微睡む宵闇 揺蕩う薫香

萩尾雅縁

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四章

151 卒業セレモニー4

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 ふり返るときみがいる
 あたり前だと思っていた



 けたたましい救急車のサイレンの音が遠ざかっていく。
「何かあったのかな?」
 眉を寄せる鳥の巣頭に、僕は首を捻ってみせる。
「あの音を聞いたときは、ぎょっとしたよ。きみに何かあったのかと思って。でもすぐにきみの元気な顔を見れて心底ほっとした」

 鳥の巣頭はサイレンの音に驚いて、クリケット場からの坂道を下ってきたところだった。だから、すぐに僕を見つけてくれた。少し走ったのもあって、僕の頬は紅潮していて、駐車場での青ざめた様子とは違い、ことさら回復したように見えたようだ。



 僕たちはそのままレセプション会場に戻ったけれど、賑やかな歓談の輪には加わらず、少し外れた木陰に佇んだ。

「レセプションも終盤だね。きみはもう戻って」
 僕がそう言うと、鳥の巣頭は不服そうに唇を尖らせた。
「生徒総監として。きみは監督生と並ぶ、この学校の代表生徒なんだよ」
 樹の幹に背中をあずけ、鳥の巣頭の手を握りしめた。続く表彰式、セレモニーに出席できる在校生は、次期総監と副総監だけなのだ。名残惜しそうに鳥の巣頭は指を絡めてくる。

「部屋で待っているから」
「遅くなるよ」
「平気。ちゃんと起きて待っている」

 大きくため息をついて、やっと僕の手を放した。



 鳥の巣頭は、何度も僕を振り返った。だが、やがて緑の芝生に集まる花のように派手やかな衣装を着こんだご婦人方や、仕立ての良いスーツ姿のお洒落な紳士方、颯爽とした黒のテールコートの卒業生でひしめきあう群れが、あいつを呑みこんでいった。もうどこにいるのかも判らない。朗らかで楽し気な声がさざ波のように広がる中――。

 きみに相応しい華やかな社交場。非の打ち所のない世界。それがきみの生きるべき世界。僕が憧れてやまない場所――。

 笑い声が、くるくる廻る万華鏡のような、とりどりの光となってさんざめく。虚ろな心を通りすぎる。きらきらと僕を引っ掻きながら。



 その群れから一人が抜けでて、僕の方に向かってきている。

「とんでもない事件発生だ。こんな晴れがましい日だっていうのに!」

 銀狐は僕に目配せし、樹の裏側に回って腰を下ろした。

「何かあった?」

 僕は素知らぬふりを装いながら、彼の横に並ぶ。

「ノース先生、カレッジ寮のチューターなんだけどね、うちの銀ボタンくんを巻きこんで心中未遂だよ! 内緒だよ。銀ボタンくんの名前は出さない。表向きは、ノース先生の自殺未遂ってことにするからね」

 僕は狐に摘ままれた思いで、さすがに言葉が出てこなかった。どこをどう捻くったら、あの状況が、そんなとんでもない展開になるんだ!

 仰天している僕に同情するように、彼は僕の肩に手をのせた。

「心配ないよ。彼は無事だから。あいつに殴られて気絶させられただけだから。今、医療棟で手当を受けているよ」
「……どうして、そんなことに?」

 声を詰まらせながら聞くと、彼は腹立たしげに顔をしかめた。
「前からあのチューター、銀ボタンくんに気があるんじゃないか、って噂はあったんだよ。でも相手にされなくて、恋煩いで悩んだ末に、無理心中を図ったんじゃないかって」

 なんて、答えればいいんだろう?

「同じ寮の子が、あいつの様子がおかしいのに気がついて後をつけていてね。ちょうど彼の後見のソールスベリー先輩もみえていらしたから直ぐに知らせてくれて、事なきを得たんだ」
「そのチューターは?」

 あの時、薬入りのボトルを飲んだ……。

「睡眠薬を飲んで自殺を図ったんだけどね、駆けつけた先輩が応急処置を施して、命に別状はないって」

 ほう、と安堵のため息がでていた。良かった。心底、そう思った。

 ぎゅっと目を瞑った僕を、銀狐が訝しそうに見つめている。

「こんな日に死人がでるなんて、嫌だもの」

 鳥の巣頭の、お祝いの日なんだ!

