微睡む宵闇 揺蕩う薫香

萩尾雅縁

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四章

123 五月 亀裂

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 立ち昇る
 旋律
 白い
 芳香



 鳥の巣頭との関係を修復できないまま、新学期が始まった。

 決して仲違いしているわけではない。今までと変わらず喋りもするし、一緒にいる時間も長い。けれど僕たち二人の間には、大きな亀裂が入っている。鳥の巣頭はいつだってすぐそこにいたのに、今は隣にいても、触れあっていても、ひどく遠い。鳥の巣頭はここにはいない。僕と同じくらい朧で、曖昧で、僕には見つけられなくなってしまった。





 学校での大鴉の持て囃されぶりは相変わらずで、生徒会執務室でもいつもその話題で持ちきりだ。なんとか株を買っただの、売っただの、そんな話ばかりしている。
 鳥の巣頭はそんな皆の様子を苦々しそうに眺め、「学生の本分を忘れている」とか、「金儲けに夢中になるなんて卑しい行為だ」とかぼやくのだけれど、サークルを禁止するほどの理由はなくて、ふくれっ面をするだけでどうしようもないみたいだ。


 大鴉の話題がもう一つ。
 春になって花開き始めたフェローガーデンを通る道を久しぶりに抜けたら、彼の畑があった場所に、白く塗装された角材を支柱にした八角形の鳥籠のような形をした温室が造設されていた。

 思わず足を止め、突然現れた、そのきらきらと光を跳ねる温室をぽかんと眺めてしまった。

「これも銀ボタンの実験だよ。生物のスタンリー先生の推薦つき。あの子、先生方を丸め込むのが本当に上手いよね」
 鳥の巣頭のトゲのある言い方に、心がチクリと痛む。
 僕はこんなふうに苛立っているときのこいつを、まともに見ることができない。僕のことを言っているのではないのに、全部僕のせい。僕が悪いんだと、責められているような気分になる。

 だから何も言い返さず、黙って歩を進めた。


「あ、ほら、見て」
 ふわりと漂ってきた上品な香りに惹かれ、川沿いの道に一本だけ植わっている樹に向かって足を速めた。
「すごいな。満開だね」

 張り出した枝一杯に薄紫色の花のつける木蓮の、掌ほどもある大輪の花に手を伸ばしそっと触れた。
「綺麗だね」
 鳥の巣頭を振り返ると、こいつはつい今しがたまでの不機嫌さは忘れたように、なぜだか照れたような、はにかんだ笑みを浮かべて「うん」と頷いていた。




 あの日からずっと、梟には逢っていない。彼からも連絡はない。さすがに僕も自分からあそこへは行けなかった。
 ジョイントの顧客に、梟はあのフラットを引き払っているがどういうことだ、と尋ねられ、初めてその事実を知らされた。だから、ジョイントの取引は停止中だ。たぶん、ボート部を通じてのルートも止まっているんじゃないかな。
 銀狐と彼のお兄さんがあのフラットに来たのはジョイントを取り締まるためではなかったにしろ、普通に考えて、こんな状況でジョイントを売るなんて考えられない。
 それに僕の傍には、いつも銀狐がいる。

 それ以外にも理由はある。
 そろそろ、Aレベル、ASレベルの試験が始まる。今年は受験内容や制度が大きく変わるため、例年は五月半ばにあるハーフタームが創立祭明けにまわされ、学校側も新制度対策に力を入れる。
 僕にしても、ジョイント常習の彼らにしても、まずは試験だ。





 試験期間に入り皆がぴりぴりとしている中で、僕は銀狐に逢いに生徒会執務室に行った。生徒会室もさすがに人影はまばらで、いつもいるのは銀狐くらいだ。彼はこの学年は二度目だから、と試験期間中も黙々と溜まった雑務をこなしている。元・奨学生の余裕といったところだろうか。

 僕が部屋に入ると、その日は珍しく先客がいた。黒いローブを見て一瞬、大鴉かと思い、ドキリと心臓が跳ねる。プラチナ・ブロンドのその彼が、大鴉のはずがないのに。おまけにローブから覗くのは灰色のスラックスだ。

 二人は僕に気づくなりぴたりと会話を止めた。執務机を挟んで銀狐と向き合って座っていた監督生は、おもむろに振り返り僕を見あげる。いつもの銀狐の様子と違う重苦しい雰囲気に戸惑い、「お邪魔でしたか? 出直してきます」と、口篭もりながら告げた。

「かまわないよ、モーガン。話はもう終わったから」
 銀狐の面にやっと笑みが浮かぶ。おざなりの。手前の監督生は、立ちあがり、二言、三言、銀狐と言葉を交わして部屋を出ていった。

「お茶を淹れようか?」
 ぼんやりとつっ立ったままだった僕に、銀狐が声をかけてくれる。
「あ、僕がするよ」

 立ちあがりかけた彼を目で制して、電子ケトルで湯を沸かし、お茶を淹れる。生徒会に入ったばかりの頃は下手だったけれど、今はもう、皆、僕の淹れるお茶は美味しいって言ってくれるようになった。今なら、どうして大鴉が電子ケトルの湯で紅茶を淹れるのを渋ったのかもちゃんと解る。

 ポットの紅茶をカップに注ぐ。その刹那、立ち昇る湯気と金色の芳香が、僕は堪らなく好きだ。

「きみも銀ボタンくんの投資サークルの会員だっけ?」
「名前だけね。僕にはああいうややこしいことは向いてないよ。レポートを読んでもちっとも意味が解らない」
「そう? 僕は面白いけどな」
「え? きみ会員だっけ?」
「違うけれど、いつも誰かが見せてくれる」
 銀狐はふふっと笑ってカップを持ちあげる。

「ああ、ほっとするな」
 いつも明るい、自信に満ちた金の瞳が今日はなんだか元気がない。
「何か面倒なことでもあったの?」
 さっきの深刻そうな様子といい、何だか胸騒ぎがした。

 ジョイントのことがバレたんじゃないかと、気が気じゃなかった。僕は触っていない。でもボート部の方から漏れるかもしれない。あの子たち、何だか口が軽そうだもの。それに、ラグビー部の連中。それから――。想像すれば切りがない。


「銀ボタンくんのことでね……」
 銀狐の口から深いため息が漏れる。

 大鴉――。ほっとしたのか、拍子抜けしたのか「あ……」と間抜けな声をあげてしまう。

「彼がどうかした?」
「きみ、本当にこのサークルに興味がないんだね。メール読んでいないんだ?」

 銀狐は僕を見て苦笑する。

「彼、投資サークルの活動を予定よりも早く停止しただろ? 続けてくれって嘆願がすごいんだよ」

 きょとんとした僕を見て、銀狐はくすくす笑いながら首をすくめる。



 そのニュースを聴いて、まず僕の脳裏に浮かんだのは、大鴉ではなく梟のことだった。




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