微睡む宵闇 揺蕩う薫香

萩尾雅縁

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四章

124 銀のライター

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 白む明け空に
 残響が舞う




 大鴉の投資サークルが閉鎖された。
 理由は、経済学のレポートを書くためのデーターが充分に集まったからという。
 僕は正直なところ、ほっとした。
 これで梟は株式投資を止めて、またいつもの梟に戻ってくれるんじゃないかと思ったんだ。

 だから試験の合間をぬって、連絡をくれた梟に逢いにいった。もうかれこれ一ヶ月以上連絡がなかったのだ。このまま以前みたいに逢えなくなるんじゃないかと思っていたから、こうして「逢いに来い」と言ってもらえたことに、僕は心底ほっとしていた。




 以前のフラットは銀狐に見つかってしまったから、梟は別の場所に引っ越していた。閑静な住宅地にあるその転居先は、以前と比べると格段に高級感のあるフラットだ。


 玄関のインターホンを押し、オートロックの鍵を開けてもらった。三階の梟の部屋の鍵はかかっていなかったので、おずおずとドアを開けた。梟の他、誰もいない。久しぶりの僕の顔を見て、梟は煙水晶の目を細めてにっと笑った。くいっと首を傾けて僕を呼ぶ。
 駆け寄って、ソファーに座ったままの梟の首筋にむさぶりついた。僕を閉じ込めている真空の膜を引き千切り、新鮮な酸素を吸い込こむように、梟のぽってりとした唇にかぶりついた。舌を絡めあわせながら、温かな頬を、柔らかな羽のような髪を、固くひき締まった背中を、掌を這わせて確かめる。

 梟の手が僕をなぞる。僕に形をくれる熱い掌。この指先が僕の血液を沸騰させる。僕は梟の熱に化学変化を起こし全く別の僕になる。
 熱い身体に、熱い唇に、どろどろに溶け、凝固して弾ける。 

 ……そして、また、虚ろな霧に戻るまで。繰り返される泡沫うたかたの戯れ。


「お前は俺の守護天使だ」

 呪文のような囁きが、キスと混じり合い背中に落ちる。
 何度も――、何度も――。
 熱い吐息が肌を焦がし、火傷のような痕を刻む。

 僕はその意味に涙が溢れた。

 優しい梟……。

「お前に逢えて良かった」

 決して僕を責めない優しい梟……。

「ソールスベリーは俺の天敵だった。それなのに、あいつ似のお前が俺の守護天使だなんて、皮肉なものだな」

 目を細めて、くっくっと笑う。楽しそうに。

 嘘つき。あなただって、本当は彼が好きだったくせに。だからずっと僕を抱かなかったくせに。
 あの日、あなたは僕を白い彼と間違えたあの監督生の魂が、僕を連れて行ってしまうんじゃないかと怖かったんだ。だから僕を自分につなぎ留めたんだ。温もりで――。命の熱で――。

 あなたにとって、僕は白い彼じゃない。僕は僕だった。

「あなたが好きだよ」

 梟は、にっと笑ってキスをくれた。

 僕は一度も梟に好きだと言われたことがない。一度も。
 優しい梟は、僕にそんな嘘は言わない。






 寮に戻ると、部屋の前で銀狐が待っていた。
 僕は黙って鍵を開け、彼を招き入れた。

「忙しい副総監さまがこんなところで油を売っていていいの?」
 金の瞳が冷たく僕を睨めつける。
「どこに行っていたの? マイルズ先輩のところ?」
「今日はつけていなかったんだ?」

 窓を開け、窓枠に腰かけた。銀狐は少し離れた机から椅子を引っ張りだして座る。

「彼はもう、きみたちの手の届かないところへ行ってしまったよ」



 そう、梟がこの街に戻ってきたときから解っていた。
 彼は、全てを精算するために、ここに帰ってきていたということ。

 夏にオックスフォードで銀狐に逢ってから、梟は覚悟を決めていたんだ。だから「どうせ手放すのなら」そう言って僕を抱いたんだ。

 そして最後の賭けにでた。警察が証拠を揃えて自分を捕まえにくる前に、過去のしがらみを精算し逃げ切れるだけの資金を作れるかどうか。
 エリオット時代、義兄である蛇に学費の全てを差し止められ、下僕のように使われていた梟。ジョイントの仕入れ先からお金を借りて、ジョイントを売ることで日々をやりすごしていた。

 もうじきエリオットを卒業という段になって、あの監督生に全てを知られ追いつめられた。

 そして、今になって銀狐に――。今年で大学も卒業だというのに。

 可哀想な梟。僕が彼に銀狐を引き合わせた。僕が彼を追いつめた。

 銀狐は僕を探していたと言った。
 僕に証言させるためだ。あの監督生を私刑にかけた梟のアリバイを崩すために。梟の罪を糾弾するために。
 僕の横に梟がいたから、あの監督生はあんなに慌てて道を渡ってこようとしたのだから……。白い彼の身を案じて……。

 銀狐はまだ夏の時点では、そこまで気づいていなかったのかも知れない。
 白い彼に似ている。だからこそ、僕は高い値段で取引された。それがあの監督生が僕を助けようとした理由。僕のためじゃない。白い彼の名誉を守るためだ。白い彼を辱めないためだ。

 まるで僕は、白い彼の亡霊にとりつかれているようじゃないか。


 僕から全てを奪っていく白い彼――。

 だけど、大鴉が助けてくれた。
 彼の投資レポートで、梟は全てを捨てていけるだけのお金を稼ぎだした。ずっと金銭的な困窮に追いたてられていた彼に、やっと夜明けが訪れたんだ。

 だから――。

 だから梟は、僕にお別れに来てくれたんだ。初めて僕を愛してくれた。僕の身体に紅い花を散らしていった。初めて――。





「これでも、僕は傷心なんだからね」

 薄闇に溶けるテムズ川を眺めながら、呟いた。

「彼は、今どこに?」

 銀狐の渋面に、彼は僕が想像していた以上に梟の核心に迫っていたことが読み取れる。

「高飛びしたの?」

 彼がどこに行ったのかは、僕も知らない。
「彼は梟だもの。夜が明ければ飛び立ってしまうさ」

 銀狐の口から深い吐息が漏れる。
「きみは本気で、あんな悪党のことが好きだったの?」

 僕はポケットから煙草を取りだし、ちらりと銀狐を見あげて訊ねた。
「今日だけ、見逃してくれる?」

 銀狐は眉根をしかめたけれど、何も言わなかった。


 煙草を銜え火を点けた。梟の銀のライターで。これが、報酬を受けとろうとしなかった僕への、梟のくれた唯一の報酬らしい報酬だ。

 梟は僕を散々利用して、僕に、捨て去りたくて仕方のなかった彼の過去を残していった。僕にはすぎた報酬だ。

 それでも僕は思うのだ。確かに梟にも、大鴉と同じ大空に飛びたてるだけの翼があったのだ、と。たとえそれが、闇の中でしか羽ばたかない翼であったとしても。
 彼がその翼で飛び立つ姿を見ることができたことが、嬉しくて堪らない。


 そのことで、今、目の前にいるきみを悔しがらせ、歯噛みさせることになったとしても――。



「好きにならずにはいられないほど、僕はあの人が怖かったんだよ。――怖くて、だからこそ愛おしかった」

 細く、長く、白い煙を窓の外に向かって吐き、僕は誰に、というわけでもなく呟いた。


 銀狐、きみにはきっと、こんな想いは理解できない。




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