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四章
102 飛翔
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向かい風をきみは全身で受けとめる
気持ちがいい
そう言って笑う
執務室に入るなり、室内とは思えないひんやりとした空気に身が縮こまった。見ると銀狐が窓を全開にして、窓枠に腰かけ身を乗りだしている。
「危ないよ」
彼のその不安定な姿勢が気になって、窓辺に歩み寄り声をかけて、ふと、彼の視線の先を追う。
「来週までには承認を取っておくよ!」
大きく声をあげた銀狐に、中庭の芝生の上に立ちこちらを見あげていた大鴉が、片手を挙げて「頼んだぞ」と叫び返してにっと笑う。そしてすぐに彼は背中を向け、ふわりと黒のローブを翻して行ってしまった。
僕に笑いかけてくれたわけではないと解っているのに、その笑顔が嬉しくて、恥ずかしくて、顔を伏せた。そして、そんな僕の情けない様子を銀狐に気づかれただろうかと、そっと横目で彼を伺う。
風になびく彼のローブを、銀狐は目を細めて微笑んで見送っている。僕はちょっと意地悪な気分になって、「前に、僕が彼に熱い秋波を送っているみたいなことを言っていたけど、きみだって変わらないじゃないか」と、揶揄うような調子で言ってみた。銀狐は別段動じる様子もなく、ふふっと笑って、「そう見える?」と、逆に僕に問いかけてきた。
見えない――。
僕の大鴉への想いと、銀狐のそれは明らかに違う。僕はただ、気心知れた者同士の気のおけない視線に嫉妬して、意地悪を言いたくなっただけ。
僕が黙りこんで俯いてしまうと、「バレたか。僕は彼のことが大好きだからね」と銀狐はくすくすと笑った。屈託のない笑顔だ。
「半年間も学校を休んで、戻ってきてからはね、みんなの憐憫の瞳が堪らなかったよ。腫れ物扱いだった」
銀狐は窓の外を眺めたまま、懐かしそうに語り始めた。
いきなり彼がいつもはあまり話したがらない怪我の話題に触れてきたので、驚いて彼を見つめ、それからちょっと間を取って、彼に並んで向かい合うように窓枠に腰かけた。
「でも、彼は違った。寮則違反を繰り返す彼を捕まえて、お説教を始めた時だったかな、彼、ひらりと窓から逃げだしたんだ。三階の窓から飛んだんだよ。そして地上から、捕まえられるものなら、捕まえてみろって目で、身を乗りだして見下ろした僕を眺めていた。笑いながら挑発していたんだよ」
大鴉らしいな。
僕は思わず微笑んで頷いた。
「嬉しかった」
銀狐はその時の情景をまざまざと思い浮かべているのか、本当に嬉しそうに微笑んだ。
「彼のように飛べなくても、走れなくても、必ず彼を捕まえてやるって思ったよ」
頬に当たる風を楽しんででもいるかのように、銀狐は目を細めた。風が、彼の髪をさらさらとなびかせる。
飛んでいるのだ。
銀狐は翼の折れた飛べない鳥なんかじゃない。彼の心は今でもこの空を飛翔するのだ、と、僕は、彼の横顔を眺めて思った。だが、その高潔な横顔を見つめ続けていることができずに、目線を灰色の空にあてどなく漂わせた。
「それに、きみも」
「え、僕?」
急に話を振られて、慌てて彼に視線を戻す。
「創立祭の時。きみ、平気で僕の膝に頭をのせてくるんだもの。びっくりしたよ」
ちょっと首を傾げて僕を見て、銀狐はくすくす笑った。
「――それは、その頃は知らなかったから、」
鳥の巣頭と間違えたんだ。赤のウエストコートだったから。
僕は羞恥で赤くなりながら、しどろもどろで応えた。
「その後もだよ。オックスフォードでも、きみは平気で体重をかけて僕にしがみついてくるし。自分の調子が悪いと当たり前のように僕に甘えるし。きみは僕のことを決して、障害者扱いしなかった」
穴があったら入りたい――という諺は、こういう時に使うのだろう。もう、言い訳すら思い浮かばない。
