微睡む宵闇 揺蕩う薫香

萩尾雅縁

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四章

145 引継ぎ

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 昨日の僕を
 僕はもう
 思いだせないんだ



 ハーフタームの九日間なんてあっという間で、学校に戻ると残りの行事をこなすのに、生徒会は大忙しだ。
 休みあけ、まずは次年度の監督生、寮長、各部キャプテンと新生徒会役員との顔合わせを終えた。

 僕は順当にガラハッド寮の寮長と、新生徒会役員に就任できた。副寮長は、僕よりもよほどしっかりした子で、鳥の巣頭の推薦で新生徒会役員だ。この子もボート部の子なので、新生徒会役員はボート部が四名になる。

 前評判通りの役員選出がほとんどだったけれど、一番驚かされたのは銀狐のことだ。
 彼、表向きはその成績優秀さが再評価されて、でも内情はカレッジ寮の寮長に泣きつかれて、カレッジ寮に戻ることになったのだ。
 その寮長に、次年度監督生代表と寮長就任も指名されたのだけれど、監督生と生徒会は兼任できないので、現副寮長が代表に、銀狐が寮長に、ということで収まったらしい。もちろん、生徒総監は予定通り彼に決まった。

 この銀狐の突然の転寮は、どうやら大鴉絡みの詐欺事件に関する寮内のいざこざが関係あるらしかったけれど、銀狐も、鳥の巣頭も言葉を濁して詳しく教えてはくれない。他の役員の噂話の感じでは、もう丸く収まったということなので、僕も突っ込んで訊くことはしなかった。

 ともあれ、銀狐が奨学生に戻りカレッジ寮の寮長になることが、僕は自分のことのように晴れがましく誇らしい。



 だが、こうした人事の入れ替わり、引継ぎは否応なく僕を駆りたてる。
 しばらく止まっていたジョイントの受け渡しを再開しなければならない。僕が直接手渡していた連中の後輩を紹介してもらったりもしなくては――。気ばかりは焦るのに、ばたばたしすぎてちっともそんな時間が取れないのだ。僕よりも、新役員になるボート部の子たちの方がてきぱきと動いてくれて、自分たちで顔を繋いでいっている。まだ新役員としての責務があるわけでもないのに、生徒会にも自発的に顔をだして雑用を手伝ってくれたりしている。

 同じ執務室内にいると、彼らは僕をちらちらと眺めて、もの言いたげにしている時がある。でも、銀狐や鳥の巣頭の手前、声をかけてきたりはしない。僕はそんな視線を感じる度に、胃が痛み、冷や汗をかいていた。

 彼らの言いたいことは解っている。僕は行動に移さなければならない。



 そんなふうに悶々と悩みながら日をすごしている内に、やっとチャンスが巡ってきた。

 寮対抗クリケット大会の日だった。
 生徒会テントにいた僕の腕を、ボート部の片割れが引っ張った。
「先輩の名前で呼びだしておきましたから」
 そっと辺りを見廻した。取りたててトラブルもなく進んでいるので、テント内にはのんびりとした空気が漂い、その場にいる役員連中は熱心に試合に見入っていた。
 今、鳥の巣頭は寮のテントにいるはずだ。銀狐は他の役員に呼ばれて席を外している。僕は腰かけていたベンチから立ちあがり、のろのろと彼らの後に続いた。



 連れていかれたのは、クリケット場からほど近いフェローズの森だ。その入り口で待っていたのは、ラグビー部のキャプテン、あの、ハロッズのチョコレートだった。
 ボート部の二人をその場に残し、僕たちは森に入っていった。


「モーガン、きみの方からお呼びがかかるなんて光栄だな」
 長い指先が僕の首筋を撫でる。
「で? 何? 引継ぎのこと?」
 耳許に熱い息がかかる。
 僕は自分が後退りしたり、逃げだしたりしないように、木の幹に背中を預けていた。
「後輩を紹介してあげるよ。彼と連絡が取れなくなってから、僕も困っていたんだ」
 掌が、テールコートの下の、ウエストコートとシャツの間に差しこまれ、逆の手で、もどかしそうにウエストコートのボタンを外しにかかっている。

 ぞわりと悪寒が走った。

 僕は糸の切れた操り人形のようにその場に座りこみ、しゃくり上げて泣きだしてしまった。涙が溢れでてどうしようもなかった。

「モーガン、どうしたの?」
 ハロッズはぽかんとした間抜け面で僕を見おろし、慌てて自分も腰をおろし、僕の肩を抱いた。
「売上――。ジョイントを、売らないと」
「ああ、可哀想に。ノルマがあるんだね」
 僕にかけられた彼の声音が意外にも優しくて、僕はつい本音を零してしまっていた。大きな手が僕の小さな頭を包みこむように撫でている。

「どのくらい買えばいいの?」

 僕は正直に、梟の手帳にあった金額を告げた。ハロッズは小さく息を呑み、一息ついてから考え深そうに声を潜め、僕を慰めるように肩を叩いた。

「僕一人ですべて引き受けるのは無理だけれど、できるだけ協力するよ。あれが手に入らなくなってから、みんなイライラしているしね。とりあえず、これくらいならすぐにでも。振込先は前と同じでいいの?」

 指で数字を示し、こいつは舌先で僕の涙を舐め、頬に軽くキスした。おずおずと彼を見ると、「大丈夫、そんなに心配しなくても何とかなるさ」と、大袈裟に眉毛を上げ明るく笑い飛ばした。

 振込先は梟の口座だったから、変えなければいけなかった。面倒なことは全部、ボート部の二人がやってくれている。僕は詳しいことはあの二人に聞いて、と説明した。

 ハロッズは頷きながら、「でも、受け渡しはきみがしてくれるんだろう?」と僕の肩から腕を撫で擦る。
「でも、あなたはもう卒業でしょう?」
 僕は瞼を瞬かせて訊ねた。溜まっていた滴がぽろりと零れる。
「あそこの部屋はもう使えないの? きみのお呼びならいつだって来るのに!」

 ああ、もう嫌だ――。

 眉根を寄せて俯いた僕を、ハロッズは慌てて抱き寄せた。

「困ったことがあるなら、相談にのってあげるよ」

 放せよ、その腕を!

「早く売り上げを渡さないと、何をされるか解らないんだ。怖いんだよ」

 嫌なんだ、こんなことをしている自分が!

 また溢れてきた涙を、ハロッズの掌がせっせと拭っている。

「僕が何とかしてあげるよ。他の部のキャプテン連中にも口をきいてあげるからね」

 近づいてきた顔から眼を逸らし、ぎゅっと瞑った。

 我慢するんだ! 今までだって平気だったじゃないか!

 重なる唇の、余りの気持ち悪さに息が詰まった。必死に吸い込んでいるのに、空気が気道に下りてこない。

 顔を離したハロッズが驚いて僕を見ている。

「きみ、大丈夫?」

 僕は頷いた。

 意識が遠のきかけている虚ろな視界で、木漏れ日がきらきらと躍る。木の葉が風に揺れる。僕の目に映る世界もゆらりと、揺れた。

「そんな訳ないだろ!」

 慌てたハロッズが僕を抱きあげている。森の入り口で待つボート部の二人を呼ぶ声が、どこか遠くでかすかに聞こえた。





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