微睡む宵闇 揺蕩う薫香

萩尾雅縁

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四章

101 月が見ていた

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 きみは僕だと言いながら
 きみの涙に背を向けた
 だからこれは
 僕の犯した罪の報い
  



「ねぇ、知ってる?」
 僕は街中で見かけた天使くんの看板のことを鳥の巣頭に訊ねてみた。

 案の定、こいつはとっくに知っていた。ハーフタームの頃にはもう、あの看板は設置されていたらしい。白い彼の会社の新製品の広告なのだそうだ。

 その会社は、もともと彼の父親の会社のIT部門を独立させ、日本の会社と合併させて作ったのだそうだ。その日本の会社、っていうのが大鴉の実家だ。彼の兄が開発技術者で、特許もたくさん取っているその方面での第一人者なのだそうだ。
 今回、待ちに待った新製品がいよいよ発売されることになり、大々的に宣伝活動が繰り広げられているのだという。

「僕もそれが欲しくてね。でも、限定予約品で、販売数も限られていてさ。予約申し込みにすら弾かれちゃったよ」

 ふーん、と、僕はなかば上の空でこいつの話を聴いていた。あんなに悪目立ちして、天使くんは大丈夫なのだろうか? 白い彼の会社のイメージモデルをするってことは、白い彼との仲はもう改善したのか、とか、とりとめのない疑問が頭をよぎる。

 それに、大鴉が天使くんを助けたのは、そんな背景があったからなのか、とか。


 僕はこの数日、生徒会執務室での役務を休ませてもらっている。急いで送らないといけないお礼状や大切な手紙のたぐいは、鳥の巣頭に持ち帰ってもらって自室で仕上げている。
 体調が良くない、ということにしているが、本当はあの男に逢うのが怖かったのだ。それに、他の連中にも。

 あの部屋で、僕だけが異質だ。
 僕だけが違う臭いがする。ジョイントの臭いが。
 甘い、腐ったような臭いがまといついて離れない。

 堪らず、窓を開けた。冬の冷気が頬を掠めて流れ入る。

「何だか、臭くない? それに暑いよ――。空気が澱んでいるのかな?」
 鳥の巣頭が怪訝な顔で僕を見ている。
「きみ、寒がりなのに。熱があるんじゃないの? 大丈夫?」
「平気」


 僕はくるりと鳥の巣頭に背を向け、窓の外に広がる灰色の空を、その下に流れるテムズ川を、それに沿って枝を伸ばす樹々の連なりを眺めた。

 今年の冬は、大鴉が羽を休めにこない。フェローズの森の方にいるのだろうか?

 きみに逢いたくて、僕はいつもこの窓を開くのに。

 ぼんやりと景色を眺める僕を、鳥の巣頭が背中から抱きしめた。

「風に当たっていると、また風邪をぶり返してしまうよ。きみはあまり丈夫な方じゃないんだから」

 体重を移動させて鳥の巣頭にもたれかかった。こいつはそのまま片手で窓をぱたんと閉めた。




 結局、一週間ほど経ってから、生徒会執務室に顔を出した。

「やぁ、もうすっかりいいのかい?」
 執務机の前で銀狐が立ちあがり、にっこりと迎えてくれる。他の役員たちも集まってきて、僕の背中や肩を叩いて「無理するなよ」とか、「心配していたんだ」とか、口々に声をかけてくれる。

「ほら、これ、全部きみへのお見舞いだよ」
 チェストの上に山積みの菓子箱が置かれている。
 

 一瞬、世界が消えた。真っ白な霧の中、僕はたった一人。

 蓋を開け、目の前に突きだされたチョコレートの箱からふわりと匂った甘い香りに、僕は嘔吐えずいて、口を抑えてうずくまる。

「おい、どうした?」
 喉元まで込みあげる酸味を、無理やり呑みくだす。肩で荒く息をする背中を誰かが摩ってくれている。少し呼吸が落ち着いてきたところで、来客用のソファーに引っ張られ、横になって休むように言われた。


 乾いたハンカチが、ねっとりとした額の汗を拭ってくれている。
「酷い汗だね」
 目を開けると銀狐が眉を寄せ、金の瞳を鈍く輝かせて心配そうに僕を見ていた。
 
 ああ、月光のようだ――、と、僕は彼の瞳を見つめ返す。


 あの時も、月が見ていた。

 パイプオルガンのフーガが鳴り響く。

 ――これは罰なのだ。

 それなのに、この月光は僕を糾弾しないのか――。

 それとも、その時を待っているの?


「もう、平気。ありがとう」

 にっこりして起き上がる。動悸も、吐き気も収まっていた。ただ、口の中が上がってきた胃酸が酷く苦く気持ちが悪い。

「お茶を、一杯飲んでから仕事にかかるよ」

 誰かがすかさずお茶を淹れる準備をしてくれている。僕はお礼を言い、チェストに置かれたチョコレートの箱を一瞥すると、「ごめんなさい。チョコレートは苦手なんだ。僕はいいので、皆さんで召し上がって下さい」と伝えてから自分の机についた。
 山のように置かれた下書きになぜかほっと安堵し、清書用のカードを開く。

「無理しないで」
 銀狐が僕の前にカチャリと紅茶のカップを置く。
「まだ本調子じゃないんだろう」
 怒っているような吐息を吐き、彼は僕の傍らに椅子を引っ張って腰掛ける。

 僕は微笑を湛えたまま首を横に振る。
「辛くなったら、これ、全部きみに押しつけてさっさと寮に逃げ帰るよ」
「僕は――」
「お礼状が暗号文になっちゃうね」
 渋面をする彼を、僕はくすくすと笑った。だって、彼の文字を解読するのは本当に不可能なんじゃないかと思うくらい、彼は酷いクセ字なんだ。
「心配しないで。そんなことにはならないから」

 ふわりと笑って、温かな湯気の揺らめく紅茶をこくりと飲んだ。銀狐は、僕のちょっと嫌味な冗談に言い返してくるかと思ったのに、にっと笑っただけだった。





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