「ありがとう。そんなきみに、僕はずいぶんと救われたよ」
呆気に取られている僕を見て、彼はまたくすくす笑う。
「さぁ、立って。もう窓を閉めるよ。きみに風邪を引かせたら、僕が彼に怒られてしまう」
その言葉に、僕は急に冷え切った室温を体感して、ぶるりと身震いした。
「お茶を淹れようか」
銀狐がお湯を沸かしている間、僕はカップと茶葉の準備をする。寮の談話室に置いてあるティーセットはティーバッグ式なのに、ここのは茶葉だ。美味しいけれど後始末が面倒くさい。淹れた後ちゃんと始末しない奴がけっこういるので、僕はしょっちゅうティーポットを確認し、洗うのが癖になっている。今日はちゃんとティーポットは洗ってあったので、お茶の準備もスムーズだ。
「さっきの彼の用事はね、」
電気ケトルを高く持ってティーポットにお湯を注ぎ、蒸らしている間、銀狐は会議用の大テーブルの傍らに座り、思いだしたように僕を見あげた。
「彼の畑の野菜が豊作でね、収穫の手伝いと、その野菜を街の店におろして収益に変える許可が欲しいって。きみ、手伝いにいくかい?」
突然の話に、僕はとっさに言葉が浮かばない。大鴉の畑のあるあの道――、土手から吹きあげる川風でよけいに寒さを感じるあの川沿いの道は、しばらく通っていない。鳥の巣頭が風邪が酷くなると心配するから。
僕がこの執務室に顔を出さず、授業の後まっすぐに寮に戻って自室に篭っていたのは、皆、風邪を引いていたからだと思っている。それに、いまだに顔色が悪いのも。目も、充血しているのも。
僕のこんな姿を、大鴉に見られたくない。だって、僕にはジョイントの臭いが染みついている。
ジョイントの、甘い、腐った臭いが――。
「マシュー?」
黙ったまま沈みこんでしまった僕を、銀狐が訝しげに覗きこむ。
「何? 何の話だっけ?」
寮に戻ってジョイントを吸わなくちゃ。
僕は、ここがどこなのかすら、判らなくなってしまう――。
それにまた、約束の土曜日がやってくる。
気持ちがいい
そう言って笑う
執務室に入るなり、室内とは思えないひんやりとした空気に身が縮こまった。見ると銀狐が窓を全開にして、窓枠に腰かけ身を乗りだしている。
「危ないよ」
彼のその不安定な姿勢が気になって、窓辺に歩み寄り声をかけて、ふと、彼の視線の先を追う。
「来週までには承認を取っておくよ!」
大きく声をあげた銀狐に、中庭の芝生の上に立ちこちらを見あげていた大鴉が、片手を挙げて「頼んだぞ」と叫び返してにっと笑う。そしてすぐに彼は背中を向け、ふわりと黒のローブを翻して行ってしまった。
僕に笑いかけてくれたわけではないと解っているのに、その笑顔が嬉しくて、恥ずかしくて、顔を伏せた。そして、そんな僕の情けない様子を銀狐に気づかれただろうかと、そっと横目で彼を伺う。
風になびく彼のローブを、銀狐は目を細めて微笑んで見送っている。僕はちょっと意地悪な気分になって、「前に、僕が彼に熱い秋波を送っているみたいなことを言っていたけど、きみだって変わらないじゃないか」と、揶揄うような調子で言ってみた。銀狐は別段動じる様子もなく、ふふっと笑って、「そう見える?」と、逆に僕に問いかけてきた。
見えない――。
僕の大鴉への想いと、銀狐のそれは明らかに違う。僕はただ、気心知れた者同士の気のおけない視線に嫉妬して、意地悪を言いたくなっただけ。
僕が黙りこんで俯いてしまうと、「バレたか。僕は彼のことが大好きだからね」と銀狐はくすくすと笑った。屈託のない笑顔だ。
「半年間も学校を休んで、戻ってきてからはね、みんなの憐憫の瞳が堪らなかったよ。腫れ物扱いだった」
銀狐は窓の外を眺めたまま、懐かしそうに語り始めた。
いきなり彼がいつもはあまり話したがらない怪我の話題に触れてきたので、驚いて彼を見つめ、それからちょっと間を取って、彼に並んで向かい合うように窓枠に腰かけた。
