微睡む宵闇 揺蕩う薫香

萩尾雅縁

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四章

146 クリケット場

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 大空を見あげる
 僕は
 飛べないペンギン



「大丈夫だから、下ろして」
 僕を医療棟へ運ぼうと抱きかかえているハロッズにしがみついたまま、彼の耳に囁いた。
「もう平気」
 心配そうに僕をのぞきこむ面に微笑みかける。ボート部の二人も気遣わしげに僕を見ている。
 徐々に腕を緩め支えてくれながら、ハロッズは僕を地面に下ろしてくれた。

「ありがとう。僕はもう戻るよ。生徒会のみんなが変に思うから。詳しいことはこの二人に聞いて」
「でも、きみ、真っ青だよ。そんなんじゃとても、」
 納得しかねると頭を振り、僕を見つめる青い瞳に微笑わらいかけ、その手を指先できゅっと握った。
「ありがとう。また連絡するから」

 ハロッズはまだ何か言いたげだったけれど、「僕たちがついているので」と、すかさず間に入ってきた二人に阻まれて、渋々頷いてその場を後にした。



「持ってる?」

 ちらりと二人の顔を見ると、一人が神妙な顔で頷いた。
 森の入り口からもう一度木立ちの奥に足を向けると、僕に一、二歩遅れて黙って彼らも後に続く。




 道路に面した駐車場が樹々に隠れて見えなくなった辺りで、僕は樹にもたれて腕を伸ばした。すぐにその指に目当てのものが渡された。
 唇に銜えると、すかさずライターで火を点けてくれる。

 ゆっくりとジョイントを吸いこみ、染みいるような静かなため息に変えて吐きだす。
 白い煙に、僕の中に溜まっていたもやもやとした汚らしい澱が溶けだしていく。身体がずんと沈みこむ。

 僕は軽く頭を振った。

「ありがとう、もういい」

 一口だけ吸って、吸い差しを返した。二人はそれを代る代る回し呑みして終わらせた。

「ちゃんと話はしたからね」

 深く深呼吸して息を整え、額にかかる髪を指先でさらりと掻きあげた。背筋を伸ばし、頭を高く保つ。



 歩きだすと、二人はほっとしたようにぺちゃくちゃと喋りだした。でも、僕はもう、そんなどうでもいい話なんて聞いていない。

 久しぶりのジョイントに頭がくらくらする。戻る前に顔を洗わなければ。それからコロンを。臭いを消して――。


 これで大丈夫だ。ラグビー部さえ掌握しておけばなんとかなる。蛇、梟、田舎鼠のルートから、僕や子爵さまを挟んだことで、一番の大口顧客のラグビー部への販売が途切れてしまったことが問題だったのだから。
 ラグビー部とボート部は表面上仲が悪い。途切れてしまった販売ルートをつなぐためにも僕が必要だったのだ。

 でも、ラグビー部の厄介さは、キャプテンのハロッズじゃない。使い走りまでもが僕とやりたがって煩くつきまとってくるから、梟はラグビー部からOBに客層を変えたのだ。その辺りを上手く切り抜けていかないと――。

 ぞわぞわとむず痒い思いに一人眉をひそめていると、「あの、モーガン先輩、」と、クリケット場の手前で、遅れて歩いていた子がおずおずと言い難そうに僕を呼び止めた。ちょいと小首を傾げると、その子は視線を彷徨わせ、「ボタンを」と呟いた。
 僕は自分の服装をしげしげと見廻し、鮮やかな赤のウエストコートのボタンを留め直し、そこについていた深緑の草葉を払い落とした。
「もう変なところはない?」
 二人を見比べながら微笑みかけると、二人とも赤くなって顔を見合わせ所在なさげに俯いてしまった。



