微睡む宵闇 揺蕩う薫香

萩尾雅縁

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四章

153 副作用1

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 僕だけじゃない
 教えてくれたのは
 偶然という名の必然



 ふう、と深いため息を吐いて銀狐は首を左右に倒しコキコキと鳴らした。
「お疲れだね」
 僕はそんな彼を見てふふっと笑った。彼の不機嫌な理由は解っている。あのフェローズの森での後始末のためだ。銀狐は唇を尖らせて首をひょいっとすくめた。


 元々寮専属のチューターなので、他寮生はほとんど面識がないことも幸いしたのだろう。自殺未遂、で片づけられたあのチューターの事件の真相は(と言ってもそれも真実ではないのだが)カレッジ寮の鉄の団結で守られ、大鴉とは無関係の、単なるノイローゼという形で大して皆の口に上ることもなく締め括られた。

 僕はそのことに安堵しながらも、その後の大鴉がどうしているのか、気にかかって仕方がなかった。
 もちろん、僕は白い彼との約束を守って、フェローズの森で見たことを誰にも話したりはしていない。鳥の巣頭にも、銀狐にも。
 僕の垣間見た大鴉のあの姿は、僕だけのもの。誰とも共有する気などない、僕だけの秘密だ。

 でも、銀狐にあからさまに彼のことを訊くのもはばかられ……。


「きみの方こそ疲れた顔をしているよ。だけど意外に平気そうだね、ジョナスがいなくても」

 執務室内に他の役員がいない気安さからか、銀狐は露骨にそんな事を口にする。
「忙しくてね――。淋しいなんて思う暇もないんだ」
 僕は吐息を漏らした。

 夏季休暇までの残り数日、今まで鳥の巣頭がほぼ一人でこなしていた様々な役務が、副寮長である僕の肩にずっしりとかかっていた。
 そんな中で、次年度副寮長になる子は、鳥の巣頭からいろいろ言い含められていたのだろう、僕を気遣いながら良く手伝ってくれていた。彼は真面目で気の利くいい子だ。ずいぶん助けられている。

 寮内だけではない。生徒会の仕事も。それに――。

 夏季休暇に入る前に、やらなければならない事がごまんとある。その雑多な忙しさが、本当に彼の不在からくる空虚感を心の片隅に追いやってくれていたのだ。


 銀狐はそんな僕を慰めるように、見透かすように、にっこりと笑った。立ちあがり、伸びをすると軽く上半身をストレッチして窓辺に腰かける。

 僕も少し休憩しようと立ちあがった。お茶を淹れようと銀狐をふり返ると、彼は地上にいる誰かに、にこやかに手を振っていた。声をかけるでもなく、とても静かに。でも嬉しそうに。


「誰に手を振っているの?」と歩み寄り、僕も窓の下を覗きこむ。

 そこには、黒いローブを颯爽と翻し、遠ざかっていく大鴉の背中があった。

「強い子だよ。あんな目にあったっていうのに」
 ちらと僕を見遣って、銀狐は目を細めて呟いた。ほっとしたように微笑んではいたけれど、その微笑にはどこか遣り切れなさが漂っている。

「お茶を淹れるけど、きみは?」
「いただくよ」

 紅茶を淹れ、窓辺に座る銀狐にソーサーごと渡し、僕もその横に腰かけた。

 窓から見おろす芝生には、大鴉の姿はもうなかった。時折、芝生を横切る生徒の話し声や、笑い声が切れ切れに流れてくる。午後の陽射しを照り返す芝の緑が眩しい。

「あの彼、」

 水を向けると、銀狐は吐息を漏らして話し始めてくれた。僕は誰にも喋ったりしない、と少なくともこの件では、銀狐は僕を信じてくれている。

「あの子、すごく誠実に対応していたそうだよ、あのいかれたチューター相手にさ。ノイローゼに陥っていたあいつのためにお茶を淹れたり、食事の世話をしたり。あの子、あいつが病気だって解っていたんだ」

 僕は黙って頷いた。

 確かに、大鴉はあのチューターが中毒患者だってことを理解していた。ドラッグを欲しがって、禁断症状のただ中にあったことも。

「きみだから言うんだけどね、」と、銀狐はこくりと紅茶を一口飲み、どこか冷ややかに見える鋭い瞳を僕に向けた。

「うん」
 僕はむず痒い思いで頷いた。

「あのチューター、薬物中毒だったんだ」

 やっぱり!

