微睡む宵闇 揺蕩う薫香

萩尾雅縁

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四章

120 図書館

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 悠久の時に揺蕩う
 一片ひとひら
 儚い夢



 その晩、鳥の巣頭は僕をただ抱きしめて眠った。僕は昨日、今日といろいろあって酷く疲れていたせいかすぐに眠りに落ちていた。久しぶりに、ふわりと心地よい微睡みの中にいた。温かくて、安心できる――。



 翌日から始まったカレッジ・スクールは、僕だけ文系なので鳥の巣頭や銀狐と被る授業は少なかったけれど、お昼は校舎のカフェテリアで一緒に食べた。講義の合間の空いた時間は大学の図書館ですごした。宿舎の部屋に戻っているよりも、ずっと集中して自習できる。

 大きなアーチ型の窓から差しこむ明る過ぎる西日に掌でひさしを作って身体の向きを変え、頭上高くに張り巡らされている飴色の梁や、木製の天井に描かれている絵を眺めて、重厚な歴史の染めあげたそのしめやかな色彩に目を休める。古色蒼然とした重々しい装丁の希少本の並んだ本棚に囲まれた空間は、どこか懐かしい古書独特の香りに包まれていて僕を柔らかな静寂で包んでくれる。

 父が、祖父が、僕に繋がる何世代もに渡るモーガン家の当主が、その青春を過ごしたこのオックスフォード大学は、僕の憧れの終着点だ。
 もっとも、その憧れの出発点エリオットがああだったのだから、この大学に通えるようになったところで、僕はまた失望することになるのかもしれないが――。


 鳥の巣頭に、言われたことを考えていた。

 あいつにとっての一番の過ちは、一番最初、寮長の犯した過ちを糾弾しなかったことだ、と。アヌビスの時も同じだ、と。自分が口を噤んだことが、ここまで僕を傷つけることに繋がったのだ、と。
 僕を守るためになすべきことは何だったのか、今ならちゃんと解るのに、あの頃は解らなかったのだ、と。

 そんなことを今さら言って何になる? 

 鳥の巣頭が守りたいのは、僕じゃない。愚かで臆病だった自分自身だ。そんな自分をなかったことにしたいだけ。傷ついた自分を誰かのせいにしたいだけ。何もできなかった自分なんて、それこそ都合のいい相手じゃないか。文句も言いやしないしね。

 僕は今さらそんな言い訳をするつもりはない。

 ここにいること。それが、僕の存在意義の全てだ。

 エリオットや、このオックスフォードの思い出を誇らしげに語る父の夢を、僕が叶えてあげたかった。祖父のように、外交官になることができなかった父のために。

 父のようになりたくはなかった。懐かしい思い出を語るだけの存在に――。
 もしもあのとき、と言いながら笑って、泣いて、ため息をつくような真似はしたくない。父のように――。鳥の巣頭のように――。

 僕は後悔なんてしていない。もしも時間が巻戻せたとしても、僕は同じ選択をするだろう。

 エリオットから一直線に伸びる道。それが僕の選んだ道。

 ただ、今はその道が、決して喜びと栄誉のみに包まれたものではないということ、その行き着く先が夢見たような輝かしいものだけではないことを、知っている。

 それはジョイントの魅せる刹那の快楽のように、儚く、脆い、夢。
 それでも、僕は――。


 鳥の巣頭の真っ直ぐな瞳は、この強すぎる西日に似て、激しく直線的で僕の住むこの闇の全てを曝けだす。全てを曝けださせてもなお、あいつは僕を好きだと言う。

 僕のことで、いまだにあの頃と同じように涙を流すあいつを前にすると、僕はどうしていいのか解らなくなる。

 あいつが何を悩んでいるのか、まるで解らない。


 ――こんなにも傷ついているきみを見ているのに。それでも僕は、きみを欲しいと思ってしまうんだ。そんな浅ましい自分を恥じているのに。……どうしたって、この欲望は消せない。


 僕が欲しいなら抱けばいい。
 みんな、そうしているじゃないか。

 この器の中は腐った霧の揺蕩う空っぽの空間だ。いくら抱いたところで、僕は傷ついたりしない。誰に抱かれたところで、きみのように傷ついたりはしないのに。




「隣、空いているかな?」

 見あげた相手のその臭いに、僕は微笑んで応えた。

「ええ、どうぞ」

 僕と同じ腐った臭い。


 鳥の巣頭、きみが泣こうが怒ろうが、僕は腐った芳香を放ち続ける。この香りを好む腐った奴らを惹きつける。
 だから、僕には梟が似合っているんだ。僕と同じ腐った彼が。

 僕はもう、きみに、僕はふさわしくないって解っているんだ。
 だって、こんな僕といると、きみの涙は枯れないじゃないか。
 腐った僕の臭いに触れて、きみまで汚れてしまうじゃないか。

 きみは、僕とは違うのに。
 きみは、陽のさんさんと輝く日向の道を、自分の足でしっかりと歩いて行ける人なのに。


「時間があるならお茶でもどう? カレッジ・スクールに参加しているの? 僕はここの学生なんだ。街を案内してあげようか? いろいろ教えてあげられるよ」

 隣の男の手が伸びてくる。親しげに、ページを捲る僕の手の上に被せられる。親指が手の甲を円を描くように撫で摩る。


 懐かしい、ジョイントの香りに、むせ返る。

 



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