 クリケット場の端にある部活棟で洗面所を借り、手と顔を洗い髪を整えた。コロンを振りかけ、あの子たちに貰ったミントタブレットを噛み砕いた。

「ねぇ、臭わないかな?」

 おもむろに差しだした僕の指先に鼻を寄せ、上目遣いにボート部の子が僕を見る。
「大丈夫です」
「そう?」

 久しぶりすぎて、僕の嗅覚がおかしくなっているのだろうか? いつまでもジョイントの甘ったるい香りがまといついているような気がする。
 ため息を漏らし、だがこれ以上ぐずぐずしている訳にもいかず、僕たちは生徒会のテントに戻った。




「あ、マシュー!」
 僕を見つけ、鳥の巣頭の顔がぱっと明るくなる。
「ほら、カレッジ寮の試合がいいところなんだ!」

 言われて目を向けた緑のフィールドには、大鴉がいる。

「彼、すごいんだ。寮対抗で下級生が混じっているなんて、めったにないことなのに、ここまで勝ちあがってきているんだよ!」
 興奮して話す鳥の巣頭に、僕はにっこりして頷く。
「創立祭でも大活躍だったものね」

 とはいえ、学年別試合の創立祭とは訳が違う。寮対抗スポーツ大会は文字通り、その寮の選りぬきの選手しかでられない。自然、クリケット部の選手や運動部の上級生で構成されることになるのだ。

「彼はオールマイティにすごいよね、銀ボタンなのも納得だよ」

 鳥の巣頭はじっと、フィールド上の大鴉の機敏な動きを目で追っている。

「本人は、銀ボタンも、クリケットも嫌がっているけどね」

 いつの間にか、銀狐がくすくすと笑いながら横に立っていた。

「マシュー、目が赤いよ。また寝不足?」
 横目で鳥の巣頭をチラ見しながら、銀狐が揶揄うように僕に言う。僕は思わず目を伏せた。そっと盗み見た鳥の巣頭は、真っ赤になってそっぽを向いている。いつもなら恥ずかしいと思っただろうが、今は彼のこの勘違いが有難い。僕は胸を撫でおろし、素知らぬふりをして大鴉を眺めた。銀狐も、それ以上はつっ込んではこなかった。


 いつも黒いローブの大鴉が真っ白のユニフォームを着ていると違和感がある。何を着ていても、あの独特の雰囲気は変わらないのに――。
 翼のようなしなやかな腕が白球を投げる。飛ぶように走る。大鴉はどこにいても、何をしていても、孤高で自由だ。
 そんな彼を見ていると、僕は何もかも忘れられる。束の間、彼のようにとても自由な気分に浸れるんだ。僕を掴むこの枷を忘れて。


「ほら、もうじきに試合が終わりそうだ。大番狂わせのカレッジ寮も、クリケット部の連中にはやはり敵わなかったね」
「来年は判らないよ」
 残念そうに呟いた鳥の巣頭に、銀狐はにっと笑い返した。
「きみが寮長だものね」
 僕にもやっと笑みが浮かんだ。

「さあ、エルダーフラワー水の準備をしようか」
 銀狐が僕の肩をぽんと叩いた。
 鳥の巣頭は、「じゃ、頼んだよ。マシュー、終わったら寮のテントにも顔をだして」と寮のテントに走って戻る。鳥の巣頭たち最上級生は、もう生徒会の役務を抜けて、今日は寮長としてこの寮対抗戦を応援しているのだ。

「きみ、顔色が良くないよ。無理しないで」
 鳥の巣頭を見送りながら、銀狐が呟いた。

「平気。行こうか、先生方もお待ちかねだよ。今日は陽気がいいもの」

 僕はわずかな雲の棚引く蒼空を目を眇めて眺め、銀狐に微笑みかけた。試合幕間にエルダーフラワー液を冷えた炭酸水で割ったジュースを用意し、観戦している先生方に配るのが、今日の僕たちの仕事だ。

 銀狐は眉根を上げて僕を見た。
「きみがいると先生方が喜ばれる。きみは気配りが細やかだ、って褒めていらしたから」
 そう言ってにっこりし、僕の背中をぱんと叩いた。





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