微睡む宵闇 揺蕩う薫香

萩尾雅縁

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四章

114 四月 イースターの始まり

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 闇に溶ける僕には影がない
 広がる闇が僕の影



 イースター休暇に入ったばかりの土曜日だった。鳥の巣頭とはいったん別れ、オックスフォードのカレッジ・スクールでの再会の約束をした。

 寮の部屋に僕を迎えにきた鳥の巣頭に、いつもロンドンの自宅まで送ってもらっているけれど遠回りになるし、後輩が同じロンドンだから今回は彼に送ってもらう、と告げた。
 こいつは憮然としていたけれど、「そうだね、その方がいいね」と引きつった笑みを浮かべて頷いた。フェローズの森の手前にある駐車場まで送るよ、と僕はこいつと肩を並べて部屋を出た。



「焼きもち?」
 もう大方の寮生は出立しているので、辺りにひと気はない。森の手前を通る細道を行きながら、僕はくすくす笑い、こいつの頬に掠るようなキスをした。鳥の巣頭は照れたように笑い頭を振る。
「そんなに心配なら一緒に帰ろうか?」
 耳許で囁くと、こいつは眉を八の字にしてさらに強くぶんぶんと首を振る。

 もちろん、こいつが頷くはずがないのは解っていた。ボート部の後輩の手前、こんな直前で勝手な真似ができるわけがないもの。生徒総監としてのこいつは、人前では別人のような態度で僕に接しているのだから。

「たとえ一日、二日のことでも、きみと離れるのが不安なんだよ」
 鳥の巣頭はちょっと困ったように口角を上げ笑みを作る。
「何を不安に思うことがあるのさ? 明日の夜には逢えるよ」
 僕は唇を尖らせる。鳥の巣頭は立ち止まり軽く僕を抱きしめた。数台停まっている迎えの車の内の一台が、僕たちに気づき軽くクラクションを鳴らす。

「また、明日ね」
「うん、また」

 走り去っていく車の後部座席から、鳥の巣頭がいつまでも僕を見つめているような気がして、僕はぼんやりとその場につっ立って見送っていた。

 しばらくして、ガヤガヤと賑やかな声にはっとして振り返った。大声でじゃれあいながらやってきた連中は、黒のローブをなびかせている。

 大鴉――。それに、銀狐も?

 大鴉がよく一緒にいる友人たちの一団の中に、銀狐の姿もある。べつに、不思議な組み合わせという訳ではないが、僕はなぜだかいたたまれなくて、駐車場に停まっていた車の陰に隠れるようにしゃがみこんだ。

 重なり合う声の中から大鴉の声だけを聞き分けようと鼓膜に神経を集中しているのに、ドキドキと自分の心臓が高鳴る音ばかりが聞こえていた。話し声が止み、車が走りさるまで、足下の砂利ばかりをじっと見つめていた。自然に顔が緩んでいる。これから二週間も逢えないのに、この場で彼に逢えたことが奇跡のように思えた。

「きみ、そこで何しているの?」
 銀狐の声に顔を上げ、照れ隠しのように苦笑いを浮かべた。

「見送り。帰ろうとしたら、ちょっと立ちくらんじゃって」
「大丈夫?」
 こんなとき、銀狐は手を差し伸べたりしない。でも、それは親切心がないからじゃないんだ。
「寮まで送るよ」
 その手を掴まれても相手を支えることができないから。そんな自分をもどかしく思っていることを、僕は知っている。
「きみはまだ出発しないの?」
「生徒会の雑用が残っていてね。きみは?」
「戻ったら、もうすぐ出るよ。後輩の迎えの車に便乗させてもらうんだ」
「そう? 一度家に帰るんだね。僕はもう家には戻らずに直接オックスフォードだ」
「でも、手続きは明日からでしょ?」
「今晩はセディの部屋に泊めてもらう」

 子爵さま――。子爵さまも、オックスフォード大学だ。

 知ってはいたけれど、今まで実感が沸かなかった。今もよく判らない。子爵さまに逢うことがあるだろうか……。

 なんとなく黙りこんでしまった僕に、銀狐の方も特にそれ以上何も言わなかった。

「きみ、少し顔色が良くないよ。無理しないで家でゆっくり休んでくるんだよ」
 怒ったように眉根をしかめる銀狐に、ふわりと笑みを返した。彼は意外に感情表現が不器用で、本当に心配してくれているとき、こんなふうに怒った顔になるんだ。
「ありがとう。また、明日ね」

 僕はちらりと寮の扉の前に目をやった。彼らがもう来ていて僕を待っている。銀狐と門前で別れ、彼らに声をかけた。
「ごめんね、待たせてしまって。すぐに荷物を取ってくるよ」

 彼らに送られて、僕はこれから梟のフラットに向かう。




 初めて梟のフラットに泊めてもらうのだ。そして、明日、梟と一緒にオックスフォードへ向かう。楽しみで仕方なかった。

 だって、僕は疲れきっていたんだもの。ジョイントを吸わなくなってからすでに三ヶ月になる。この間もう、ずっとまともに眠れていない。吸うのを止めれば眠れなくなるのは経験済みだ。でも、吸ったからといって、うつらうつらと微睡むだけ。湯船に浸かっているような浅い眠りにしか揺蕩えない。
 
 だから僕には梟が必要なんだ。
 僕を疲れさせ、安心させてくれる梟の腕が。他の誰も梟の代わりにはなれない。鳥の巣頭でも――。


 それなのに、あの大鴉の投資サークルの話をしてから、梟のフラットはOBの先輩方の溜まり場のようになってしまった。いつ行っても数人がたむろしていて、梟がいてもいなくても関係ない。

 そんな中で、僕は夢とうつつの狭間を漂うように微睡んでいる。彼らは熱心に大鴉の投資の話をし、それに飽きたら僕を喰い散らかしにベッドに来る。ときには一度に何人もで。

 梟の部屋はスタジオフラットだ。他に部屋はない。以前は彼らが僕を喰らっている間は、梟はキッチンに引っこんでいたけれど、この頃ではおかまいなしだ。白熱した議論を交わしている中に、僕の喘ぎ声が混ざっていたって気にもしない。目の前にいる僕を見もしない。

 梟の代わりにボート部の子達がいるとき、彼らはさすがにキッチンにいてくれる。でも声は筒抜けだ。
 この子たちの僕を見る目も、以前とは違う。熱を帯びた山犬のような目で、いつ僕に喰いつこうかと狙っている。

 だけどそんなこと、べつにどうだっていいんだ。大したことじゃないもの。僕はここに来ると疲れ果てて眠ることができる。それが大事。
 今日はここに泊めてもらえるし、梟はずっと僕といてくれるから、久しぶりに梟に甘えられる――。


 って、ね。やっぱり現実はそう甘くなかった。この日もいつものメンバーが揃っていた。ボート部の子たちは、ここまで送ってくれた後、ロンドンのそれぞれの自宅へ帰っていった。
 

 僕はまた、彼らに喰らわれるために横たわる。闇の中に。
 梟は眠ってでもいるかのように動かない。僕を見ない。大鴉と同じように、僕を見ない。






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