微睡む宵闇 揺蕩う薫香

四章

１０７ クリスマス・ストール

　僕にはもう
　僕が見つけられない



　朝起きたときには、薄らと雪が積もっていた。今年は例年に比べて気温が低く寒い。僕と鳥の巣頭は、制服にコートを羽織り寮を出た。礼拝堂に続く正門の前で銀狐と待ち合わせ、三人で、ハイストリートを下って大聖堂に向かった。

　十二月初日から半ばまで、街の中心にある大聖堂前の広場で開かれるマーケットを訪れるのは、初めてだ。下級生組のうちは、外出許可を貰ったり、付き添い上級生を頼んだりが面倒で、こうしてわざわざ足を運ぶ気にもなれなかったのだ。

　いつもは閑散としている石畳の広場に、ストールと呼ばれる木組みの小屋が所狭しと立ち並んでいる。足下の雪はもう溶けてしまっていたけれど、ストールの屋根には、まだところどころ白い綿を載せたように残っている。どんよりと曇った灰色の空の下は、この時期では当然のこととして薄暗く、ストールの中は明るいオレンジ色のライトに照らされている。柔らかなスカーフ類が風に揺れ、細やかな装飾品がきらきらとその存在を主張する。温かく活気のある雰囲気が、冬の冷気に温もりを灯していた。


　その暖色を魅入られたように見つめていた僕は、ぽんと叩かれた肩にびくりと振り返った。
「ごめん、驚かせた？」
　鳥の巣頭が心配そうな瞳を向けている。
「え？」
「どうしたの？　ぼうっとして」
「え――。ああ、人が多いな、と思って」
「明日で終わりだしね。何か食べようか？　それとも、飲み物が先かな？」
「エリオット産の野菜を食べにいかなくちゃ」
　銀狐は、手元のメモを見ながら辺りをきょろきょろと見回している。


　鳥の巣頭と銀狐が話しながら歩いている後を、黙ってついていく。
　賑やかで楽しげな笑い声や話し声が、葉擦れのようにさわさわと流れていく。居並ぶストールで売られる雑多な食べ物の香りが鼻腔をくすぐる。香ばしい焼きたてのソーセージ、甘い菓子、コーヒーの香――。

　急に鳥の巣頭が立ち止まるから、こいつの腕にぶつかってしまった。物珍しさに辺りを眺めながら歩いていた僕は、眉をひそめて顔を上げた。鳥の巣頭は緊張した目つきで、でも口許には笑みを湛えて、広場の中央に設置してあるフードコートを指差した。

「マシュー、そこの席を取っておいてくれる？　人が増えてきているみたいだし。僕たちで何か見繕って買ってくるから」
　頷いて、言われた通りに空いたテーブルの一つに陣取った。

　お昼にはまだ少し早かったけれど、テーブルは次々と飲み物や食べ物を手にした人たちで埋まりつつある。座れて良かった、と思いながら、ぼんやりと二人の背中を目で探した。彼らは、ここからは少し距離のあるストールの前で立ち止まっていた。

　大鴉――。

　彼が、いる。
　銀狐に器の載ったトレイを渡している。何やら楽しげに話している。鳥の巣頭は、そのまますぐに別のストールを覗きながらいってしまい、銀狐だけがトレイを抱えて僕の席に戻ってきた。

「お待たせ。彼、飲み物とパンか何か、買いにいってくれているから。先に食べておいて、って」
　銀狐はそう言いながら、紙製の、湯気の立つカフェオレボウルのような器をテーブルに三つ置いた。それぞれに、ころんとしたじゃがいもや人参、鶏肉のぶつ切りが入っている。
「ポトフ？」
「『おでん』っていうらしいよ。日本料理なんだって。この大根が、うちの学校で作った野菜だって」

　じゃがいもの横の、半透明に透けた、その大根という名の野菜をじっと見つめた。食べたことのない野菜だ。
　川縁の道沿いの土地を、鋤を振るって耕していた大鴉の背中が脳裏を過る。

「マスタードをつけて食べるといいって」

　僕は頷いて、添え付けのプラスチック製のフォークを握り、ボウルの端っこに添えられていたマスタードをたっぷり塗りつけて、大鴉の作った野菜を一口大に切って口に含んだ。

　それは、ポトフみたいで、そうじゃないみたいな、不思議な味がした。

「どう？」
「うん、美味しいよ」

　本当に。なんだかとってもほっとする味だったんだ。

「良かった。きみ、最近、元気がなかったから。ゆっくりしていこうよ。いい気分転換になると思う。もう少ししたら、そこのステージで聖歌隊のミニコンサートもあるんだ」

　にっこりとした銀狐の三日月の目が優しく緩む。
　僕は頷いて微笑み返した。

　僕たちはあまり喋らずに、「おでん」を黙々と食べていた。
　目前の銀狐をすり抜けて、その背後でぼんやりと霞むように浮かぶストールの前に立ち、次々と来る客の相手をしている大鴉を目で追っていた。

「きみは、いつも彼のことを見ているだけなんだね。どうして話しかけないの？」
　僕の方を見るでもなく唐突に訊ねられた質問に、僕はふわりと笑って返した。
「きみ、背中に目でもついているのかい？」
　すいっと銀狐の視線が持ちあがる。
「彼は空の月だもの。手に入らないものを欲しいと言って泣くほど、僕は子どもじゃないつもりだよ」

　僕が誰のことを当て擦ったのかすぐに解ったのか、銀狐の眉がぴくりと動いた。

「きみって、本当に子爵さまに忠実なんだね。忠犬？　まるで職務に忠実な警察犬ドーベルマンだ」

　そう言い放ち、眼前に座るもう一つの凍てついた冬の月を、じっと、静かに見つめ返した。