微睡む宵闇 揺蕩う薫香

萩尾雅縁

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四章

118 鳥の巣頭の告白

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 宵闇に漂う薄霧が流れ
 覗き見た
 遍く月光が照らしだす
 夢
 
 
 

 オックスフォードの宿舎に到着したのは、もう日も暮れてからだった。到着時刻をメールで鳥の巣頭に知らせたからか、こいつは宿舎の玄関の、蜂蜜色の石壁にぼんやり寄りかかって待っていた。ウォールライトの白い光が頭上からこいつを照らして、俯きかげんの淋しげな顔に濃い影を刻んでいた。

 吐き気にも似た罪悪感が背中を一気に駆けあがる。緊張で胃がきゅっと縮こまる。僕は顔を伏せ、鞄の持ち手を強く握りしめていた。
 鳥の巣頭は僕を見るなり駆けよって、人目もはばからず抱きついた。痛いほど、きつく抱きすくめられた。

 こほん、と銀狐のお兄さんに隣で咳払いされ、やっと気がついたように僕を放す。

「ありがとうございました」

 鳥の巣頭は銀狐のお兄さんの正面に立ち、姿勢を正して、真っ直ぐに彼を見つめてお礼を言った。そして、その傍らにいた銀狐を軽くハグした。
「きみも、ありがとう」

 こいつは昨夜のことを、どんなふうに銀狐から聴いたのだろう――。

 それきり鳥の巣頭は、そのとき見せた深刻な空気を一変させ、食事は済ませたのか、とか、道は混んでいたか、とさりげない話題を朗らかに訊ねながら、僕の鞄を持ってくれ、宿舎の手続きをするカウンターまでつき添ってくれた。銀狐のお兄さんとはここでお別れだ。「何かあったらいつでも相談にのってやるから、遠慮せずに来いよ」とお別れの握手を交わしながら、お兄さんは僕の肩をバンバンと叩いて励ましてくれた。この善良な人を騙している自分に良心が疼いた。僕は曖昧な笑みを浮かべて頷き、目は伏せたまま、小さな声でお礼を言った。



 銀狐と部屋の前で別れ、自室に入った。鳥の巣頭は鞄を床に下ろすなり、僕を抱きしめた。

「きみが無事で良かった」

 僕にはもう、どう応えていいものか判らなかった。
 ここへ来るまで、ずっと銀狐と話していた。銀狐はこいつの胸の内をあますところなく代弁してくれた。不器用なこいつが、僕には言えなかった心の言葉を――。


 鳥の巣頭はずっと梟のことを信じていた。
 もし、僕が梟のことを本気で好きなのなら、自分は身を引こうと考えていたのだという。
 それなのに……。

 ――きみの身体に暴行の痕がある、って相談されたんだ。きみがまた、以前のような酷い目に遭わされているのではないのか、って。


 大鴉の投資サークルでおかしくなってからだ。
 梟は僕のことよりも株の取引に夢中で、他の奴らも、ジョイントを吸っていないときでも恐ろしくハイテンションで、気の向くままに僕を貪っていた。僕はもうそんな状況に疲弊しきっていて、身体に痕が残っているかなんて気にかけることすら忘れていたんだ。


「きみが、好きだよ」
 掠れた声が僕の耳を擦る。
「好きだよ、マシュー」
 まるでもたれかかっているような、力ない鳥の巣頭の抱擁に違和感を感じながら、こいつの髪に指を差し入れ撫で摩りながら、「僕も好きだよ」と囁き返した。

 鳥の巣頭は僕の背中に回していた腕を解いて、僕の胸を押し顔を背けた。

「――きみは、好きだよ、って言うと、好きだよ、って返してくれる。愛してる、って言っても、愛してる、って言ってくれる。きみはまるで木霊のようだよ。どんなに真剣に言葉を尽くしても、きみの心はそこにはなくて、僕の心が跳ね返ってくるだけなんだ」


 何も言い返せなかった。だって、その通りだったから。僕の心がどこにあるかなんて、僕だって知りはしない。

 鳥の巣頭は泣きだしそうな顔で、きゅっと唇をへの字に結び僕の両肩を掴むと、僕をベッドに押し倒した。
 僕を組み伏せ伸しかかりながら、鳥の巣頭は涙をいっぱいに溜めた目を瞬かせて僕に唇を押しつけていた。

「きみは僕にキスされて、幸せだと思ってくれたことが、一度でもある?」
 涙が、ぽとりと僕の頬に落ちた。
「僕に抱かれて気持ちいいって思ったことが、一度でもある?」
 泣き濡れた頬を僕の首筋に押しつけ、強く、強く抱きしめる。


 ――僕ではきみを抱けないから、僕にきみのことを託したんだろうって? きみが彼のことをそんな偏狭な卑しい人間だと思っているなんて、本当に残念だよ。彼は僕の身体のことは知らないよ。彼が僕を信じて頼ってくれたのは、もっと別の理由からだよ。


 眉根をしかめて僕を睨みつけた銀狐の、あの失望でくすんだ金の瞳が脳裏をよぎる。


「きみが僕を欲しいと言うのは、眠れないからで、眠れさえすれば、相手は誰でも良かったんだ」


 ――きみはかつての痛ましい事件が原因で、心に深く傷を負っていて、他人と健全な人間関係を結べなくなっている。特に、きみは性的な視線を向けられることを極端に恐れている。恐れているからこそ、よけいにその行為そのものを意味のないものにしようとする、って。彼はそんなきみのことを、心の底から心配しているんだ。


「きみの瞳はいつも僕を素通りして他の誰かを追っていて、僕を見ない」

 ――彼は、そんなきみがやっと好意をもつことができたセディと、きみとの仲を割いたことを後悔しているんだ。

 子爵さまとは、そんな仲なんかじゃなかった。僕はお金で買われただけ。



「こうしてきみを抱きしめているときでも、きみの心はここにはないんだ」

 ジョイントの白い煙に溶けてしまった僕の心は、僕にだって見つけられない。

「それなのに、僕は――、きみを手放せない。解っているのに、――きみを自由にしてあげられないんだ」

 自由――。
 大鴉の黒いローブが翻る。

「おかしいのは、きみじゃない。……僕の方」

 僕の心を読んだように、鳥の巣頭は僕を抱きしめる腕に力を入れた。僕の心を、この場に繋ぎ留めようと躍起になって。

「狂っているのは、僕なんだ」

 首をもたげ、ぐしゃぐしゃに涙で汚れた面を僕に向けて、その涙で固まって耳や首筋に張りついていた僕の髪をそっと梳きほぐしながら、鳥の巣頭は喉の奥から絞りだすように呟いた。

「狂おしいほど、きみを愛してるよ、マシュー」


「僕はそんなふうにきみに想ってもらえるような人間じゃないよ」
 僕はこいつの背中に腕を回し、ふわりと抱きしめてやった。

「だって、僕は公衆トイレだろ? きみだって、僕を使って排泄してすっきりすればいいんだよ。馬鹿だなぁ、そんなに思い悩むことなんてないのに」



 こいつの背をとんとんとあやすように叩いてやって、目を大きく見開いたまま僕を見つめているこいつを安心させるように、にっこりと笑いかけてやった。



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