微睡む宵闇 揺蕩う薫香

萩尾雅縁

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四章

140 梟の手帳1

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「数字は俺の母語なんだ」
 それが彼の口癖だと、
 そっと教えてくれた。



 その晩は疲れはて、泥のように眠った。

 あれから僕は、鳥の巣頭の母親が満足するまで彼女の懺悔につきあって
 やったのだ。彼女は泣くだけ泣くと、「あなたは優しい子ね」と僕をハグして髪にキスした。僕は「もう気に病まないで下さい」とだけ答えた。他に言いようがなかったから。


 夕食の席に彼女は頭痛がするといって出てこず、銀狐も部屋で軽く済ませたいと欠席したので、僕は鳥の巣頭と二人で静かな食事を取った。
「きみも疲れただろ? ゆっくり休んで」と、鳥の巣頭は僕の部屋には寄らずそのまま自室に戻ったので、僕も早々とベッドに入ったのだった。



 目が覚めた時も、まだあの女のぐずぐずとした陰気くさいすすり泣きが耳についているようで、すっきりとしない。

 窓から射しこむ朝陽がレースカーテンを通して、床の上に薄いレース模様を描いている。ゆらゆらと。光が爆ぜる。レースを濡らす涙のように。


 ごめんなさいと言いながら、僕に許しを求める鳥の巣頭の母親は、僕を救い得なかったと今になって嘆く。僕から目を逸らし続けてきたくせに――。

 もうじき鳥の巣頭がエリオットを卒業し僕から離れることで、やっと安心できたのだろうか? 安心して罪悪感でも湧いたのか?

 ひと晩経つと僕の中にじんわりと、あの女に対する嫌悪感が滲みでていた。

 鳥の巣頭とは似ているようで違う。あいつは僕から逃げたりしなかったもの。いつだって僕の傍にいた。僕から目を逸らしたりしなかった。あんな自分勝手な自己憐憫を僕にぶつけたりしない。鳥の巣頭は……。


 いつまでもこんなことを考えていたって仕方がない。

 僕は纏いつく思考を振り切るように頭を振り、ベッドから降り立ち、浴室へ向かった。




「おはよう」
 その日、僕は鳥の巣頭や銀狐が来るのを待つ間、狼から預かっている手帳を眺めていた。
 銀狐の声に、一瞬びくりと肩が跳ねる。でも、僕はこの黒革の手帳を隠そうとは思わなかった。

「何をしているの?」
 庭に面したテラスに用意されたブランチの席に着きながら、銀狐は僕の手元を凝視している。

「父に頼まれたんだ。あまりに癖字で読みづらいから清書してくれって」

 僕は臆することなく手帳の中身を銀狐に見せた。だって、書いてあるのはアルファベットと数字だけで、見たって意味なんか解らないもの。
 銀狐は手帳を覗きこみ、「ふーん」と興味深そうに呟くと、その手に取って丁寧にページを捲り始める。

「きみ、そんなもの見て面白いの?」
 銀狐があまりにも熱心に手帳を見ているので、不思議に思って訊いてみた。
「まあね」
 曖昧に銀狐は答えた。でも視線は手帳の数字を必死で追っている。
「これ、帳簿なんだ」
「うん、そうだね」
「解るの? 僕はこれの意味がまるで解らなくって」
 やっと銀狐が面をあげて僕を見た。
「解らないのに、きみ、これで何をやっているの?」
「だから、清書だよ。読みやすく書き直すだけ。でも、普通の出納帳に書き写そうにも、どれが何の数字だか解らなくて困ってるんだ」

 それは嘘だけれど本当だ。本当の目的は、この数字が何に当てはまるのか読み解くこと。狼に「僕はいくらジョイントを売ればいいのか」と訊ねた答えがこれだったから。梟がつけていた手帳を渡され、彼のようにすればいい、と。

「ああ、なるほど。これはね、」喋りながら銀狐は手帳に書かれた細かな数字や文字を押さえて、「これがおそらく取引先」「これが売った金額」「数量」と順番に、丁寧に教えてくれた。


「おはよう」
 遅れてきた鳥の巣頭が揃ったので、僕たちは食事を始めた。
 銀狐はマフィンを頬張り、スモークサーモンを切り分けながらも、まだ手帳の数字を目で追っている。鳥の巣頭が呆れて、テーブルの下の彼の靴をコツコツと啄いた。やっと顔をあげ、僕たちの顔を呆けたように見渡すと、銀狐は苦笑いして手帳を閉じ、猛烈な勢いで皿の上のものを口に押し込んで、さっさと一人食事を済ませてしまった。

 そうして、ゆっくりと紅茶を飲みながら手帳を開く銀狐に、僕と鳥の巣頭は顔を見合わせ、呆れ果てて肩をすくめた。

「熱心だね」
 なんだか場が白けてしまって、鳥の巣頭が声を発した。
「うん、この帳簿なんだか変なんだ。数字が合わない。これ、一体何の帳簿なの?」

 すっと僕に向けられた銀狐の鋭い目に、僕は口に含んでいたマフィンをなんとか呑みこみ、首をふるふると何度も横に振る。

「知らない。清書を頼まれただけだから」
 そう答えて、僕も銀狐のように急いで残っていたサーモンもサラダも平らげて、食事を終わらせた。



 鳥の巣頭がいる間は何だか話し辛くて、あいつが母親に呼ばれて席を外してから、僕は銀狐に手帳のことを問い質した。

「さっき言っていたのって、どういうこと?」
「これ、二年分くらいの売上の記録だと思うんだけどね、途中から急に仕入れ数量が大きく変動しているんだ」

 僕は、どきどきと緊張に手を握りしめ頷いた。

「これね、ここから急激に仕入れ量が増えているだろ」

 銀狐はパラパラとページを繰りながら一箇所を示し、またページを捲ると別の箇所を示して、僕に探るような視線を向ける。

「ここで五倍。それからまたその倍。変化のなかった頃から比べたら、十倍以上。異常だろ、この増え方。取引先が変わったのかな?」

 僕はくらりと目眩がした。

 狼が僕に声をかける訳だ。
 梟は、エリオットOBに売っていたジョイントを全部、エリオット校内で捌いていたことにしていたんだ。それとも、狼は全部知っていて僕がエリオットOBにジョイントを売ることを期待しているのか?
 梟がいないのに、そんなこと、もうできるはずがないじゃないか……。


「これを清書するなんて、大変だろ? きみさえかまわないのなら、僕がエクセルで帳簿を作ってあげようか?」


 銀狐のそんな言葉さえ耳に入らないほど、僕は愕然として、目の前に広がる闇に呑まれてしまっていた。




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