「まったくだね」

 銀狐は深く息を吐いて頷いた。

「まぁ、そんな事情だ。きみ、これからいろんな子にこの事件のことを尋ねられると思うけれど、生徒会の姿勢として、一切ノーコメントを貫いてくれる?」
「もちろんだよ。だいたい、答えようにもこれっぽっちじゃ何も判らないよ。僕の方が訊きたいくらいだ」

 大真面目にそう答えると、銀狐はくすりと笑って立ちあがった。

「それじゃあ、後をよろしく」

 ああ、もう閉会なのか――。




 会場へ戻っていく彼を見送り、僕はそのまま視線を澄み渡る空へ向けた。空の高みに、小さい点のような鳥の影が悠々と風に乗っている。鳶か、鷹か……。群れを成さない孤高の鳥だ……。

 まったく、とんでもない一日だ。


 あの薄昏い森の奥で見た大鴉は、僕が思っていたような、自由で独立した鳥なんかじゃなかった。
 この地上に繋がれ、怒涛のような感情に押し流され、抑えようのない情念に突き動かされて行動する、憎しみに身を焦がした一人の人間だった。

 僕の憧れ続けた空の月。永遠の純潔に輝く月光。

 そんな彼の剥きだしの感情は、今まで見たどんな彼よりも僕の心を揺さぶった。彼もまた僕と同じ、自分の欲と、罪の狭間で悩み揺蕩う人間だというこの事実が、僕を冷静ではいさせてくれなかった。

 ほとんど理解できなかった彼の語る事情から、彼の取った行動を批判することは、僕にはできない。だが、肯定することもできない。
 白い彼がいてくれて、彼の友人たちが駆けつけてくれて、本当に良かったと思う。

 僕は、初めて触れた彼から溢れでる感情の荒波に、呑まれ、流され、溺れてしまっているのかもしれない。

 彼の言葉が、深い砂底を掘り起こしてなお打ち寄せる波のように、僕の記憶の底に沈んでいた鳥の巣頭の想いを削りあげ、汲み取り、僕の元へと届けてくれたことに、これほどまでに打ちのめされているのだから――。

 今まで届かなかったあいつの言葉が、波涛となって覆い被さり、僕を呑みこんだのだ。その一言、一言が、砕け散る、飛沫となって。突き刺さる。

 鳥の巣頭は、大鴉みたいに叫んだりしない。詰ったりしない。怒りを露わにしたりしない。じっと不安そうな瞳で僕を見つめるだけだった。言い難そうに、僕を咎めるだけだった。口煩く、僕に意見はしたけれど。

 不器用なあいつは、自分の感情を大鴉のように真っ直ぐに、相手にぶつけるのが苦手なんだ。

 だから「心配なんだ」「不安なんだ」と、何度も、何度も繰り返して僕に訴えていたのに――。

 僕はずっとそんなあいつの気持ちを無視していた。ずっとあいつの想いから、目を逸らし続けていたんだ。

 大鴉が、彼のお兄さんの苦しみを何年も見守っていたように、鳥の巣頭も、この学校に入学してからずっと、この卒業の日までずっと、僕の傍に、僕とともにいてくれていたのに……。

 鳥の巣頭と過ごした時間の内、いったいどれだけ、僕はあいつと、本当にともにいたのだろう。躰だけ。そこに居ただけ。僕の心はどこにもなかった。そんな僕を、あいつは見ていた。ずっと、見ていたんだ。

 涙が溢れて、どうしようもなかった。
 申し訳なくて。
 鳥の巣頭に謝りたくて。


 でも、あいつの晴れの日を涙で汚すのが嫌だったから、僕は立ちあがって部活棟に行き、洗面所で顔を洗った。


 閉会のスピーチが終わり、開かれた窓の向こうから拍手が響いてくる。
 ここから卒業生と先生方はカレッジ・ホールに移動し、保護者は帰路につく。会場の後片づけが、この場に残る僕の仕事だ。


 せめて、あいつをこれ以上心配させないように、役員の務めを最後までまっとうしたい。




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