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四章
117 兄弟
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静寂に溶ける
嘘
真実
その晩は、ロンドンの銀狐の兄のフラットに泊めてもらった。
三階にある部屋まで、彼は銀狐を横抱きにして階段を上がり、言われて僕が彼のポケットから鍵を取りだしてドアを開け、電気を点けた。彼の家もスタジオフラットで、ダブルベッドとソファーに、申しわけ程度の家具があるだけの簡素な部屋だった。「寝に帰るだけだからな」と、銀狐の兄は言い訳しながら苦笑する。
銀狐をベッドに下ろすとすぐに彼はキッチンに行き、てきぱき動いて慣れた様子で温湿布を作り、銀狐のスラックスを脱がせて脚を温めマッサージを始めた。
「本当に、お前は言うことを聞きやしないやんちゃ坊主だからな!」
ぶつぶつ文句を言っているお兄さんに対して、銀狐は照れたように、にやにやしている。話を逸らすためにか、僕に顔を向けるとくすくす笑いながら目配せしてきた。
「そんな顔しないで、マシュー。脚の具合が悪くなったのと、きみは無関係だよ。今日は一日中、立ちっぱなしだったからなんだ」
「なんでも自分でどうにかしようとせずに、さっさと俺を呼べばいいのに!」
まだお兄さんは、仏頂面で銀狐を睨めつけている。
「何のために警察がいると思っているんだ!」
その言葉に、びくりと心臓が跳ねた。でもお兄さんはそのまま銀狐に向かって大いに小言を言い続けている。
僕は邪魔にならないように銀狐の頭側の床に腰を下ろし、ベッドの端に肘をかけて代わる代わる二人を見ていた。
怒られて小さくなって、でも嬉しそうに笑っている銀狐が羨ましくて、僕もつられて微笑んでいた。そんな僕をちらりと見て、お兄さんは少し恥ずかしそうに口をつぐんだ。
「僕は一人っ子だから、兄弟がいるのって羨ましいな」
「うちは男ばっかり五人もいるからね。僕は二番目。まだ下に三人もいて、皆が揃うと賑やかだよ」
目を細めて笑う銀狐は、すっかりくつろいでいるみたいだ。車に乗っていたときのような痛みは、もう楽になったのだろうか。
お兄さんは銀狐を叱りながら、ときに気遣いながらマッサージを続けている。いつの間にかその温かな声が遠ざかり、僕はうつらうつらと眠りに落ちていた。
「この子を見ているとぞくりとくるな。まさしく傾国の美女って風情だ。女に対する形容しか思いつかないってのもなんなんだが――。何だろうな、全然女っぽいわけでもないし、まるきりそっちの人間に見えるわけでもないのに」
「兄さん、惚れちゃ駄目だよ、彼には恋人がいるんだから」
「俺は女の方がいいよ。でもまぁ、この子がトラブルの元になるってのは理解できるってことさ」
くっくっと声を殺した、悪気のない笑い声が聞こえる。
「彼の責任じゃないよ。美しいことが罪だなんて、誰に言える?」
「――堅物のお前でもそんなふうに考えるのか?」
「大切な友人なんだよ」
それきり、会話は途絶えた。
次に目を開けたとき、僕はベッドに寝かされていて、横にはパジャマに着替えた銀狐がすやすやと眠っていた。
室内の灯りは消されていて、窓の傍にあるソファーから穏やかな寝息が聞こえていた。銀狐のお兄さんは、僕と銀狐にベッドを譲ってくれ、自分はソファーで寝ているのか。
ベッドサイドライトの小さな灯りに照らされる、銀狐の青白い顔をぼんやりと眺めた。唇に瘡蓋ができている。きっと、僕が無理やりキスしたときに爪で傷つけたんだ。
それに、脚も――。僕のせいではないと言ってくれたけれど、彼はあの時間までずっと外であの部屋を見張っていて、梟たちが出かけて僕一人になるのを待っていたんだ。
まず僕と話して、それから梟と話をつけるために――。
鳥の巣頭も知っているのだろうか……?
