微睡む宵闇 揺蕩う薫香

萩尾雅縁

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四章

156 母

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 踏みだすことで
 変わる角度
 暴かれる死角
 
 

 ぐずぐずと頭を悩ませながらいつしか眠りに落ちていた僕を、鳥の巣頭が起こしにきてくれていた。
 涙の跡の残る頬をそっと擦り、乱れた髪を梳いてくれていた指先が心地良くて、僕は起きあがるよりもずっとそのままでいたかったよ。
「マシュー、そろそろ起きて。夕食の時間だよ」
 寝たふりを続ける僕をくすくす笑いながら、鳥の巣頭は髪を掬いキスを落とす。耳に息を吹きかける。くすぐったくて、とうとう僕も笑いだしてしまった。

「うん。もう起きるよ」
 軽くお礼のキスをした。当たり前にこいつがいる。それが無性に嬉しかった。
「シャワーを浴びて着替えてくる」
 こいつがいるのだから、きっと正式の夕食ディナーだ。気が重いけれど、今日くらいは仕方がない。
「ここで待っていてもいい?」
 どこか影のあるこいつの瞳に、「すぐに済ませるね」と頷いて微笑み返した。



 戻ってくると、鳥の巣頭は床に座りこんで、物憂げにベッドに頭をもたげていた。
「きみの方が疲れているみたいだ。ジャケットが皺になってしまうよ」
 鏡の前でネクタイを結び、ヘアワックスをつけながら、鏡面の中のこいつに呼びかけた。
「香りを変えた?」
「つけていないよ?」

 香水なんか――。シャワーを浴びたばかりなのに。

 訝しく思ってふり返ると、鳥の巣頭はなんだか拗ねている風で、唇を尖らせている。訳が解らなくて、こいつのもたれるベッドに腰を下ろし、その顔を覗きこむ。

「ああ……。うん、トワレを変えたんだ。前のは、ほら、評判が悪くてね。こっちの方が、すっきりしたいい香りだろ?」

 僕を見あげる拗ねた瞳にキスを落とした。ここまで顔を寄せて、こいつの言っているのが、シーツに残る僕の残り香のことだと解ったから。

 本当の理由は、前のトワレは評判が良すぎたからなのだけど……。挑発的でそそられる。そんなふうに言われていた。だから止めた。退廃的で爛れた甘い香りは僕にとてもふさわしく思えて、安堵感さえ覚えていたけれど。だから僕は駄目なのだと、たまたま見つけた東洋風の名前に惹かれてこのトワレに変えたのだ。

「なんていう香り?」
「『李氏の庭』。オリエンタルな感じが気に入っているんだ」

 今まで僕の香りになんか、無頓着だったくせに。

 鳥の巣頭の腕を引っ張って、ベッドに座るように促した。
「僕の香りを思いだすくらい、淋しかった?」
 首筋に腕を廻し、囁いた。
「うん」
 こいつも僕の背中を抱きしめる。
「僕のトワレをあげるよ。同じ香りをつけていようよ。そうしたら、きみは僕がいない時でも僕を感じられるし、僕はこの香りをつける度に、こうしてきみが僕を包み込んでくれている気分に浸れるもの」
「この香りを僕が使ってもいいの?」
「もちろんだよ。きみが嫌でなければ」

 驚いたように僕を見つめるこいつに、僕は「ん?」と小首を傾げてみせた。変な鳥の巣頭。

 こいつはもう一度僕をぎゅっと抱きしめて立ちあがった。

「時間だね、そろそろ行こうか」




 父と、母と、鳥の巣頭、それに僕。四人で囲むテーブルは僕にとって苦痛以外の何物でもない。
 鳥の巣頭は礼儀正しく、快活に、エリオットでの思い出話をとうとうと語る父にさも感心したように頷き、父が喜びそうな質問を挟み、見事としかいいようのない会話術で食卓を盛りあげる。そして、今の僕らの学校の様子を語り、僕をほめる言葉をさり気なく折り込むことも忘れない。

 スープにサラダ、ガーリックトースト。メインはフィッシュパイ。

 時々話を振って会話に溶け込ませようとする鳥の巣頭に、僕は笑顔で相槌を打つ。だが、この苦痛な時間の大半は、目の前の皿に集中し黙々と片づけていくだけだ。

 父の笑い声なんてこいつがいる時くらいしか聞くことはない。母は鳥の巣頭にフィッシュパイのおかわりを勧めている。ようようメインの皿を食べ終える。

 やっとデザートまでたどり着けた時、ふっ、と眼前のグラスに盛られたトライフルに、ラグビー大会時のエリオット・スイーツの記憶が重なった。口に含んだ苺の酸味が、その時の記憶を呼び覚ました。
 狼のフラットに連れていかれ、ラグビーの会場に戻った後のことを僕はほとんど思いだすことはなかったのに。苺はちゃんと時間に間に合ったし、大会はトラブルもなく順調に終えた。僕はスイーツを作るのを手伝い、皆に配り、それから――。それから――。

「マシュー?」
 鳥の巣頭が心配そうに僕を見ている。テーブルが静まり返っている。きょとんとしている僕を見て、鳥の巣頭はほっとしたように微笑んだ。
「何度か呼んだんだよ」

 気づかなかった……。

「ごめん。お腹がいっぱいで。せっかく母が作ってくれた僕の好物のトライフルを食べきれるかどうか、真剣に考えこんでしまっていたんだ」
 至極真面目に答えた僕に、母は「無理をしなくていいのよ」と、優しく応じてくれた。「あなたは今日、いつもよりずっと沢山食べていたのですもの」そう、艶やかに微笑んで。


 アフターディナーティーは部屋でいただくことにしたので、自室に鳥の巣頭と戻ってしばらくしてから、母がティーセットを運んできてくれた。鳥の巣頭のお土産の『プレスタ』のチョコレートが付け合わせに載っている。

 母は鳥の巣頭のチョコレートの話を始め、なかなか部屋を出ていってくれなかった。
 僕はあいつに訊ねたいことがあったから、早く二人きりにして欲しかったのに。

 ティーテーブルにつき、自分でお茶を淹れながら、僕は母を見あげて訊ねた。
「ご一緒にいかがですか?」
 カップは二つしか用意されていない。さっさと出てってくれ。そういう意味を込めたつもりだった。

 ところが、母は嬉しそうに椅子に腰かけたんだ!

 鳥の巣頭が気を遣って、「自分はいいから」と僕に目で合図して、出窓に腰かけている。
 母は朗らかに笑い、とりとめのない話を鳥の巣頭に投げかけ、いつも涙に濡れたような青灰色の瞳をうっとりと潤ませながらこいつを見ていた。少女のように頬を紅潮させて。まるで酔っ払っているみたいだ。几帳面にまとめられたプラチナ・ブロンドの髪を、華奢な指先が神経質に触っている。髪の毛一筋の乱れも嫌う母の癖だ。小鳥のようにちょっと首を傾けて相槌を打つのも。年齢よりもずっと若く見える、か細くて、儚なげな僕の美しい母――。

 僕は信じられない思いで、眼前の、僕が生まれてからずっと母だと信じてきた、見知らぬ女を、食い入るように見つめていた。





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