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四章
154 副作用2
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鳥瞰するきみ
見あげる僕
横たわる蒼穹
「僕はもともと神経が弱くて、――それに、その、PTSDだって言われてる」
あの病院で診断された通りに答えた。
ジョイントを止めた後におこるフラッシュバックだけじゃない。退院後PTSDを発症しいろんな症状が引き起こされる可能性も、事前に知らされていたから。
突然息ができなくなったり、吐き気を覚えたり、本当にフラッシュバックのせいなのか、判らないんだ。原因はジョイントのせいとは限らない。
PTSDのことは、銀狐なら容易に察しがつくはずだ。だから僕は努めて冷静さを装って上手く応えられているはずだ。この手の震えも、そのせいだって、思ってもらえる、はずだ――。
「医者にはかかっているの?」
「主治医がいる」
あそこへは、行っていないけれど。
「薬は?」
僕は首を横に振った。
「そこまで酷くないから……。症状が酷くでるようならお薬を出してださるって、先生は仰っていたけれど」
「二度も倒れているんだ。夏季休暇の間に診てもらった方がいいよ」
銀狐はまるで怒っているかのように顔をしかめた。僕は「うん」と言って頷いた。
怒っている訳ではないんだ。心配してくれている。そんな彼の独特な表情は誤解されやすくて、僕も初めの頃は彼のことがとても怖かった。
そう、とても苦手だったんだ。
その彼が、今、ここにこうして僕の隣で、僕の淹れたお茶を飲んでいる。
それは本当に、僕の大切なひと時。
「銀ボタンくんのお兄さんは、きみみたいに身体が弱いらしくてね。あの子、ああ見えてとても世話焼きなんだよ。放っておけないんだ。それがあんな形で裏目にでてしまって。彼の心情を思うと悔しくて堪らないよ」
なんとなく訪れていた沈黙を破って銀狐は大鴉の件に話を戻し、遣り切れない様子で息を吐いた。
銀狐が想像する「彼の心情」と、僕の知っている「彼の心情」には大きな隔たりがある。
大鴉は、あの事件の結末をどう受けとめているのだろう?
僕にはずっとそのことが気がかりだったけれど、今日、彼の姿を見て、そんなことはもういいんだって、ふっきれた。
あのチューターを殺せなかったことを悔しがるにせよ、安堵するにせよ、大鴉は自分の罪を自分で受けとめ、それでも背筋を伸ばし、頭を高くあげて堂々と歩き続ける。
だからこその大鴉。漆黒の翼を持つ彼なのだ。
「そうだね。よくは知らないけれど、残念な事件だったね」
僕はおざなりな意見を言うに留めておいた。よけいなことまで言ってしまわないように。そして、銀狐が僕の症状にもう触れてこないように、この件に気のないふりをしてみせるために。
窓の外を風が駆けぬける。樹々をざわめかせる。芝生を横切る生徒たちのテールコートの尾がはためく。
金色に透ける瞳をわずかに眇めて風を追う、そんな銀狐を、僕は黙ったままそっと眺めていた。
彼は大鴉と同じ――。
とても遠い、かかわりあうことなどない人だと、出逢った頃は思っていた。
彼の、怪我のことを知るまで。
彼には僕と同じ、消えることのない傷があるから、とか、同じく留年して貴重な一年を潰してしまっているから、とかそんな理由なんかじゃない。
二度と飛ぶことのできない、走ることのできない銀狐は、二度とジョイントを知る前の僕には戻れない、そんな僕と同じ。
絶望という断崖に断絶され、繋がることのできなくなった記憶。意識。
それはもはや僕ではなく、かつて僕であった者だ。今の僕と、かつての僕はそれほどに違う。希望に満ち、未来は自分の掌の上にあると信じていた彼は、ジョイントの煙の中に消えてしまった。
鳥の巣頭の見つけてくれた僕は、その頃の僕とは違う僕。霧の中から掬い上げられ、凝固し、新しく出来上がった僕なのだ。
その隔たりを、銀狐もまた抱えている。夢を断念した彼は、別の夢を見出すことで自分自身の再生を果たした。
僕と同じで、僕とは違う。まったく似ているところはないのに、彼は誰よりも僕に近い。そんなふうには、彼は思ってはいないだろうけど。
