、僕は首を傾げた。
「皆がきみを見ている。今のきみ、眠りから覚めたばかりの眠りの森の美女みたいに、」

 鳥の巣頭は僕の耳許に顔を寄せて囁いた。

「……綺麗なんだもの」

 僕はウィンドウに映る自分の顔をちらと見た。青褪めたぬけるように白い肌に、唇ばかりが紅い。大きく見開かれた目は人形のように生気がない。そう、人形のように。僕の時間はあの時点で止まったまま。成長しない自分の容貌は、いつにも増して僕をイラつかせた。


 僕の時は止まったまま。それだけでは飽きたらず、過去は僕の立つ大地から染みでてきて、僕の足首を掴み僕を引き倒そうとする。僕は、僕をからめ取ろうとまといつくどろりとしたコールタールから、必死で足を引きぬき、前へ進もうとしているのに。
 


 鳥の巣頭――。

「マシュー?」

 縋りつくように見つめる僕の瞳を真っ直ぐに見つめ返して、鳥の巣頭は訝しそうに小首を傾げた。

「マシュー?」


 名前を呼んで。もっと、僕の名前を呼んで。
 僕が、過去やみに呑みこまれてしまわないように。

 僕を、きみに、繋ぎ留めて。


 そう、言いたかったのに、なぜだか、声にならなかった。だから、こいつの首筋に両腕を巻きつけて、抱き縋った。





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