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四章
139 似た者親子
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神様の振る賽子は
時に思いがけなく
まさかを転がる
こいつの家も、もうロンドンの自宅以上に馴染んできたな、と僕は壮麗な佇まいをみせるカントリー・ハウスを見あげていた。
白亜の壁は陽光を照り返し眩しいばかりで、前面に広がる芝の緑の中、輝きを増す。
こんな豪奢な館で生まれ育ち、幼少期から超一流の教育を受けてきて、その中でも最高峰のエリート育成校と言われるエリオット校で、トップとも言える生徒総監まで務めあげたのがこの鳥の巣頭だなんて、今でも違和感がある。僕が生徒会役員なのと同じくらいの不思議だ。
車から荷物を下ろしている使用人にきびきびと指図しているあいつに視線を移した。ちぐはぐで僕にはとても完成図が予想できない、作りかけのジグソーパズルのようなこいつのイメージを、ぼんやりと思い浮かべていた。
「マシュー、」
鳥の巣頭がふいに振り返った。
「ケネスも、くたびれただろ? 先に部屋で休むかい、それともお茶にする?」
銀狐は顔色が良くない。長旅は彼の身体には負担なのだ。だから僕は先に部屋で休みたいと答えた。そうすれば、銀狐は僕に遠慮することなく鳥の巣頭に脚のマッサージをしてもらって、少しでも回復できるかと思ったから。
銀狐もそうしたいと言ったので、僕たちは、ちょうど玄関から迎えにでてきた鳥の巣頭の母親に挨拶をしてから、それぞれの部屋に分かれた。
鳥の巣頭の母親は、相変わらず僕と目を合わせようとしない。挨拶の時でさえ引きつった笑みを顔に張りつかせ、おどおどと自分の足元ばかり見ている。僕に好意を持っていないことくらい重々承知している。僕が来るたびに不愉快で堪らないことも。だがそれとは別のなにか、夫人のあのさまが、僕の古い記憶のどこかに揺さぶりをかけていた。
ああ、昔の鳥の巣頭だ――。
外見はちっとも似ていないのに、そんな癖とか些細な仕草が似通っているんだ。本当は、お喋りで朗らかな気質も……。
合点がいき、思わず笑ってしまった。
あの女、自分の息子が一族から離れ、医者になりたいなどと言いだしたことをどう思っているのだろう?
旅行鞄を放ったままベッドに寝転がって、僕はそんな物思いに耽っていた。
と、トントン、と軽いノックの音がする。
鳥の巣頭ならノックと同時にドアが開く。執事がお茶でも運んできてくれたのかと、僕は起きあがってドアを開けた。
予想は半分当たって半分外れだ。お茶のトレーを持っていたのは、今ちょうど僕の頭を占めていた鳥の巣頭の母親だった。
「ありがとうございます、ミルドレッド夫人」
せいぜいにこやかに微笑んでトレーを受け取った。
「マシュー、あの、ちょっとお話したいの。いいかしら?」
夫人は消え入りそうな声で呟いた。
僕はきりりと奥歯を噛みしめた。何を言われても動揺しないでいられるように、と。
荷解きしなくて良かった。このまま叩き帰されるにしても、即、行動できるもの。
「もちろんです。どうぞ。ここでかまいませんか? それともティールームへ移動しますか?」
初めてこの館を訪れた頃とは違う。僕はもう十八になる。夫人の名誉を考慮して訊ねると、この女、一瞬きょとんとして、それから年甲斐もなくみるみるうちに赤くになった。
「それでは、温室へ」
ほとんど囁き声と言っていいほどの小声で呟いて、彼女は僕の前に立って歩きだす。
この館の温室を、僕は利用したことがない。温室といっても、観葉植物が飾られているだけのサンルームだ。アイボリーで塗装された梁や柱に、いくつもの鉢が釣られ、鮮やかな緑と、とりどりの花を咲かせている。その下には小花柄のピンクのソファーに、ガラスの猫脚ローテーブル。いかにも女性専用のティールームといった設えだ。
夫人は僕にソファーを勧め、自分は足置きをローテーブルの角に置いて座り、小刻みに震える白く細い手でお茶を淹れてくれた。
甘いミルクティーの香りが密閉された緑の匂いを侵食するように広がる。
お礼を言い、芳しい香りを楽しみながら、このおどおどとした小心な夫人が言うべきことを言い、僕を追いだす、その時をじっと待つ。
「マシュー、私は、ずっとあなたに謝りたかったの」
ふり絞ってだされた繊細なか細い第一声は、僕の予想していたものとはまるで違っていた。
訳が解らず、とりあえず、手にしていたティーカップを取り落とさないように、とソーサーに戻す。
夫人は震える手を膝に置き、細やかなレースで縁どられたハンカチをぎゅっと握りしめている。その薄らと血管の浮いた拳に涙がぽとり、ぽとりと落ちる。
「ごめんなさい……。あの時、――あの子の香りとあなたの背中に気づいた時、私にひと欠片ほどの勇気があれば……。あなたは貴重な一年間を棒にふることなく、ジョナスと一緒に卒業の日を迎えることができたのに!」
堰を切ったように一気に捲したてると、夫人はさめざめと、もう僕に遠慮することもなく泣きだした。
今さら、何を言いだすんだ、この女は――。
呆気にとられ、狐につままれた気分で肩を震わせて涙する彼女を眺めていた。声をかけるべきだとは思うのだけれど、なんて言っていいのか判らない。
たとえ彼女がアヌビスの僕への暴力を主人に告げ、本人を諌めるなりしたところで、状況がそれほど変わったとは思えない。
僕があの時、彼女に背中を見せたのは、ただこの女の能天気なさまが気にいらなかったからに過ぎない。どうにかしてくれとか、まして助けて欲しいなんて思っていた訳じゃない。
訳が解らない。どうして僕に謝るんだ? どうして自分が僕の運命をどうにかできたかもしれないなんて思うんだ? そして、どうしてそんなことで、自分を責めるんだ?
