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四章
106 十二月 香り
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僕が笑えば
きみも笑う
僕の心は
きみには見えない
十二月も半ばになると、生徒会は、学期末のクリスマス・コンサートの準備でなんやかや忙しい。僕はいつものごとく、カードや手紙類の清書で忙しい。もう以前みたいに体調を崩したりはしない。ジョイントはほとんど吸わなくなった。吸っても、薄い薄い奴だ。大して酔いもしないような――。
どうしていまだにやめていないのかって?
「すまない! 部室に部費出納帳を忘れてきた。すぐに渡すから、一緒に取りにきてくれる?」と、こういう奴らがいるからだ。
僕は急いで立ちあがって、この男の後に続く。ラグビー部の部室は、校外のグラウンドの横だ。生徒会執務室から、行って帰るのに二十分はかかる。もちろん、そんなところにまで行くはずがない。僕たちは廊下の端の資料室に入って鍵をかける。
僕はこいつに御注文のジョイントを渡し、お買い上げ代金のオプションを支払う。ジョイントを一本吸っている間だけ。代金の方は前払いで振込だから僕の役目は気楽なものだ。
貴重な本や資料に囲まれ、空気清浄器の動作するこの部屋は実に気持ちがいい。ジョイントの強烈な臭いも見事に吸い取ってくれる。
ジョイントの常習者というのは不思議なもので、見れば判る。なぜかは判らない。吸った直後、というわけでなくても同類には判るんだ。
田舎鼠からジョイントを買っていた連中は、手持ちがなくなったら誰に言えばいいのか、とっくに知っていたんだ。僕だけがその事を忘れていた。あの日まで。
そして今、彼らは僕の気を引くために倍の注文をくれるようになった。僕から商品を直接受け取るために、せっせと執務室に通ってくる。僕はもっと早く気づくべきだったんだ。なんだって、あんなに沢山の貢物が僕の机に置かれるのか。
べつに、顧客開拓する必要なんてなかったんだ。向こうからの必死のアプローチに、緊張でガチガチだった僕が気づかなかっただけ。
「時間だ。離して」
僕は書架にもたれたまま、跪く頭を押しのけた。口許を拭いながら立ちあがると、こいつは未練がましく僕の頭を挟むように書架に両手をかける。僕はついっと顔を逸らし、トラウザーズを直していた。
「つれないなぁ、こんな中途半端で放りだすの?」
「決まりだから」
「なぁ、あと幾ら買えば、最後までやらせてくれる?」
「今の倍」
息を詰める音がする。目を瞠った顔が可笑しくて、僕はくすりと笑ってしまった。
「待ってるよ」
唇を軽く啄んでやり、邪魔な腕を、ぽん、と叩いてすり抜ける。
「あ、忘れるところだった。帳簿くれる?」
手を伸ばした僕に、こいつは渋面で書架の本と横板の隙間を顎で示す。
僕はジョイントの臭いをまとう。僕に相応しい、甘い、腐った臭いを。
そしてその上にトワレを振りかける。誤魔化すためじゃない。より濃厚に香るように――。
「きみ、また香りを変えた?」
執務室に戻ると、ちょうどドアの傍の棚で資料を探していた銀狐が振り返った。
「うん。『屋根の上の庭』、コンセプトが気に入っているんだ。『祝いの庭。光が降り注ぎ、思い通りにできる庭』――素敵だろ?」
「メロン? 林檎かな、果物の香りみたいだ。湿っぽい。それに甘すぎるよ」
「そこがいいんだよ」
腐った僕にぴったりだろ? 熟れ過ぎた果物の、腐りかけて滴る果汁の匂い。『思い通りにしていいよ』って、誘う匂いだ。
「きみ、この土曜日、暇かな?」
土曜日は――、僕は迷うような素振りを見せたのだろうか。
「生徒会の役務じゃなくて、クリスマス・マーケットを見にいかないかい? 銀ボタンくんに食券を貰ったんだ。畑の収穫の手伝いのお礼にね。その野菜で何やら作って、ストールで売っているらしいんだよ」
「日本風ポトフだそうだ! 旨かったぞ!」
会議机で作業していた役員が口を挟む。