怒ったり、叱ったり、悔しそうに歯噛みしながら僕を睨みつけることはあっても、彼は決して僕を軽蔑したりしない。
何もかもを投げやりに、いい加減にやりすごしてきた僕がきちんとやり遂げるまで、我慢強く待っていてくれる。こんなところは鳥の巣頭に似ている。
鳥の巣頭が信じて、僕を託した銀狐だもの。
賢くて、強くて、少し無鉄砲なところのある僕の友人。そして彼も、僕を友人と呼んでくれた。『僕の大切な友人』と――。
「何にやにやしているの? 気持ち悪いな」
気がつくと、彼は苦笑しながら僕を見ていた。
「オックスフォードのスクールのことを考えていたんだ。またあの店に行こうよ、牡蠣の美味しかった、えっと、何ていうお店だっけ?」
「ああ、あそこ! うん、いいね!」
僕はふと思い浮かんだ適当な話題に逃げこんだ。銀狐はにっこりと微笑んだ。三日月のように金の瞳を細めて。
病気のことを蒸し返されることなく会話が逸れたことに胸を撫でおろし、零してしまった自分のお茶を淹れ直す。銀狐は自分の机に戻り、作業を再開する。
紅茶の芳香の漂う穏やかな時間。一年前はとても考えられなかった、僕がほっとできる場所。僕の机、僕の椅子。ここに居ることが、長い間の僕の夢だったのだ。
鳥の巣頭がいなくても……。
窓に背を向けたあの席には、今は銀狐が座る。あの席が空になった時、僕が淋しくならないように、困らないように、鳥の巣頭は彼にすべてを託していった。
本当は、銀狐は、どこまで知っているのだろう?
ふと、そんな疑問が脳裏を過る。
彼は、蛇のことも、梟のことも知っていた。あの奨学生を死に至らしめた事実も――。でも、ジョイントの事は知らない。本当に? 本当に知らないのだろうか? 澱んだ臭いが足元から立ち昇ってくるようだ。ジョイントの腐った甘い香りが。
僕はその香りをふり払うように、頭を振った。ティーカップを口許まで持ちあげ、深く柔らかな芳しいその香りを吸いこんだ。
「夏期休暇中、ジョナスはオックスフォードでフラットを借りるんだってね?」
ふと思いだしたように、銀狐は僕に呼びかける。
「うん。早めに街に慣れたいからって。大学が始まったら学生寮に移るけどね」
「本当、過保護」
呆れたようにため息を吐いた銀狐に、「きみもたいがい世話焼きだよ」と、僕は笑って応えた。
銀狐はひょいっと首をすくめて、そっぽを向いた。
見あげる僕
横たわる蒼穹
「僕はもともと神経が弱くて、――それに、その、PTSDだって言われてる」
あの病院で診断された通りに答えた。
ジョイントを止めた後におこるフラッシュバックだけじゃない。退院後PTSDを発症しいろんな症状が引き起こされる可能性も、事前に知らされていたから。
突然息ができなくなったり、吐き気を覚えたり、本当にフラッシュバックのせいなのか、判らないんだ。原因はジョイントのせいとは限らない。
PTSDのことは、銀狐なら容易に察しがつくはずだ。だから僕は努めて冷静さを装って上手く応えられているはずだ。この手の震えも、そのせいだって、思ってもらえる、はずだ――。
「医者にはかかっているの?」
「主治医がいる」
あそこへは、行っていないけれど。
「薬は?」
僕は首を横に振った。
「そこまで酷くないから……。症状が酷くでるようならお薬を出してださるって、先生は仰っていたけれど」
「二度も倒れているんだ。夏季休暇の間に診てもらった方がいいよ」
銀狐はまるで怒っているかのように顔をしかめた。僕は「うん」と言って頷いた。
怒っている訳ではないんだ。心配してくれている。そんな彼の独特な表情は誤解されやすくて、僕も初めの頃は彼のことがとても怖かった。
そう、とても苦手だったんだ。
その彼が、今、ここにこうして僕の隣で、僕の淹れたお茶を飲んでいる。
それは本当に、僕の大切なひと時。
「銀ボタンくんのお兄さんは、きみみたいに身体が弱いらしくてね。あの子、ああ見えてとても世話焼きなんだよ。放っておけないんだ。それがあんな形で裏目にでてしまって。彼の心情を思うと悔しくて堪らないよ」
なんとなく訪れていた沈黙を破って銀狐は大鴉の件に話を戻し、遣り切れない様子で息を吐いた。
銀狐が想像する「彼の心情」と、僕の知っている「彼の心情」には大きな隔たりがある。
大鴉は、あの事件の結末をどう受けとめているのだろう?
