微睡む宵闇 揺蕩う薫香

萩尾雅縁

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四章

149 卒業セレモニー2

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 遠い彼方の
 届かぬ幻惑
 それすらも
 錯覚



 夏の陽射しを遮る樹々の木陰は、ひんやりとした静寂に包まれている。
 立ち止まり、ゆっくりと香る緑を吸いこんだ。柔らかな葉擦れの音。重なる梢から零れる木漏れ日。道ひとつ向こうでの現実が、まるで幻だったかのように虚ろに変わる。

 張りだした樹の根に腰を下ろし、ほっと息を継いだ。汗は渇き、震えもいつの間にか収まっている。心のどこかで、狼は僕を見張っていて僕を追ってここに来るのでは、と思っていたのだけれど、そんなことはなかった。
 あいつ、何しにここへ来たのだろう? 卒業生の父兄、なんて柄でもあるまいし。まして、来賓のはずもないし。

 決まっている。僕を脅しつけるために来たのだ。僕が言う通りにしなければ、いつだって自分は僕の世界をバラバラに打ち砕くことができるのだと、見せつけるために!

 僕はちゃんと、やる。ちゃんと、できる。大丈夫――。



 林立する樹々の狭間に、黒い影が翻る。
 熱に浮かされたようにあの男のことばかり考えていたから、幻影を見たのかと思った。

 違う! あれは大鴉だ!

 続く荒い足音に驚いて、反射的に立ちあがっていた。

 なんだってこんなところにいるんだ? 彼は銀ボタンなのだから、レセプションと、その後すぐに行われる表彰式に出なきゃいけないのに!

 深く考えることもなく、僕は彼を追った。追ったところで、彼に声をかける勇気が自分にあるとも思えないのに……。



「うわぁぁ……!」

 ふいに、低い、呻き声とも叫び声ともつかない悲痛な男の声が、樹々を揺さぶる。
 僕は仰天して太い幹の後ろに隠れ、その声の主を食いいるように見つめていた。

 それは大鴉ではなく、彼につきまとっていたチューターだった。見るからに薬物中毒の怪しげなあの男だ。

 顔を被いうずくまったこの男の頭上から、聞き覚えのある声が降る。

「俺のこと、思いだしてくれた?」

 大鴉!

 思わず声を漏らさないようにと、僕は自分の口を手のひらで覆った。

「俺は一日だってあんたのこと、忘れたことはなかったのに」


 どういうこと? この二人、前からの知り合い?

 訳が解らず、ただ息をひそめて彼らの会話に聴き耳を立てた。僕からは大鴉の姿は見えなかった。早口の彼の言葉は聞き取り辛いうえ、僕には何の話をしているのかさっぱり解らなかった。

 だけど――、

 顔面蒼白で、幽鬼のようにおぞましい形相をしたチューターが、震える手を懐にさし入れ、銃を取りだして斜向かいの大木に向けた時には、さすがに腰を抜かして……、僕は恐怖のあまり地べたにしゃがみ込んでしまっていた。

「へぇ、そんな状態でもちゃんと携帯しているんだ。いいよ、撃てよ。狙いやすいようにそこまで降りてやるよ」

 こんな時ですら、大鴉はあいつをせせら笑い、挑発するようなことを言っている。
 ザザーと梢を揺らし、黒い羽根を翻して樹から降りたった大鴉は、泰然とチューターを見おろしている。

 僕はそんな彼と、あの男の持つ銃が恐ろしすぎて、それなのに目を逸らすことができなくて、奥歯を噛みしめるだけで身動き一つできなかった。

「なぁ、ちゃんと答えろよ。いったい、どれほどの量のドラッグを飛鳥あすかに飲ませたんだ? 飛鳥、いまだに離脱症状がでるんだ。お前に殺されかけてから、もう二年以上経つっていうのに」

 ドラッグ――、離脱症状……!

 その単語だけが、彼の言葉の語群から離れ、僕の中に飛びこんでいた。僕は両手で自分の口許を覆っていた。吐息ひとつ漏らさぬように。その手はすぐに、自分の両腕を抱き締めていた。この躰の震えが、振動となって彼に伝わったりしないように。


 鈍い銃声が濃い緑の枝葉を揺るがせて響き渡る。何度も、何度も。その度に、空気がつんざくように悲鳴をあげる。


 怖くて、怖くて、吐き気がする。それなのに、目が逸らせない。この目を瞑ることすら許されない。



 大鴉が、笑っている。くすくすと。

「さすがにあんたプロだね。そう簡単には喋ってくれないんだ。じゃ、これならどう? あんたが、今、一番欲しいもの」

 黒いローブのポケットから取りだされたペットボトルが高く掲げられ、木漏れ日を跳ね返し金色に輝いている。

 プロって、どういうこと? このチューターもマフィアなのか……?

 僕は混乱する頭を抱えながら、必死に彼の状況を理解しようと思考を巡らせる。ドラッグ、離脱症状、そうとしか考えられなかった。

 虚ろに揺蕩う視界の先で、大鴉は語気を強め足下のチューターを罵っている。
 この男が、アスカという人にドラッグを飲ませたこと。その中毒症状、離脱症状でその人がずっと苦しんできたということ。そんな状態がもう何年も続いているということ……。


「あんたは、たった三日間でも離脱症状に耐えられないのに。なぁ、ギルバート・オーウェン!」

 座りこんだまま、呆けたように虚ろな瞳を大鴉に向けるあの男を見おろし、大鴉は大声で怒鳴りつけた。

「答えろ! 答えろよ、オーウェン! いつになったら、飛鳥の悪夢は終わるんだ?」


 ――きみを毎夜襲う悪夢から、どうすればきみを救いだすことができるの?

 鳥の巣頭……!

 恐怖よりも何よりも、浮かんできたのはあいつの顔だった。

 きみも、こんな想いを抱えながら、僕を見ていたの?



 喉元を突き上げる嗚咽を逃すまいと、僕は必死で息を殺した。

 僕に向けられた大鴉の背中が、滲んで見える。震えて見える。彼は、泣いているのだろうか?
 誰よりも強くて、自由で、孤独な大鴉――。僕の憧れ――。


 きみに初めて出会ったこの森で、僕は初めて、きみという人を見ている……。



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