微睡む宵闇 揺蕩う薫香

萩尾雅縁

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四章

119 知らないという事

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 一粒のつぶて
 広がる波の輪
 静寂の残響



「どうして、そんな、酷いことを言うの?」
 大きく見開いた鳥の巣頭の瞳に、微笑んでいる僕が映る。
「誰が、そんな、酷いことを言ったの?」
 震える声が、一段と大きく問い質す。
 僕は寝転んだまま首を傾げ、頭を滑らせて肩につけた。

「一学年のとき。先輩方が僕を迎えにきただろ。『公衆トイレなんだから誰が使おうとかまわないだろ?』て。きみ、あの意味解らなかったの? それとも、もう覚えてないのかな、僕が寮の医務室に運びこまれたときのこと」

 僕を見つめるこいつの顔が、みるみる険しく引きつっていく。

「そんな、昔のこと――」
「ほんの数年前じゃないか。今も何も変わりはないよ。今は梟――、マイルズ先輩が管理してくれているから、みんな先輩にチップを払ってお行儀良く使うようになったってだけだよ」
「マイルズ先輩――?」


 僕はもう、鳥の巣頭は銀狐から全てを聴いて知っているのだと思っていた。梟のことも。僕があの部屋で、毎週何をしていたかってことも。

 鳥の巣頭はぎゅっと眉をしかめ、ゆっくりと身体を起こしベッドに座り直した。そのままがっくりと肩を落として背中を丸め、考えこむように俯いている。

「それは、つまり、不特定多数が、先輩に、お金を渡して、きみを、性欲処理に、使っていた、って意味だよね……」

 顔を上げて僕を見つめ、くぐもった声音で確認するように一言、一言区切られて発音されたその言い方が可笑しくて、僕はくすくすと笑った。

「ずいぶん、回りくどい言い方をするんだね」
「そうなの?」
「そうだよ。きみがするのと、全く同じことをしていたんだよ。だから、」
「だから?」
「そんなふうに、泣かないで」

 見開いたままの目を縁取る睫毛から、いくつも、いくつも零れ落ちる涙を、僕は唇で受け止め、舌先で拭った。
 でも、こいつはぶんぶんと顔を振り払って僕を拒んだ。

「同じじゃない! 全然、同じなんかじゃないよ、マシュー……。どうして、そんな。どうして!」

 僕の両肩を掴み、喰ってかかるこいつに困惑し、眉をひそめた。

「ジョイントが欲しくてそんなことをしていたの? そんなことをさせるために、先輩はきみにジョイントを渡していたの!」

 声を荒らげるこいつに、僕は唇の前で人差し指を立てる。

「隣に、聞こえてしまうよ」

 でも、こいつは顔を真っ赤にして怒りに震えている。

「兄も。兄もそうなんだね。暴力だけじゃない。きみにジョイントを吸わせて強制していたんだ。きみが、ジョイントの中毒性に囚われて逃げられないように!」

 何を今さらこいつは言っているんだろう? きみだって、僕にジョイントをくれていたじゃないか。

 なぜこいつがいきなり怒りだし、ジョイントのことを言いだしたのか、理解できなかった。


「セドリック先輩……。セドリック先輩もそうなの? 好きで、好き合って、つきあっていたんじゃなかったの?」
「子爵さまが好きだったのは、ソールスベリー先輩だよ。僕は彼に似ていたから……。だから、梟から僕を買ったんだよ」

 鳥の巣頭は唇を噛んで下を向いた。
 僕はまた困ってしまって、首を傾げて訊いた。

「どうして今さらそんなことを訊くの? きみだって知っていたじゃないか。子爵さまが一番高い値段で僕を買ってくれたから、僕は三学年のときは誰にも襲われたりしなかったんじゃないか。だからきみだって、子爵さまと僕が会うことに文句をつけなかったんじゃないか」

 鳥の巣頭は両手で顔を覆い、嗚咽している。僕がそっと背中に手を当てても、拒むように身を揺する。僕はどうしていいのか判らなくて、仕方なく、こいつの隣でぼんやりしていた。



 静かな狭い室内に、押し殺すようなすすり泣きが惨めに漂う。窓の外はまっ暗だけど、広い中庭を挟んだ向かいにある別の宿舎にともる灯りが、ぽつぽつと温かな色を浮きあがらせている。

 僕はジョイントを吸っていたこと以上に、あの部屋で僕がしていたことを、こいつに知られるのが嫌だった。だって、きっとこんなふうに怒って泣くだろうな、って解っていたもの。一学年の頃みたいに、小さな子どもみたいに泣くんだろうな、って。
 どうしてこいつは、こんなにも変わらないのだろう? 自分だって同じことをしているくせに、自分は違うって言い張って認めないのだろう? 認めてしまえば、大したことじゃないって、解るのに――。

 誰もが、暗闇に浮かぶ温かい窓の中にいて。
 それを眺める僕は闇の中に溶けてしまっていて。
 その灯りと僕が交わるのはジョイントの腐った煙が包むときだけ。今はもう、僕自身がジョイントの煙と同じ腐った香りそのものだから、吸う必要すらなくなってしまっている。

 揺蕩う白い煙の見せる夢に意味なんてない。

 どうしてきみには解らないのかな?




「マシュー、」

 どれくらい経ったのか、泣き止んだ鳥の巣頭がやっと顔を上げた。

「ごめん。ごめんよ」

 なぜだかこいつは、僕に謝った。瞼が泣きすぎて赤く腫れあがっている。僕は微笑んで、掌でこいつの頬を拭いた。

「どうしてきみが謝るの?」
「ごめんよ。僕は何も知らなかった」

 知らなかった? 銀狐に全て聴いたんじゃなかったのか?

 呆気に取られてしまった僕の肩に、こいつはコツンと額をもたせた。

「知らないということは、罪深いことだね」

 僕にはこいつの言う意味は解らなかったけれど、こいつの声はもう静かに落ち着いていたので、そっと背中を抱きしめた。広い肩幅とボート部で鍛えた筋肉質な背中なのに、今のこいつはなんだか頼りなさげな、儚い幻のようだった。

「キスしてもいい?」

 顔を起こして僕に向けられた面は、すっきりと、だけどどこか不器用な笑みを湛えている。それでもこいつが笑ってくれたので、僕はほっとして目を瞑り、ついっと顎を突きだした。触れるだけのキスが唇を通りすぎ、感触だけが柔らかく残った。

「ありがとう。きみが、好きだよ、マシュー」

 囁かれた声は、掠れた隙間風のようだった。




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