微睡む宵闇 揺蕩う薫香

萩尾雅縁

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四章

128 終わりのない不安

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 ゼンマイじかけの時計の刻む
 繰り返される
 時のひとコマ




 目を開けて一番に視界に映った、見慣れたくすんだ天井に安堵した。ここは、あそこじゃない。それだけで、泣きだしそうに嬉しかった。

「マシュー」

 鳥の巣頭が僕の顔を覗きこむ。心配そうな瞳が潤んでいる。僕はにっこりと微笑んでみせる。こいつを安心させるために。

「僕はまた倒れたのかな?」
「病院へ行こう。次のハーフタームに、ね?」

 シーツの端を掴む鳥の巣頭の拳が、細かく震えている。僕はその上に掌を重ねた。

 もうずっとジョイントは吸っていないんだ。尿検査を受けても反応は出ない。フラッシュ・バックを抑えるための薬をもらいに行くだけでいいんだ。

 平気、大丈夫。――何度自分にそう言い聞かせたことか。

「怖いんだ」

 鳥の巣頭から目を逸らし、医療棟の、白、というにはあまりにもくすんだ天井に目をやり呟いた。

 あの白い箱が怖い。思いだすだけで――。

 ぎゅっと瞼を閉じて唇を噛んだ僕の頬が、熱い掌で覆われる。

「マシュー」
「平気」

 僕はもう一度、微笑んでみせた。鳥の巣頭の手に僕の手を重ねて頬から外し、肘を立ててゆっくりと半身を起こした。

「寮に戻るよ」
「でも、」
「ここで寝ているより、自分の部屋で休むよ。その方が落ち着く」

 三つ向こうのベッドを一瞥してみせた。何の病気か知らないが、大の字になって、雷のようないびきをかいている奴がベッドを一つ占領している。あんなのと同室なんて冗談じゃない。

 鳥の巣頭は納得したように頷いて、先生を呼びにいってくれた。
 寮まで車で送ってもらえばいい。別にずっと引きずる症状じゃないんだ。一時的なものなんだ。
 自分自身にそう言い聞かせていると、呼吸も楽になってきた。


 いったいいつまで続くのだろう……。

 鳥の巣頭を待つ間、ジョイントを吸っても、吸わなくても、同じように訪れるこの離脱症状に似たフラッシュ・バックについて、思い巡らせていた。
 何が引き金になって発作が起こるのか、全く判らない。これから逃れるには、鳥の巣頭の言う通り、あの病院に行って薬をもらうのが一番いいと解っている。

 でも――。あそこを思いだすだけで、身体がすくむんだ。


 フラッシュ・バックはまるで白い彼のようだ。忘れた頃に現れて、僕の罪を暴きたてる。もう忘れて離れてしまいたいのに、いつまでも僕にまとわりついて放してくれない。

 天上に溶ける歓喜すらも闇に紛れるこの深淵に、静かに身を沈め、息を殺して生きていく。それすら、僕には許されないのか――?


「マシュー、立てる? 先生が送って下さるって」
 ドアから顔を覗かせた鳥の巣頭に、頷き返した。まだふらつくけれど歩けないほどじゃない。鳥の巣頭が腕を取って支えてくれた。
「大丈夫?」
 心配そうに僕を覗きこむ。

 本当に、いつまでこの苦しみは続くのだろうか――。





 寮に戻ってから、銀狐のことを思いだした。
 給湯室でお茶を淹れてきてくれた鳥の巣頭に、彼のことを訊ねた。
「うん。ケネスもびっくりしていたよ。彼の前で倒れたの、これで二度目だろ? 本当にどこか悪いんじゃないかって」
 鳥の巣頭は困ったように顔をしかめている。
「夏になって貧血がきつくなっているんだ、って言っておいた」

 そういえば、前に意識を失うほどの酷い発作が出たのもこの時期だった。創立祭の時だったもの。

「創立祭がもうじきだね。僕はまだ一度もボートの儀式を見たことがないんだ」

 ベッドの横の白い壁と背中の間に枕を挟んでもたれながら、鳥の巣頭の手渡してくれたマグカップの紅茶を啜った。医療棟のベッドで目覚めた時の気怠さは、かなりマシになっている。


「準備で今から大忙しだね。倒れてなんていられないな」
「無理しないで」

 鳥の巣頭は、軽く眉根を寄せ心配そうに僕を見ている。でも、病院の話を蒸し返したりはしなかった。僕が微笑んで頷くと、曖昧な笑みを返してベッドの端に腰かけたまま、ぼんやりと吐息を漏らす。

 鳥の巣頭は、もう前みたいなお喋りじゃない。皆と一緒の時は楽しげに喋るけれど、二人だけの時は、僕の言うことに、「うん」とか「そうだね」って相槌を打つだけだ。何か質問すれば、応えてはくれるのだけど……。

 この沈黙が嫌で、創立祭のこととか、スポーツ大会のこととか、試験が終わったとたんに立て続けに行われる行事ごとのことを、いろいろ訊ねた。

 あと二ヶ月もしないうちに、鳥の巣頭は卒業してこの学校からいなくなる。そのどうしようもない事実から目を逸らしたくて、こいつも、僕も、次年度の生徒会役員選出のことや、卒業式の話題には、触れることはなかったのだ。





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