「でも、彼は違った。寮則違反を繰り返す彼を捕まえて、お説教を始めた時だったかな、彼、ひらりと窓から逃げだしたんだ。三階の窓から飛んだんだよ。そして地上から、捕まえられるものなら、捕まえてみろって目で、身を乗りだして見下ろした僕を眺めていた。笑いながら挑発していたんだよ」
大鴉らしいな。
僕は思わず微笑んで頷いた。
「嬉しかった」
銀狐はその時の情景をまざまざと思い浮かべているのか、本当に嬉しそうに微笑んだ。
「彼のように飛べなくても、走れなくても、必ず彼を捕まえてやるって思ったよ」
頬に当たる風を楽しんででもいるかのように、銀狐は目を細めた。風が、彼の髪をさらさらとなびかせる。
飛んでいるのだ。
銀狐は翼の折れた飛べない鳥なんかじゃない。彼の心は今でもこの空を飛翔するのだ、と、僕は、彼の横顔を眺めて思った。だが、その高潔な横顔を見つめ続けていることができずに、目線を灰色の空にあてどなく漂わせた。
「それに、きみも」
「え、僕?」
急に話を振られて、慌てて彼に視線を戻す。
「創立祭の時。きみ、平気で僕の膝に頭をのせてくるんだもの。びっくりしたよ」
ちょっと首を傾げて僕を見て、銀狐はくすくす笑った。
「――それは、その頃は知らなかったから、」
鳥の巣頭と間違えたんだ。赤のウエストコートだったから。
僕は羞恥で赤くなりながら、しどろもどろで応えた。
「その後もだよ。オックスフォードでも、きみは平気で体重をかけて僕にしがみついてくるし。自分の調子が悪いと当たり前のように僕に甘えるし。きみは僕のことを決して、障害者扱いしなかった」
穴があったら入りたい――という諺は、こういう時に使うのだろう。もう、言い訳すら思い浮かばない。
「ありがとう。そんなきみに、僕はずいぶんと救われたよ」
呆気に取られている僕を見て、彼はまたくすくす笑う。
「さぁ、立って。もう窓を閉めるよ。きみに風邪を引かせたら、僕が彼に怒られてしまう」
その言葉に、僕は急に冷え切った室温を体感して、ぶるりと身震いした。
「お茶を淹れようか」
銀狐がお湯を沸かしている間、僕はカップと茶葉の準備をする。寮の談話室に置いてあるティーセットはティーバッグ式なのに、ここのは茶葉だ。美味しいけれど後始末が面倒くさい。淹れた後ちゃんと始末しない奴がけっこういるので、僕はしょっちゅうティーポットを確認し、洗うのが癖になっている。今日はちゃんとティーポットは洗ってあったので、お茶の準備もスムーズだ。
「さっきの彼の用事はね、」
電気ケトルを高く持ってティーポットにお湯を注ぎ、蒸らしている間、銀狐は会議用の大テーブルの傍らに座り、思いだしたように僕を見あげた。
「彼の畑の野菜が豊作でね、収穫の手伝いと、その野菜を街の店におろして収益に変える許可が欲しいって。きみ、手伝いにいくかい?」
突然の話に、僕はとっさに言葉が浮かばない。大鴉の畑のあるあの道――、土手から吹きあげる川風でよけいに寒さを感じるあの川沿いの道は、しばらく通っていない。鳥の巣頭が風邪が酷くなると心配するから。
僕がこの執務室に顔を出さず、授業の後まっすぐに寮に戻って自室に篭っていたのは、皆、風邪を引いていたからだと思っている。それに、いまだに顔色が悪いのも。目も、充血しているのも。
僕のこんな姿を、大鴉に見られたくない。だって、僕にはジョイントの臭いが染みついている。
ジョイントの、甘い、腐った臭いが――。
「マシュー?」
黙ったまま沈みこんでしまった僕を、銀狐が訝しげに覗きこむ。
「何? 何の話だっけ?」
寮に戻ってジョイントを吸わなくちゃ。
僕は、ここがどこなのかすら、判らなくなってしまう――。
それにまた、約束の土曜日がやってくる。
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