クリスマス・マーケットとは、十二月の半ばまで大聖堂前の広場で立つ市のことだ。クリスマス・プレゼント向きの小物やお菓子が売られ、その場で食べられるファスト・フードも人気があるらしい。
この冬の風物詩のマーケットを、僕は訪れたことがない。
「副総監、まだ行ってなかったのか?」
「モーガンも?」
「あれの売上げいかんで、園芸部がエリオット菜園に乗りだそうか、って話が出ているんだ。取りあえず、食べてこいよ!」
「モーガンが行くなら俺も行くよ。副総監さまと二人だけじゃ、心もとない」
「もちろん、総監も一緒だよ。きみたちは、コンサート会場との打ち合わせが入っているだろう?」
「まぁ、今年は滞りなくいきますって。あの問題児二人は欠場だ!」
大鴉と天使くんのことだ。
去年の天使くんの、兄である白い彼を彷彿とさせるピアノ演奏は熱狂的なファンを生みだしていた。加えて、あの白い彼の会社のポスターで一躍有名になった彼に関する問い合わせが後を絶たない。もちろん、学校側はノーコメントを貫いている。うちの学校の生徒であることさえ伏せている。
とはいえ混乱は目に見えているので、前年度に続いてコンサートの出演が決まっていた天使くんに、生徒会、監督生ともに相談の上、出場を見合わせてもらった、という経緯があった。
大鴉は今年は選抜試験を受けなかったそうだ。もうフルートには触りもしないと、誰かが噂していた。彼は気まぐれだからと。
「出なけりゃ出ないで、また文句も出そうですがねぇ」
誰かのため息混じりの声に、銀狐も苦笑している。
「そこを上手くあしらうのが、うちの役目だろう?」
銀狐の言葉に、役員連中はにやりとして首をすくめる。
僕はその様子を、どこか遠くの出来事のように見ていた。
まるで、楽しい映画を鑑賞しているような。一緒に笑ったり、泣いたり怒ったりしながら、スクリーンの中の世界に憧れ、羨ましく思いながら暗闇に座る僕がいる。
「それで、どうする、マシュー?」
銀狐の訝しげな瞳に、びくりと我に返った。
「ああ、そうだね。お昼頃までなら」
にっこりと微笑んだ僕に、銀狐もなぜかほっとしたような笑顔を返してくれた。
お昼頃までなら――。その日は、梟との約束の日だから――。
きみも笑う
僕の心は
きみには見えない
十二月も半ばになると、生徒会は、学期末のクリスマス・コンサートの準備でなんやかや忙しい。僕はいつものごとく、カードや手紙類の清書で忙しい。もう以前みたいに体調を崩したりはしない。ジョイントはほとんど吸わなくなった。吸っても、薄い薄い奴だ。大して酔いもしないような――。
どうしていまだにやめていないのかって?
「すまない! 部室に部費出納帳を忘れてきた。すぐに渡すから、一緒に取りにきてくれる?」と、こういう奴らがいるからだ。
僕は急いで立ちあがって、この男の後に続く。ラグビー部の部室は、校外のグラウンドの横だ。生徒会執務室から、行って帰るのに二十分はかかる。もちろん、そんなところにまで行くはずがない。僕たちは廊下の端の資料室に入って鍵をかける。
僕はこいつに御注文のジョイントを渡し、お買い上げ代金のオプションを支払う。ジョイントを一本吸っている間だけ。代金の方は前払いで振込だから僕の役目は気楽なものだ。
貴重な本や資料に囲まれ、空気清浄器の動作するこの部屋は実に気持ちがいい。ジョイントの強烈な臭いも見事に吸い取ってくれる。
ジョイントの常習者というのは不思議なもので、見れば判る。なぜかは判らない。吸った直後、というわけでなくても同類には判るんだ。
田舎鼠からジョイントを買っていた連中は、手持ちがなくなったら誰に言えばいいのか、とっくに知っていたんだ。僕だけがその事を忘れていた。あの日まで。
そして今、彼らは僕の気を引くために倍の注文をくれるようになった。僕から商品を直接受け取るために、せっせと執務室に通ってくる。僕はもっと早く気づくべきだったんだ。なんだって、あんなに沢山の貢物が僕の机に置かれるのか。
べつに、顧客開拓する必要なんてなかったんだ。向こうからの必死のアプローチに、緊張でガチガチだった僕が気づかなかっただけ。
「時間だ。離して」