僕にはずっとそのことが気がかりだったけれど、今日、彼の姿を見て、そんなことはもういいんだって、ふっきれた。
あのチューターを殺せなかったことを悔しがるにせよ、安堵するにせよ、大鴉は自分の罪を自分で受けとめ、それでも背筋を伸ばし、頭を高くあげて堂々と歩き続ける。
だからこその大鴉。漆黒の翼を持つ彼なのだ。
「そうだね。よくは知らないけれど、残念な事件だったね」
僕はおざなりな意見を言うに留めておいた。よけいなことまで言ってしまわないように。そして、銀狐が僕の症状にもう触れてこないように、この件に気のないふりをしてみせるために。
窓の外を風が駆けぬける。樹々をざわめかせる。芝生を横切る生徒たちのテールコートの尾がはためく。
金色に透ける瞳をわずかに眇めて風を追う、そんな銀狐を、僕は黙ったままそっと眺めていた。
彼は大鴉と同じ――。
とても遠い、かかわりあうことなどない人だと、出逢った頃は思っていた。
彼の、怪我のことを知るまで。
彼には僕と同じ、消えることのない傷があるから、とか、同じく留年して貴重な一年を潰してしまっているから、とかそんな理由なんかじゃない。
二度と飛ぶことのできない、走ることのできない銀狐は、二度とジョイントを知る前の僕には戻れない、そんな僕と同じ。
絶望という断崖に断絶され、繋がることのできなくなった記憶。意識。
それはもはや僕ではなく、かつて僕であった者だ。今の僕と、かつての僕はそれほどに違う。希望に満ち、未来は自分の掌の上にあると信じていた彼は、ジョイントの煙の中に消えてしまった。
鳥の巣頭の見つけてくれた僕は、その頃の僕とは違う僕。霧の中から掬い上げられ、凝固し、新しく出来上がった僕なのだ。
その隔たりを、銀狐もまた抱えている。夢を断念した彼は、別の夢を見出すことで自分自身の再生を果たした。
僕と同じで、僕とは違う。まったく似ているところはないのに、彼は誰よりも僕に近い。そんなふうには、彼は思ってはいないだろうけど。
怒ったり、叱ったり、悔しそうに歯噛みしながら僕を睨みつけることはあっても、彼は決して僕を軽蔑したりしない。
何もかもを投げやりに、いい加減にやりすごしてきた僕がきちんとやり遂げるまで、我慢強く待っていてくれる。こんなところは鳥の巣頭に似ている。
鳥の巣頭が信じて、僕を託した銀狐だもの。
賢くて、強くて、少し無鉄砲なところのある僕の友人。そして彼も、僕を友人と呼んでくれた。『僕の大切な友人』と――。
「何にやにやしているの? 気持ち悪いな」
気がつくと、彼は苦笑しながら僕を見ていた。
「オックスフォードのスクールのことを考えていたんだ。またあの店に行こうよ、牡蠣の美味しかった、えっと、何ていうお店だっけ?」
「ああ、あそこ! うん、いいね!」
僕はふと思い浮かんだ適当な話題に逃げこんだ。銀狐はにっこりと微笑んだ。三日月のように金の瞳を細めて。
病気のことを蒸し返されることなく会話が逸れたことに胸を撫でおろし、零してしまった自分のお茶を淹れ直す。銀狐は自分の机に戻り、作業を再開する。
紅茶の芳香の漂う穏やかな時間。一年前はとても考えられなかった、僕がほっとできる場所。僕の机、僕の椅子。ここに居ることが、長い間の僕の夢だったのだ。
鳥の巣頭がいなくても……。
窓に背を向けたあの席には、今は銀狐が座る。あの席が空になった時、僕が淋しくならないように、困らないように、鳥の巣頭は彼にすべてを託していった。
本当は、銀狐は、どこまで知っているのだろう?
ふと、そんな疑問が脳裏を過る。
彼は、蛇のことも、梟のことも知っていた。あの奨学生を死に至らしめた事実も――。でも、ジョイントの事は知らない。本当に? 本当に知らないのだろうか? 澱んだ臭いが足元から立ち昇ってくるようだ。ジョイントの腐った甘い香りが。
僕はその香りをふり払うように、頭を振った。ティーカップを口許まで持ちあげ、深く柔らかな芳しいその香りを吸いこんだ。
「夏期休暇中、ジョナスはオックスフォードでフラットを借りるんだってね?」
ふと思いだしたように、銀狐は僕に呼びかける。
「うん。早めに街に慣れたいからって。大学が始まったら学生寮に移るけどね」
「本当、過保護」
呆れたようにため息を吐いた銀狐に、「きみもたいがい世話焼きだよ」と、僕は笑って応えた。
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