鳥の巣頭みたいに!
あいつの、あの訳の解らないほどおめでたい性格は母親譲りなのか――。
小さく嘆息し、涙を拭くのに忙しい右手のように役割を貰えず、シックな黒のワンピースの生地をハンカチの代わりに握りしめている婦人の左手に、そっと僕の手を重ねた。
「僕のために泣かないで下さい。これは僕の問題なのですから。あなたにはなんの責任もないことなのですよ」
できる限り優しく告げたつもりの僕の言葉に、彼女は激しく首を振った。
「いいえ! 私の落ち度なのよ。あなたは、まだほんの幼い子どもだった! 私はショックを受けた自分の心を守るのに精一杯で、あなたから目を逸らし、目を瞑り、心にシャッターを下ろしてしまった。本当に傷ついているのは私ではなく、あなたなのに!」
夫人は涙をぼろぼろと溢れださせながら、毅然と顔を上げて僕を見た。潤んだ、けれどとても強い瞳で――。
「私が息子たちを愛おしく思っているように、あなたのお母様もあなたを愛していることを、私は忘れていたのです。同じ母親なのに。……お会いして、本当に申し訳なくって――」
彼女はまた喉をつまらせ、咽び泣き始める。
僕は困ってしまった。
どうすればいいのだろう? 彼女は僕がどう答えれば納得してくれる?
あなたが行動できなかったように、僕も行動できなかった。
だから、今、ここにいる。
それだけのことなのに――。
時に思いがけなく
まさかを転がる
こいつの家も、もうロンドンの自宅以上に馴染んできたな、と僕は壮麗な佇まいをみせるカントリー・ハウスを見あげていた。
白亜の壁は陽光を照り返し眩しいばかりで、前面に広がる芝の緑の中、輝きを増す。
こんな豪奢な館で生まれ育ち、幼少期から超一流の教育を受けてきて、その中でも最高峰のエリート育成校と言われるエリオット校で、トップとも言える生徒総監まで務めあげたのがこの鳥の巣頭だなんて、今でも違和感がある。僕が生徒会役員なのと同じくらいの不思議だ。
車から荷物を下ろしている使用人にきびきびと指図しているあいつに視線を移した。ちぐはぐで僕にはとても完成図が予想できない、作りかけのジグソーパズルのようなこいつのイメージを、ぼんやりと思い浮かべていた。
「マシュー、」
鳥の巣頭がふいに振り返った。
「ケネスも、くたびれただろ? 先に部屋で休むかい、それともお茶にする?」
銀狐は顔色が良くない。長旅は彼の身体には負担なのだ。だから僕は先に部屋で休みたいと答えた。そうすれば、銀狐は僕に遠慮することなく鳥の巣頭に脚のマッサージをしてもらって、少しでも回復できるかと思ったから。
銀狐もそうしたいと言ったので、僕たちは、ちょうど玄関から迎えにでてきた鳥の巣頭の母親に挨拶をしてから、それぞれの部屋に分かれた。
鳥の巣頭の母親は、相変わらず僕と目を合わせようとしない。挨拶の時でさえ引きつった笑みを顔に張りつかせ、おどおどと自分の足元ばかり見ている。僕に好意を持っていないことくらい重々承知している。僕が来るたびに不愉快で堪らないことも。だがそれとは別のなにか、夫人のあのさまが、僕の古い記憶のどこかに揺さぶりをかけていた。
ああ、昔の鳥の巣頭だ――。
外見はちっとも似ていないのに、そんな癖とか些細な仕草が似通っているんだ。本当は、お喋りで朗らかな気質も……。
合点がいき、思わず笑ってしまった。
あの女、自分の息子が一族から離れ、医者になりたいなどと言いだしたことをどう思っているのだろう?
