微睡む宵闇 揺蕩う薫香

萩尾雅縁

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四章

126 悪い噂

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 垂れこめる暗雲
 目をこらしても
 見えない明日




 久しぶりに大鴉を見かけた。しばらく遇わなかったのに。
 執務室の窓が開けはなたれていて、僕の横には銀狐がいた。鳥の巣頭は執務机についていた。銀狐は口をへの字にして、厳しい、話しかけ辛い表情で彼を見おろしていた。

 中庭をいつものように黒いローブを翻して歩く大鴉の背中を目で追いながら、僕は、あれ? っと首を捻った。

「ああ、そうか。いつもの取り巻き連中がいないんだね」

 腑に落ちて頷くと、銀狐がちらりと僕を見た。でも何も言わずにすっと自分の机に戻っていった。


 その時の銀狐らしくないぎこちない反応の理由を、僕は数日してから知ることになる。



 試験勉強の合間をぬって、鳥の巣頭と学舎内のカフェテリアでお茶を飲んでいた時だ。たまたま、隣のテーブルで大鴉の噂話をしていたのだ。大鴉の投資サークルの話を。僕はどうも金融の話は苦手で、よく理解できなかったのだけれど、彼らが大鴉の悪口を言っていることだけは理解できた。僕たちの姿に気づいてから、彼らはさらに声を高めて喋っていた。生徒総監である鳥の巣頭に聞かせたかったのかもしれない。

 だけどそんな彼らの思惑に気づいていないのか、彼らが話している間中、鳥の巣頭は不機嫌そうに何度もカップを上げたり下ろしたり、お茶を飲んでいるのかいないのか判らないような挙動不審な動きをしていた。僕が彼らのことをちらちらと盗み見しながら、耳をそばだてていたことが気に食わなかったのかな?

 そんなこいつが何だか可愛くて、顔を寄せて小声で囁いた。

 だって今までみたいな、歯を剥きだしにして相手を牽制して威嚇する犬みたいなこいつより、ずっと僕のことを考えてくれているように思えたのだもの。

「相変わらず彼は話題の人だね。サークルはもう解散しているし、生徒会の管轄外なんだろ?」
 怪訝そうに眉をしかめたこいつに続けて訊ねた。
「きみ、銀ボタンの子がまた問題を起こすんじゃないか、って心配しているんだろ?」
 鳥の巣頭は、あっと小さく声をあげて頷いた。
「あ、うん。そう、そうなんだよ」

 上擦った声音で応えたこいつに、周りの視線が集中する。

「あの子、困った噂が流れているんだ。それも今までと比べ物にならない、校内だけでは収まらないような、酷い噂なんだよ」

 今度は、僕たちを囲むテーブルが耳をそばだてている。
 僕はこんなところで大鴉の話題を出してしまった、自分の軽率さにほぞを噛んだ。試験期間中で、いつもは混雑しているカフェテリアも、空いたテーブルの方が多いことがせめてもの救いか――。

 話題を変えようと、試験の話をしようとした。ところが鳥の巣頭は堰の切れた川のように、怒涛の如く喋りだして止まらなくなっていた。

「きみ、あの子のサークルに入っていたんだろ? 彼の書いたレポートを覚えているかな、原油に関する――」
「あまり真面目に読んでいなかったから解らないよ」

 僕はうんざりしながら言葉を濁した。

「インサイダーらしいんだよ」

 インサイダー? 聞きなれない経済用語に首を傾げる。

「あの子、休学してアメリカに帰っているカレッジ寮のフェイラーと親しかっただろ? フェイラーの実家は石油関連の財閥だからね。彼から情報を聴いて、あのレポートを書いたんじゃないかって」

 だから? それが何か問題なの?

 いきなり持ちだされ天使くんの名前に、僕はますます意味が解らず怪訝な顔をしていたのだと思う。鳥の巣頭は、一瞬考えるようにくるくると目を動かすと、一気にまくし立てた。

「つまりね、フェイラーの会社の内部情報を知っていて、その会社の株を売るように推奨して、フェイラー株と原油を暴落させたってこと。自分がそんな重要機密を漏らしてしまったから、フェイラーはアメリカへ帰国したまま戻ってこないんじゃないか、っていわれているんだ。その会社に勤めている経営者や社員、その親族が、社外の人が知りえない情報を元に株式の取引をすることを、インサイダー取引っていうんだ。これは、違法行為だよ」

 さすがの鳥の巣頭も、「違法行為」の部分は声を低める。

 ――濡れ衣だ、そんなもの。

 いくら財閥の令息だって、親元から離れて寄宿学校ですごしているのに、会社の株を暴落させるほどの重要機密を知っているはずがないじゃないか。そんなもの、優秀な大鴉へのただのやっかみだ。

 こんな馬鹿馬鹿しい話を真面目な顔をして話すこいつに、心底苛立った。

「それにもう一つ。今は試験期間中で生徒会も停止中だから保留にしてあるけれど、証券詐欺の苦情まで出てきているんだ。ここまでくるともう、僕らの管轄じゃない。試験が終わり次第、彼については審議にかけることになると思うよ」

 真剣な鳥の巣頭の瞳には、苦悶の色が見てとれた。それが大鴉に対するものなのか、そんな大事件を取り扱わなければならなくなった生徒総監としての自分自身に対する自己憐憫なのか、僕には判らない。


 じっと押し黙ったまま、さっき大鴉の悪口を言っていた連中をそっと盗み見た。彼らは、にんまりと満足そうに微笑んでいた。
 僕に理解できなかっただけで、彼らが話していたのは、今、鳥の巣頭が話したことと同じか、それに類することだったのだろう。

 僕は下を向き、木製のテーブルに視線を落としたまま、鳥の巣頭に訊ねた。

「あの銀ボタンの子、どうなるの?」
「噂が真実なら、放校は間違いないだろうね」


 鳥の巣頭は申し訳なさそうに、僕に告げた。




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