 僕の背を冷や汗がたらりと伝い流れる。

 これは僕の話じゃない。僕の話じゃないんだ――。

 僕自身がこの話を銀狐に伝えようと思っていたのに、いざ彼の口から聴く「薬物ドラッグ」という単語に、僕の心臓はとても平静ではいられない。

 銀狐は瞼を伏せ、また一口こくりと紅茶を飲んだ。
 僕の膝の上では、ソーサーの上のカップがカチャカチャと耳障りな音を立てている。僕はその音を止めようと、震える手でティーカップを持ちあげる。

 銀狐の瞳の色によく似た、金色の水面にさざ波が立つ。ゆらゆらと。

「もっとも薬物と言っても、睡眠薬なんだけどね。中毒性が高くて、英国では禁止薬物に指定されている。レイプドラッグって言えばわかるかな? 即効性が強くて、短時間で目が覚める」

「レイプドラッグ? でも、それって落としたい相手に使うものじゃないの?」
 僕はよく理解できなくて訊き返した。声が微かに震えている。

 どうか、彼に変に思われませんように!

「普通はね。でも、この薬、ほんの少しの量で大量の酒を飲んだような酩酊感を味わえるんだ。だから発売されてしばらくした頃に、睡眠薬とは別の使い方で大流行したことがあるんだよ。酒を飲むより躰にいいってね。だからさ、常用する奴が結構いるんだよ。後から中毒性や副作用なんかが解るようになって、販売禁止になったんだけどね」
「どんな副作用なの?」

 チューターのことよりも、そっちの方が気にかかっていた。あの男、他人ひとにそんな薬を使っているうちに自分もはまってしまった。結局は、そんなところなのだろう。そんな卑劣な奴のことなんてどうだっていい。
 それよりも、大鴉のお兄さんはどんな離脱症状に苦しんでいたのか。それは、僕と似たものなのか……、それを知りたかった。

「不安、恐怖、不眠、吐き気、急に呼吸困難に陥ったり、それに酷くなると幻覚、幻聴。酒やドラッグの禁断症状と、とても似ているらしいよ」

 そんな薬を大鴉のお兄さんに飲ませていたなんて――。

 僕は遣り切れなさで、返す言葉がでてこなかった。


 あれからインターネットで検索した大鴉のお兄さんの経歴は、そんな薬物で苦しんでいた過去があるなんて、微塵も感じさせないとても立派なものだった。

 僕たちのエリオットと並ぶ名門校ウイスタンの奨学生で、在学中に発明で賞も貰っている。今はケンブリッジ大学に通うかたわら、白い彼の会社の研究開発に携わっている。天使くんのポスターで一躍世間の話題をさらった白い彼の会社の製品は、大鴉のお兄さんの発明なのだそうだ。

 それなのに、大鴉は、お兄さんはいまだに離脱症状に苦しんでいると言っていた。
 そんな辛い症状と闘いながら、彼は――。

 いつまでもだらしがないままの僕なんかとは、根本からして違うのだろう。解っている。解っているけれど、僕はその事実に励まされた。

 大鴉も、白い彼も、大鴉のお兄さんがそんな状態でいると知っていて、おそらく、そんな彼をずっと傍で支えながら、彼が全快する日を心から祈っているんだ。

 決して、見捨てることなく――。

 僕の、鳥の巣頭のように。

 こみあげてくる熱い思いに唇を引き結んだ時、信じられない言葉が耳に飛び込んできた。

「この薬の副作用って、なんだかきみの様子に似ているよね」

 カチャン、とまだたっぷりと入っていた紅茶のカップをソーサーに戻した。指から力が抜け、落ちたところにソーサーがあった、と言うべきか。勢いで、金色の液体は白い縁から溢れ、零れていた。

 僕は息を止め、銀狐を――、じっと瞬きも忘れて、見つめていた。





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