旅行鞄を放ったままベッドに寝転がって、僕はそんな物思いに耽っていた。
と、トントン、と軽いノックの音がする。
鳥の巣頭ならノックと同時にドアが開く。執事がお茶でも運んできてくれたのかと、僕は起きあがってドアを開けた。
予想は半分当たって半分外れだ。お茶のトレーを持っていたのは、今ちょうど僕の頭を占めていた鳥の巣頭の母親だった。
「ありがとうございます、ミルドレッド夫人」
せいぜいにこやかに微笑んでトレーを受け取った。
「マシュー、あの、ちょっとお話したいの。いいかしら?」
夫人は消え入りそうな声で呟いた。
僕はきりりと奥歯を噛みしめた。何を言われても動揺しないでいられるように、と。
荷解きしなくて良かった。このまま叩き帰されるにしても、即、行動できるもの。
「もちろんです。どうぞ。ここでかまいませんか? それともティールームへ移動しますか?」
初めてこの館を訪れた頃とは違う。僕はもう十八になる。夫人の名誉を考慮して訊ねると、この女、一瞬きょとんとして、それから年甲斐もなくみるみるうちに赤くになった。
「それでは、温室へ」
ほとんど囁き声と言っていいほどの小声で呟いて、彼女は僕の前に立って歩きだす。
この館の温室を、僕は利用したことがない。温室といっても、観葉植物が飾られているだけのサンルームだ。アイボリーで塗装された梁や柱に、いくつもの鉢が釣られ、鮮やかな緑と、とりどりの花を咲かせている。その下には小花柄のピンクのソファーに、ガラスの猫脚ローテーブル。いかにも女性専用のティールームといった設えだ。
夫人は僕にソファーを勧め、自分は足置きをローテーブルの角に置いて座り、小刻みに震える白く細い手でお茶を淹れてくれた。
甘いミルクティーの香りが密閉された緑の匂いを侵食するように広がる。
お礼を言い、芳しい香りを楽しみながら、このおどおどとした小心な夫人が言うべきことを言い、僕を追いだす、その時をじっと待つ。
「マシュー、私は、ずっとあなたに謝りたかったの」
ふり絞ってだされた繊細なか細い第一声は、僕の予想していたものとはまるで違っていた。
訳が解らず、とりあえず、手にしていたティーカップを取り落とさないように、とソーサーに戻す。
夫人は震える手を膝に置き、細やかなレースで縁どられたハンカチをぎゅっと握りしめている。その薄らと血管の浮いた拳に涙がぽとり、ぽとりと落ちる。
「ごめんなさい……。あの時、――あの子の香りとあなたの背中に気づいた時、私にひと欠片ほどの勇気があれば……。あなたは貴重な一年間を棒にふることなく、ジョナスと一緒に卒業の日を迎えることができたのに!」
堰を切ったように一気に捲したてると、夫人はさめざめと、もう僕に遠慮することもなく泣きだした。
今さら、何を言いだすんだ、この女は――。
呆気にとられ、狐につままれた気分で肩を震わせて涙する彼女を眺めていた。声をかけるべきだとは思うのだけれど、なんて言っていいのか判らない。
たとえ彼女がアヌビスの僕への暴力を主人に告げ、本人を諌めるなりしたところで、状況がそれほど変わったとは思えない。
僕があの時、彼女に背中を見せたのは、ただこの女の能天気なさまが気にいらなかったからに過ぎない。どうにかしてくれとか、まして助けて欲しいなんて思っていた訳じゃない。
訳が解らない。どうして僕に謝るんだ? どうして自分が僕の運命をどうにかできたかもしれないなんて思うんだ? そして、どうしてそんなことで、自分を責めるんだ?
鳥の巣頭みたいに!
あいつの、あの訳の解らないほどおめでたい性格は母親譲りなのか――。
小さく嘆息し、涙を拭くのに忙しい右手のように役割を貰えず、シックな黒のワンピースの生地をハンカチの代わりに握りしめている婦人の左手に、そっと僕の手を重ねた。
「僕のために泣かないで下さい。これは僕の問題なのですから。あなたにはなんの責任もないことなのですよ」
できる限り優しく告げたつもりの僕の言葉に、彼女は激しく首を振った。
「いいえ! 私の落ち度なのよ。あなたは、まだほんの幼い子どもだった! 私はショックを受けた自分の心を守るのに精一杯で、あなたから目を逸らし、目を瞑り、心にシャッターを下ろしてしまった。本当に傷ついているのは私ではなく、あなたなのに!」
夫人は涙をぼろぼろと溢れださせながら、毅然と顔を上げて僕を見た。潤んだ、けれどとても強い瞳で――。
「私が息子たちを愛おしく思っているように、あなたのお母様もあなたを愛していることを、私は忘れていたのです。同じ母親なのに。……お会いして、本当に申し訳なくって――」
彼女はまた喉をつまらせ、咽び泣き始める。
僕は困ってしまった。
どうすればいいのだろう? 彼女は僕がどう答えれば納得してくれる?
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