微睡む宵闇 揺蕩う薫香

萩尾雅縁

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四章

127 発作

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 梢を渡る風のように
 無邪気な小鳥の囀りのように
 弾んで跳ねる黒い囁き



 鳥の巣頭に大鴉の噂話を聴いてからというもの、周囲の会話に注意深く耳を澄ますようになった。そのために食事時にも、ちゃんと食堂に行くようになった。

 大鴉の噂は、鳥の巣頭が言っていた内容以上に酷かった。

 一番酷い話は、大鴉はもうじきロンドン市警察に逮捕される、っていうものだ。容疑は、証券詐欺。それに株式と原油の価格操作。
 たかだか十四、五歳の子どもに、そんなことができるはずがないのに、噂は面白可笑しく、まことしやかに広がっていた。

 僕はあまりにも馬鹿馬鹿しくて黙って聴いているだけだったけれど、胸の内ではムカついて堪らなかった。

 だって、大鴉の金融レポートの有益性は本物だった。賢い梟が夢中になるくらいなのだから。それを、投資サークルを止めた途端に悪口を言いだすなんて、酷いじゃないか!
 今まで大鴉をちやほやしていた連中が、今は掌を返して彼のことを犯罪者扱いしているなんて……。



 僕は、世界がいきなりひっくり返ったような大鴉の現状に、自分の姿を重ねていたのかもしれない。だから余計にこの噂が気になり、怖くて堪らなかったのだと思う。

 もしも銀狐や生徒会の皆が、僕がジョイントを吸っていたことを知ったら――。僕がジョイントを報酬に貰って、名前も知らないような奴らの相手をしていたと知ったら――。もし、大鴉、きみがそのことを知ってしまったら――。

 食堂で、中庭で、カフェテラスで小耳に挟むきみの噂を語る連中の、蔑みの色を浮かべた瞳が、憎悪を含んだ声音が、僕を糾弾し、そのまま僕の名前を呼ぶ。「汚いマシュー」「腐ったマシュー」と。




 そんな掌を返した周囲なんか意にも介さず、大鴉は今日も颯爽と肩で風を切って歩いている。欠片も悪びれた様子なんか見せずに。

 きみは僕とは違う証拠だ。きみは僕とは違う、どこまでも穢のない存在だもの。
 凛として、美しい、僕の大鴉――。

 僕の、憧れ――。



 でも、しばらくすると彼の噂問題は一通りの決着を見せた。
 カレッジ寮が動いたのだ。

 大鴉の周りを取り囲むようにして、四、五人のホワイト・タイの奨学生が、勇ましく黒のローブを翻して歩くようになった。背筋を伸ばし、頭を高く上げて、他を威圧するように堂々と。
 大鴉の護衛係だ。すれ違いざま大鴉の悪口でも聞こえようものなら、すかさず言い返し喧嘩になることも度々だった。もっとも、奨学生たちに喧嘩を売るような馬鹿は、散々に言い負かされて尻尾を撒いて逃げだすのがオチだったけれど。


 当の本人は、顔を伏せて困ったように苦笑いしているようだったけれど、僕はその様子を胸のすく思いで見ていたのだ。
 それに、銀狐も僕と同じように目を細めて嬉しそうに彼を見守っていたから、嬉しさもひとしおだ。彼のここしばらくの不機嫌の理由は、やはり大鴉の状況に対する憂慮のせいだった。


 新緑の明るい葉が重なる影を落とす中庭のベンチで、隣に座る銀狐に僕は同意を求めるように笑いかけた。

「彼は本当に困った子だね」
 くすくす笑いながら、銀狐は僕を振り返る。
「こんな下らない噂くらい簡単に払拭できるというのに、面倒くさがってダンマリを決めこんでいるんだよ」
「あの子が言い訳なんて無様な真似をするはずないよ」
 僕は嬉しくて、つい思ったことを口にしてしまった。
「おや、珍しい」
 銀狐はまたくすくすと笑う。


 銀狐は、大事なカレッジ寮の天才児が、僕みたいな節操のない上級生の毒牙にかけられないように、やたらと牽制をかけてくる。だから僕は彼のカマかけに乗らないように、いつもは大鴉についての話は避けているのだ。

「でも良かったよ。早々に片づいたみたいで。あいつがかなり気に病んでいたからさ。やっぱり生徒会としても、こんな根も葉もない噂話の調査だなんて、嫌だよね」

 僕はやんわりと、大鴉本人から生徒会全体へ話題の軸を切り替えた。鳥の巣頭がこの問題に頭を痛めているのは本当だったし、いまだに監督生たちと仲の良い銀狐から、もっと細かな情報を聞きだしたい思惑もあった。

「根も葉もない、て訳でもないんだけれどね――」

 僕のそんな思いとは裏腹に、銀狐は眉根を寄せた。

「まぁ、その辺はね、そのうちに。それより、来週にはフェイラーが戻ってくるよ。きみ、もう聴いたかな?」

 天使くん――。

 僕は今、どんな顔をしているんだろう? 

 銀狐の冷めた視線に、背筋が凍った。思わず目を逸らした僕の肩を銀狐はぽんと叩いた。それが、まるでハンマーで殴られたように心臓に響き、トットッ、と鼓動は狂った馬のように走りだす。

「噂の片割れが帰ってくれば、この馬鹿げた騒ぎもおしまいになるさ」

 ああ、そうだ。確か、大鴉の悪い噂は、天使くんが――。

 胃が締めつけられる。

 僕は肩に載せられた銀狐の腕を、縋りつくように掴んでいた。
 ねっとりとした汗が全身に吹き出てくる。
 視界が急速に黄昏に侵されていく。

 息が――。

 いつだった? 最後にジョイントを吸ったのは――。

 もう、三ヶ月には――、離脱症状は抜けて――。


「助けて――」


 真っ暗な闇の中で、何か、呟いた気がした。




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