微睡む宵闇 揺蕩う薫香

萩尾雅縁

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四章

159 実績と噂

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 見上げるは
 重なりあわない
 空の消失点



 このカレッジ・スクールの間中銀狐は忙しそうにしていて、僕たちと一緒に行動することは少なかった。去年の夏は鳥の巣頭がいなかったから、特別に僕を気にかけてくれていただけなのだろうか? 鳥の巣頭は、学校が始まったら生徒会で時間を取られて勉強時間がなくなるから、今のうちに集中して取り組んでおきたいんだよ、としたり顔で笑っている。

「きみがあいつのことばかり気にするなら、僕は焼きもちを焼いてしまうよ」
 そのくせまるきり冗談とも言えなさそうな、拗ねるような瞳で僕を見る。
「馬鹿だなぁ」
 僕は笑って身を擦り寄せる。

「そんなんじゃないよ。ただね、勉強って感じでもないからさ。いつも深刻そうな顔をしていて」
「数学の難問でも解いているんじゃないの? 銀ボタンのあの子の書いた論文が掲載された雑誌、発売されたところだもの」
 僕から顔を逸らし、鳥の巣頭はどこか遠くに視線を移した。

「その通り。かなり難解な理論だよ」
 背後から弾んだ声がかかる。噂をすれば影だ。

 講義のあるカレッジ敷地内の緑広がる芝生に置かれたベンチで彼を待っていた僕たちに、まずは遅れたことを謝り、次いでくすくす笑いながら銀狐は小首を傾げた。

「僕はいつもそんな渋い顔をしているかい?」
 僕はなんだか恥ずかしくなって下を向いた。
「あの子の論文がどうだって? 僕はまだ読んでいないんだ」
「とても興味深かったよ」

 銀狐は僕の横に腰を下ろし、手にもっていた雑誌をパラパラと開き、僕超しに鳥の巣頭に渡した。
 僕もちらちらと盗み読みしてみたけれど、始まりからしてちんぷんかんぷんで早々に諦めた。真剣な顔で文字を追っている鳥の巣頭が信じられない。とはいえ、大鴉がどんな論文を書いたのか気になって、神妙に銀狐に訊ねてみた。

「うーん、何て言えばいいかなぁ。まず株価の値動きを説明した理論に、『ランダム・ウォーク理論』っていうのがあってね」

 駄目だ、訊くんじゃなかった――。

 僕は絶対に自分には理解できそうにない話の始まりにすぐさま後悔し始めていた。

「これは株価の『予測の不可能』を説明する理論なんだ。ところが彼は、株価を売買する人間心理を数値化して人工知能に組み込むことで、『予測可能』とする理論を立て数学的に論理立てた。これはそういう論文だよ」

 やはりよく分からない。そんな僕を通り超して、読み終えた鳥の巣頭は興奮した面持ちで銀狐とこの論文の感想を話し始めている。株式になんて興味のない鳥の巣頭が熱く語っている。僕はこいつの意外な一面を見て、そっちの方に驚いた。大鴉がすごいのは周知の事実だ。今さら驚くこともないけれど。



「内緒の話、彼はね、天才的なハッカーなんだよ。数字の申し子って言われているくらいだから解るだろ? 彼の才能が遺憾なく発揮されるのは、プログラミングなんだよ」
「知っているよ。もう、痛い目にあったからね」

 声を落として囁かれた銀狐の話に、鳥の巣頭は苦笑して肩をすくめてみせる。
 僕は一瞬意味が解らず、それから間を置いて、鳥の巣頭は、あの子爵さまを生徒会辞任に追いこんだウイルス感染事件のことを言っているのだと思いいたった。

 銀狐は何も言わずにやっと笑い、こいつと同じように肩をすくめた。

「敵に回すと厄介な子だよ」

 しばらくしてぽつりと呟かれた銀狐の言葉に驚いて、僕は勢いよく顔を向けた。

「敵って? 彼と対立しているの?」
 銀狐はきょとんとして小首を傾げる。
「ほら、あのカジノ騒ぎの件だよ。勘違いした生徒会も悪いけれど、あんな飛んでもない仕返しをされたんじゃ、堪ったものじゃないだろ?」

 あ――。銀狐は、天使くんの写真のことを知らないから……。

 僕は下を向いて唇を噛んだ。子爵さまと銀狐がどんなに仲が良くたって、あんなことを告白できるはずがない。それは、僕だって同じだ。
 大鴉は悪戯で、学校内の全てのデータを消すウイルスをばら撒いた訳ではないのに―。

 沈み込んでしまった僕の肩を、銀狐はぽんと叩く。
「心配ないよ。今は監督生とも、銀ボタンくんとも関係はいたって良好。あの時はね、こんな話をきみは聴くのも嫌かもしれないけれど――、」

 言いながら、銀狐は、僕と鳥の巣頭を相次いで見つめた。

「セドリック先輩が、彼とカレッジ寮の子を争って冤罪事件に発展したんだって、もっぱらの噂だったんだ」
 鳥の巣頭が腹立たしげに言葉を継いだ。

 僕は真実を知っている、――と、思う。
 子爵さまに勝ち目なんかなかった。大鴉は自分を犠牲にして罠を仕掛け、子爵さまの手から天使くんを救いだし、彼の名誉を守ったんだ。

 その事実を反芻する時、僕の胸は罪悪感と言い様のない後悔で覆われる。
 調律されていない古いピアノで弾いたようなバッハの旋律が不協和音を奏で始め、僕をきしきしと軋ませる。そこにできた軋みから、ぬるりとしたヘドロのような感触が染みでて、ぞろりと這いあがってくる。とっくに蓋をしたはずの僕の奥底の深淵が、また僕を捕まえるために――。


「……それで彼は、銀ボタンの子は、勝ち取ったその子と上手くいっているの?」
 気持ちを切り替えようと、努めて明るく訊ねた。
「さぁ? どうだろうね、僕はよく知らないんだ」
 プライベートなことだしね、と口を濁した銀狐に、僕も重ねては訊ねなかった。

「それにしても、この理論を現実に実行できるのなら、彼、大金持ちになれるね」
「実のところ、すでにそうらしいよ。エリオットは資産家の子息が多いからね。自分の小遣いをあの子に運用させて、あの子、その手数料だけで相当な額を稼いでいるって。それだけじゃない。あの子を投資顧問にしたがるオファーは後を絶たないって。この論文以前に、あの投資レポートで一躍世に知られてしまったしね」

 僕の知らない事実がまた一つ!

 投資やSNSに疎い僕が何も知らない間に、大鴉は一部の株式投資をする連中の間ですっかり有名らしかった。学校のサークル内での彼のレポートは、SNSで一般にまで拡散され、実名は伏せられていたものの、「錬金術師」とか「予言者」の異名で呼ばれているらしい。

「才気煥発、人を惹きつけるあの容姿に加えて、大金持ち。それも親から受け継いだものじゃない。あの年齢で自分で築きあげたものだなんてね」
 ため息を漏らす鳥の巣頭に、僕も大いに頷いた。
「すごすぎて何も言えないよ。僕なんかとは次元が違うもの」

 感嘆の吐息を漏らす僕を見て、鳥の巣頭はどこか辛そうな笑みを浮かべている。反対側の銀狐は、会話から外れて何か考えこんでいるようで、カレッジの蜂蜜色の外壁の向こう、どこまでも広がる青空を、透き通る金の瞳で睨めつけていた。





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