微睡む宵闇 揺蕩う薫香

萩尾雅縁

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四章

104 鳥の巣頭の決意

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 子どもの頃遊んだ
 影踏みのように
 きみは僕の
 影を追う



 寮に戻ると、やはり部屋の前で鳥の巣頭が待っていた。今日はこの前よりもずっと早い時間に戻ってこれたのに。

 鳥の巣頭は僕を見るなり顔をしかめた。
「顔が赤いよ。それに、」
 辺りを気にするようにちらりと目を配り、僕の耳許に顔を寄せる。誰もいやしないのに。
「お酒臭い。お酒を飲んだの?」
 黙ったまま部屋の鍵を開けた。合鍵を持っているくせに、中で待っていればいいのに。


 部屋に入ってから、頬を抑えてこいつを上目遣いに見あげて訊いた。
「そんなに赤い? 夕食にワインを一杯飲んだだけだよ」

 アルコールは、ジョイントの匂いと血色の悪さ、目の充血まで誤魔化してくれる優れものだ。銀狐のおかげで助かったよ。

「お母さま、心配していらしただろ?」

 鳥の巣頭はなぜか怒っている。語尾が震えている。

「なぜ? いつも通りだったよ。きみのことばかり話していた」
 僕はふふっと笑ってみせた。外出用のコートを脱ぎ、ジャケットを脱ぎかけたとき、鳥の巣頭が背後から抱きしめてきた。残された片袖から、パサリとジャケットが床に落ちる。

「もういい、マシュー。今まで誰といたの?」

 僕は午前中、母に逢っていた。これは嘘じゃない。進路のことで指導教員交えての面談があったのだ。違うのは、一緒に食事したのは昼で夕食ではないということだけ。


「ジョイントを吸ったね? ――誰に貰ったの? ――マイルズ先輩?」
 背中越しに僕を抱きかかえたまま、押し殺した声が耳を掠る。
「そうなんだね。どうして? ……きみが退院したとき、あんなに喜んで下さっていたのに。きみが元気になったのをわざわざあんな田舎の僕の家まで確かめに来て下さるほど、きみのことを心配して下さっていたのに。どうしてなんだ!」
 鳥の巣頭の腕に力が入る。
「先輩にお会いした、そのときに何かあったの?」
 たたみみかけてくる質問に僕は答えることができずに、沈黙を貫いた。

「きみの誤解だよ。僕は母と、」
 僕はふっと吐息をつき、身体を反転させて、こいつを抱きしめて囁いた。
「さっきまでご一緒していた」

 すっと、力が抜けた。
 茫然自失する僕をますます強く抱きしめながら、こいつは悔しげに、声を絞りだすようにして続けた。

「学校の成績は問題ないって言われて安心したけれど、きみの顔色があの夏と同じように思えて不安で堪らないって、わざわざ僕に連絡してこられたんだ」
「――それできみは、学校交流会を放りだして、母と逢っていたの?」

 今日は他校の生徒会が訪れ、校内や部活動の様子を案内して回る交流会の日だった。二十名いる役員の半数が参加してる。ほぼ一日を潰すことになる長丁場なので、体調の思わしくない僕は外されていた。
 だから、今日こそは鳥の巣頭よりも早く寮に戻れていると思っていたのに……。

 ため息を漏らした僕の肩を、こいつは怒ったようにぐいっと掴んで引き離した。

「みんな、きみのことを本当に心配しているのに!」
「もういいよ……。僕はこんな、どうしようもない駄目な人間なんだよ」

 珍しく激高する鳥の巣頭から目を逸らして俯いた僕の両頬を挟んで、こいつはついに、溜まりに溜まった胸の内をこれでもか、と吐露し始めた。

「何がもういいんだよ? ケネスだって、きみの様子が変だって心配していた。理由があるなら話して。きみはいつだって何も言ってくれないじゃないか。それなのにきみはまた、もういい、って僕を切り捨ててしまうの? どうしてきみはいつまで経っても、僕を見てくれないんだ。好きなのに。愛しているのに。きみは、ちっとも信じてくれないんだ」

 声が涙ぐんでいる。

 信じるとか、信じないとか言われても、僕には判らない。どいつもこいつも、やるときは、好きだ、愛しているって言うじゃないか。自分だけは他の奴とは違うって。きみだけが違う、ってどうして言える? そんな寝物語を信じろって言う方がおかしいんだよ。

 何も答えない僕を、鳥の巣頭はもう一度、強く抱きしめた。

「きみに逢えなかった一年間、僕がどれほど淋しかったか、辛かったか、きみに解る? きみが苦しい治療に耐えているんだからと、僕もずっと我慢していたんだよ。きみがここに戻ってきたときに安心してすごせるように、ってそれだけを励みにしていたんだ」

 きみが僕をあそこへ放り込んだくせに――。

「聴いて、マシュー。僕は父の業界には進まない。医者になるんだ。医学部を受けるんだよ。精神科医になるんだ。きみの抱える苦しみを、きっといつか僕が取り払ってあげるから。だから、それまでは――、言ったろう? きみの傷ごときみを愛しているよ、マシュー。お願いだ、マシュー、僕と一緒に今を生きて。そしてこれからも、ずっと一緒に僕と生きよう」

「きみは馬鹿だよ。僕はもうこんなにも腐りきっているじゃないか……」

 僕はぽつりと呟いた。

「きみがきみを見捨ててしまっても、僕は絶対にきみを諦めたりしない」

 やっと口を開いた僕に、こいつは湿った睫毛を瞬かせて、本当に、嬉しそうな笑みを浮かべた。





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