クリスマス・マーケットからずっと、って言っていたから……。もしかすると、あの時僕を助けてくれた監督生は偶然通りかかったんじゃなくて、銀狐に頼まれて――。僕の後をつけていたのか。
なんて奴――。
鳥の巣頭も知っているんだ。あいつが銀狐に頼んだに決まっている。独占欲が強くて嫉妬深いあいつのことだもの。
あいつが何故銀狐だけは信用して、僕が仲良くしても焼きもちを焼かないのかこれで解った。
銀狐は僕を抱けない。
そんな、馬鹿みたいな、単純な理由だったんだ。
こんなふうに僕を縛ろうとするから、僕はどんどん息ができなくなるのに……。三ヶ月も放っておいてくれたのだから、もう僕を放してくれればいいのに。
どうして今さら――。
眠っている銀狐を揺すり起こして訊ねようと、彼の肩に手をかけた。が、ふと今何時だろうかと気になって、肘で半身を起こして部屋を見渡した。
カーテンの隙間から、夜明け前の緩やかな日差しが仄かに漏れ入っている。動きだしたばかりの街を、自動車の走行音がときおり通りすぎていく。いまだ微睡みの中にあるこの部屋の空気は、優しく穏やかだ。
すやすやと無防備に眠る銀狐をこんな時間から起こすのも忍びなくて、僕はもう一度眠りにつこうと、固く目を瞑ることにした。
嘘
真実
その晩は、ロンドンの銀狐の兄のフラットに泊めてもらった。
三階にある部屋まで、彼は銀狐を横抱きにして階段を上がり、言われて僕が彼のポケットから鍵を取りだしてドアを開け、電気を点けた。彼の家もスタジオフラットで、ダブルベッドとソファーに、申しわけ程度の家具があるだけの簡素な部屋だった。「寝に帰るだけだからな」と、銀狐の兄は言い訳しながら苦笑する。
銀狐をベッドに下ろすとすぐに彼はキッチンに行き、てきぱき動いて慣れた様子で温湿布を作り、銀狐のスラックスを脱がせて脚を温めマッサージを始めた。
「本当に、お前は言うことを聞きやしないやんちゃ坊主だからな!」
ぶつぶつ文句を言っているお兄さんに対して、銀狐は照れたように、にやにやしている。話を逸らすためにか、僕に顔を向けるとくすくす笑いながら目配せしてきた。
「そんな顔しないで、マシュー。脚の具合が悪くなったのと、きみは無関係だよ。今日は一日中、立ちっぱなしだったからなんだ」
「なんでも自分でどうにかしようとせずに、さっさと俺を呼べばいいのに!」
まだお兄さんは、仏頂面で銀狐を睨めつけている。
「何のために警察がいると思っているんだ!」
その言葉に、びくりと心臓が跳ねた。でもお兄さんはそのまま銀狐に向かって大いに小言を言い続けている。
僕は邪魔にならないように銀狐の頭側の床に腰を下ろし、ベッドの端に肘をかけて代わる代わる二人を見ていた。
怒られて小さくなって、でも嬉しそうに笑っている銀狐が羨ましくて、僕もつられて微笑んでいた。そんな僕をちらりと見て、お兄さんは少し恥ずかしそうに口をつぐんだ。
「僕は一人っ子だから、兄弟がいるのって羨ましいな」
「うちは男ばっかり五人もいるからね。僕は二番目。まだ下に三人もいて、皆が揃うと賑やかだよ」
目を細めて笑う銀狐は、すっかりくつろいでいるみたいだ。車に乗っていたときのような痛みは、もう楽になったのだろうか。
お兄さんは銀狐を叱りながら、ときに気遣いながらマッサージを続けている。いつの間にかその温かな声が遠ざかり、僕はうつらうつらと眠りに落ちていた。
「この子を見ているとぞくりとくるな。まさしく傾国の美女って風情だ。女に対する形容しか思いつかないってのもなんなんだが――。何だろうな、全然女っぽいわけでもないし、まるきりそっちの人間に見えるわけでもないのに」
「兄さん、惚れちゃ駄目だよ、彼には恋人がいるんだから」
「俺は女の方がいいよ。でもまぁ、この子がトラブルの元になるってのは理解できるってことさ」
くっくっと声を殺した、悪気のない笑い声が聞こえる。
「彼の責任じゃないよ。美しいことが罪だなんて、誰に言える?」
「――堅物のお前でもそんなふうに考えるのか?」
「大切な友人なんだよ」
それきり、会話は途絶えた。
次に目を開けたとき、僕はベッドに寝かされていて、横にはパジャマに着替えた銀狐がすやすやと眠っていた。
室内の灯りは消されていて、窓の傍にあるソファーから穏やかな寝息が聞こえていた。銀狐のお兄さんは、僕と銀狐にベッドを譲ってくれ、自分はソファーで寝ているのか。
ベッドサイドライトの小さな灯りに照らされる、銀狐の青白い顔をぼんやりと眺めた。唇に瘡蓋ができている。きっと、僕が無理やりキスしたときに爪で傷つけたんだ。
それに、脚も――。僕のせいではないと言ってくれたけれど、彼はあの時間までずっと外であの部屋を見張っていて、梟たちが出かけて僕一人になるのを待っていたんだ。
まず僕と話して、それから梟と話をつけるために――。
鳥の巣頭も知っているのだろうか……?
クリスマス・マーケットからずっと、って言っていたから……。もしかすると、あの時僕を助けてくれた監督生は偶然通りかかったんじゃなくて、銀狐に頼まれて――。僕の後をつけていたのか。
なんて奴――。
鳥の巣頭も知っているんだ。あいつが銀狐に頼んだに決まっている。独占欲が強くて嫉妬深いあいつのことだもの。
あいつが何故銀狐だけは信用して、僕が仲良くしても焼きもちを焼かないのかこれで解った。
銀狐は僕を抱けない。
そんな、馬鹿みたいな、単純な理由だったんだ。
こんなふうに僕を縛ろうとするから、僕はどんどん息ができなくなるのに……。三ヶ月も放っておいてくれたのだから、もう僕を放してくれればいいのに。
どうして今さら――。
眠っている銀狐を揺すり起こして訊ねようと、彼の肩に手をかけた。が、ふと今何時だろうかと気になって、肘で半身を起こして部屋を見渡した。
カーテンの隙間から、夜明け前の緩やかな日差しが仄かに漏れ入っている。動きだしたばかりの街を、自動車の走行音がときおり通りすぎていく。いまだ微睡みの中にあるこの部屋の空気は、優しく穏やかだ。
すやすやと無防備に眠る銀狐をこんな時間から起こすのも忍びなくて、僕はもう一度眠りにつこうと、固く目を瞑ることにした。
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