微睡む宵闇 揺蕩う薫香

萩尾雅縁

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四章

143 僕のテディ

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 表のきみと
 裏の僕
 捻れて出会う
 メビウスの輪



「きみは僕のテディじゃないんだ」

 鳥の巣頭の部屋に駆けこむと、驚いて椅子から立ちあがったこいつに抱きついて、声を絞りだして囁いていた。

「テディって?」
 こいつはそっと僕を抱きしめ返してくれながら、穏やかに訊ねた。
「テディ・ベア」
 喉元を突きあげるような嗚咽で、上手く声が出ない。言いたいことはたくさんあるのに、言葉にならない。

「僕もずっと持っていたよ。まだ家に置いてあるはず。プレップの寮に入る時には持参したんだけどね、さすがにエリオットに持っていくのは恥ずかしくて」
 懐かしい思い出話に、こいつはくすくす笑っている。僕の背を優しく摩りながら。


「そうか、僕はきみのテディだったんだね」
 心なし身をかがめるようにして、鳥の巣頭は僕をぎゅっと抱きしめた。

「ありがとう、マシュー」

 どうして?

 僕は止まらない嗚咽にしゃくりあげながら訊ねたけれど、上手く声にならなかった。

「きみは僕を必要としてくれていたんだね」

 静かな声音が、僕を落ちつかせようと穏やかな言葉を紡ぐ。 

「それだけで充分だよ。僕がきみに求めた想いとは違っていたにしても、僕にとっては充分な救いだ。きみの役に立てていたのだもの。……テディ・ベアにするみたいに、きみが辛い時に抱きしめて、苦しい時に放り投げて、蹴り飛ばして、淋しい時に頬擦りする。そんなふうに僕に甘えてくれていたのなら、僕はすごく幸せ者だよ。ありがとう、マシュー」


「きみも、僕を、捨てて行くの……?」

 子爵さまや、梟みたいに……。

「捨てる? あの手紙をそんなふうに受け取ったの? ごめんよ、僕は口下手だから……。そうじゃないよ。僕が言いたかったのは、きみを愛している、ってことだよ」

 鳥の巣頭は、優しく唄うように囁きかけた。子どもをあやすように僕の背をトントンと叩き、傍にあった椅子に僕を腰かけさせ、自分は床に座って僕を見あげて、親指の柔らかな腹で僕の涙を丁寧に拭う。ボート部のこいつの掌は豆だらけで、固くてささくれだっている。だからこいつは僕を傷つけないように、いつも指先でそっと触れるんだ。

「きみが好きだよ、マシュー」

 鳥の巣頭はそっと僕の膝に頭をのせ、目を瞑った。



「僕は自分で自分が信じられないくらいの馬鹿者だよ。ずっと、マイルズ先輩を信じていた。今でもどかこで信じているんだ。先輩がきみにジョイントを渡していたのは、きみを使ってお金儲けをするためだけじゃなくて、やっぱりきみの苦しみを少しでも和らげてあげるためだったって」

 鳥の巣頭は頭を起こすと、僕の膝に腕をかけ、どこか覚悟を決めたような、これから懺悔でもするような決意を秘めた瞳で僕の顔をじっと見つめ、話し始めた。

「ジョイントは英国では禁止されているけれど、外国では許可されている国もあるし、各国で向精神薬として使用されているって、先輩の言うそんな戯言を、僕は信じていたんだ」

 深い吐息を堰止めるように喉が上下する。息を詰め、ひと呼吸置いてから、自嘲的な笑みを浮かべて言葉を継ぐ。

「先輩の言う通り、あれを吸った後はきみはぐっすりと眠れていたし、食事もほとんど取ろうとしなかったきみが、驚くほどよく食べてくれた。ずっと元気を取り戻せていると思っていたんだ。――あんな、酷い中毒性があるなんて思いもよらずに」

 鳥の巣頭の瞳が涙で滲んで見える。それとも、そう見えるのは、僕の目に溜まった涙のせい?

「知ってからも、ジョイントをやめればすむことだと、すごく安易に考えていた。医者にかかれば大丈夫。きみが強い意思を持ってくれれば大丈夫。そんなふうに、自分勝手に……。きみの苦しみなんかちっとも考えていなくて……」

 僕の膝の上で、鳥の巣頭はぐっと拳に力を入れた。自分を戒めるように。

「強い意思が必要なのは、僕の方だったのに……。きみがジョイントをやめて、ここにこうしていてくれることが、奇跡のように尊いことだと、今の僕は知っている。今、この瞬間だって、きみが闘い続けていることも……」

 僕は小さく首を振った。



 ジョイントが欲しい。あの白い霧に包まれたい。全てを忘れてしまいたい。確かに今でもそんな思いに取り憑かれることはあるけれど――。でも、もう以前ほどの堪らなく苦しい、自分でもどうしようもない、そんな渇望ではないんだ。
 だって、きみが泣くじゃないか。僕のために、また泣くに決まっているじゃないか。


「でも本当は、ジョイントが問題なんじゃなかった。本当に考えなきゃいけなかったのは、きみが酷く傷ついているってことだった。そして、そのきみの痛みから僕は目を逸らし続けていた、ってことなんだ」

 鳥の巣頭は視線を落とし、また僕の膝に頭をのせ、眉根をきゅっと寄せ唇を引き結んだ。そんなこいつの柔らかな巻き毛に、指を差こみ梳いてやる。

「セドリック先輩に殴られた時に、解った気になっていたのに。やっぱり僕はちっとも解ってなんていなくて――。きみに自分の想いを押しつけるばかりだった」

 目を瞑ったまま薄い唇が震え、独り言のように言葉を紡ぐ。

「『きみに僕の痛みを共有して欲しい』きみは僕にそう言ってくれたのに、やっぱり僕には、きみの痛みを理解することはできていなかった」

 苦しそうに、言葉が零れ落ちる。

「愛しているのに。きみを愛しているのに。ごめんよ、マシュー」



 僕はこの時、初めて理解した。
 鳥の巣頭もまた、傷ついていたのだ、と。

 その痛みは僕とは違う。
 決して同じものでも、互いに分け合えるようなものでもない。
 僕とは違う別の深淵に、こいつも一人彷徨っていたのだ、と。

 こいつに僕が理解できないように、僕にもこいつが理解できない。僕たちは決して混じり合わない二つの液体だ。それなのに、この重さ、この息苦しさ、この澱みのなんと似ていることか!

 僕が毎夜白い手に口を塞がれ、喉を抑えつけられて息ができなかった時、こいつもまた、自分自身の手で口を覆い、喉を抑えつけ、嗚咽を漏らさぬように呑みこみながら、僕を見ていたのだ。深淵の縁から。何もできぬまま。そんな自分を責め続けながら。

 僕は一度だって、そんなこいつを顧みたことなどなかったのに!


「馬鹿だなぁ、そんなこと……」

 喉の奥から出てきた声は、自分でも驚くほど落ちついていた。

「済んだことなんて、もういいじゃないか。きみがいてくれたから、僕は今、ここにこうしていられる。それじゃあ駄目なのかい? ケネスでも、誰でも、きみの代わりにはならないよ。解らない? 僕はそんな、どうしようもなく馬鹿なきみが、好きなんだよ」


 僕は身を屈めて、錆色の、くるくるの巻き毛をひと房指に巻きつけると、そっと唇にあてた。




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