僕は書架にもたれたまま、跪く頭を押しのけた。口許を拭いながら立ちあがると、こいつは未練がましく僕の頭を挟むように書架に両手をかける。僕はついっと顔を逸らし、トラウザーズを直していた。
「つれないなぁ、こんな中途半端で放りだすの?」
「決まりだから」
「なぁ、あと幾ら買えば、最後までやらせてくれる?」
「今の倍」
息を詰める音がする。目を瞠った顔が可笑しくて、僕はくすりと笑ってしまった。
「待ってるよ」
唇を軽く啄んでやり、邪魔な腕を、ぽん、と叩いてすり抜ける。
「あ、忘れるところだった。帳簿くれる?」
手を伸ばした僕に、こいつは渋面で書架の本と横板の隙間を顎で示す。
僕はジョイントの臭いをまとう。僕に相応しい、甘い、腐った臭いを。
そしてその上にトワレを振りかける。誤魔化すためじゃない。より濃厚に香るように――。
「きみ、また香りを変えた?」
執務室に戻ると、ちょうどドアの傍の棚で資料を探していた銀狐が振り返った。
「うん。『屋根の上の庭』、コンセプトが気に入っているんだ。『祝いの庭。光が降り注ぎ、思い通りにできる庭』――素敵だろ?」
「メロン? 林檎かな、果物の香りみたいだ。湿っぽい。それに甘すぎるよ」
「そこがいいんだよ」
腐った僕にぴったりだろ? 熟れ過ぎた果物の、腐りかけて滴る果汁の匂い。『思い通りにしていいよ』って、誘う匂いだ。
「きみ、この土曜日、暇かな?」
土曜日は――、僕は迷うような素振りを見せたのだろうか。
「生徒会の役務じゃなくて、クリスマス・マーケットを見にいかないかい? 銀ボタンくんに食券を貰ったんだ。畑の収穫の手伝いのお礼にね。その野菜で何やら作って、ストールで売っているらしいんだよ」
「日本風ポトフだそうだ! 旨かったぞ!」
会議机で作業していた役員が口を挟む。
クリスマス・マーケットとは、十二月の半ばまで大聖堂前の広場で立つ市のことだ。クリスマス・プレゼント向きの小物やお菓子が売られ、その場で食べられるファスト・フードも人気があるらしい。
この冬の風物詩のマーケットを、僕は訪れたことがない。
「副総監、まだ行ってなかったのか?」
「モーガンも?」
「あれの売上げいかんで、園芸部がエリオット菜園に乗りだそうか、って話が出ているんだ。取りあえず、食べてこいよ!」
「モーガンが行くなら俺も行くよ。副総監さまと二人だけじゃ、心もとない」
「もちろん、総監も一緒だよ。きみたちは、コンサート会場との打ち合わせが入っているだろう?」
「まぁ、今年は滞りなくいきますって。あの問題児二人は欠場だ!」
大鴉と天使くんのことだ。
去年の天使くんの、兄である白い彼を彷彿とさせるピアノ演奏は熱狂的なファンを生みだしていた。加えて、あの白い彼の会社のポスターで一躍有名になった彼に関する問い合わせが後を絶たない。もちろん、学校側はノーコメントを貫いている。うちの学校の生徒であることさえ伏せている。
とはいえ混乱は目に見えているので、前年度に続いてコンサートの出演が決まっていた天使くんに、生徒会、監督生ともに相談の上、出場を見合わせてもらった、という経緯があった。
大鴉は今年は選抜試験を受けなかったそうだ。もうフルートには触りもしないと、誰かが噂していた。彼は気まぐれだからと。
「出なけりゃ出ないで、また文句も出そうですがねぇ」
誰かのため息混じりの声に、銀狐も苦笑している。
「そこを上手くあしらうのが、うちの役目だろう?」
銀狐の言葉に、役員連中はにやりとして首をすくめる。
僕はその様子を、どこか遠くの出来事のように見ていた。
まるで、楽しい映画を鑑賞しているような。一緒に笑ったり、泣いたり怒ったりしながら、スクリーンの中の世界に憧れ、羨ましく思いながら暗闇に座る僕がいる。
「それで、どうする、マシュー?」
銀狐の訝しげな瞳に、びくりと我に返った。
「ああ、そうだね。お昼頃までなら」
にっこりと微笑んだ僕に、銀狐もなぜかほっとしたような笑顔を返してくれた。
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