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四章
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この爪の先から
僕は生きながら
腐っていく
「やっぱりこいつだったんだな、伝説の月下美人は! そりゃそうだな。こんな美形がそうそう何人もいるはずがないものな」
「ビショップが手塩にかけて仕込んだ極上品だ。キスだけでイかせてくれるぞ。その分、少々お高いがな。まぁ、後悔はさせないよ」
「後悔なんてとんでもない! 願ったりだよ!」
嬉しそうな声が弾む。どこかで聴いたことのある声が通りすぎる。
「お前を抱けるのなら安いものさ」
弾んだ声がうなじに落ちる。
僕の瞳はもう何も映さない。白い煙に包まれてもう何も聞こえない。
日が落ち切った部屋に街灯の灯りが差しこみ、窓の形に影を作る。僕はこの部屋にひとり、屍のように横たわりただ喰われている。生きたまま。いや、もう死んでいるのかもしれない。
僕を包む朧な霧の中で、記憶の断片がカツンと落ちた。
ああ、あれは、ハロッズのチョコをくれた声だ、と。
いつの間にかふらふらと石畳の上を歩いていた。冷たい石の感触に、ああ、僕は靴を履いていないのか、と気がついた。
虚ろな僕の頭上に、天使くんの姿があった。
灯りの消えたウインドーの上、巨大な広告看板の中に彼はいた。
闇の中にスポットライトで照らされ、荒涼とした大地に立つ片羽の天使くんが、顔の片側を包帯で覆い、黒のローブを羽織って、包帯で巻かれた右手を真っすぐに空に向け指し示している。
「Hold your head up high……(誇り高くあれ)」
その澄み渡る空に書かれたコピーを声に出して読みあげた。
涙が溢れてきた。
僕ときみは同じ、そう思いたかった。こんなにも違うのに。あまりにも違うのに。きみが僕と同じならいいのに、そう願っていた。きみならきっと、僕のことを解ってくれる。僕を理解してくれる。そんな確信がどこかにあったのだ。
それなのに、こんな時に、きみは、きみと僕の違いをこんなにもまざまざと見せつけるのか。羽をもがれ、泥にまみれようと決して誇りを失わなかったきみ。例え傷だらけであろうと、堂々と胸を張って歩いていたきみ。
僕の瞼裏にはそんなきみの姿が焼きついている。
僕は立っていることすらできず、その場に崩れおち、声を殺して泣きじゃくっていた。
きみは僕とは違う。違う。と馬鹿のように繰り返していた。
「マシュー、探したぞ。そんな格好で……、風邪をひくぞ」
梟が僕の腕を掴んで引き、立ちあがらせた。
「まともに服も着れていないのに」
自分のコートを脱いで僕を包んだ。
「一度俺のフラットに戻ろう。酔いが覚めたら寮まで送っていってやる」
泣きやまず、力の入らない僕を梟は支えて歩きだす。僕はされるがまま。そんな僕を天使くんが見おろしている。あの高みから。自分とは違う、愚かな僕を嗤っている。
いや、きみは嗤ったりしない。きみは、泣いてくれているんだ、僕のために。
僕は梟に引き摺られるように歩いていた足を止め、両手を高く伸ばして、天から落ちてくるきみの涙を受けとめた。それはまるで降り注ぐキスのように、僕をいたわり、慰めてくれる、深い慈愛の涙だ。
「マシュー、濡れてしまう。さぁ、」
目を眇めて空を仰ぎ、ちっと舌打ちした梟が僕の背を押す。闇へと押す。僕はまた、ふらふらと覚束ない足取りで歩きだした。
梟のスタジオフラットのバスタブに浸かり、漂う湯気を眺めていた。
「何回?」
「ん?」
「お金がいるんでしょう? 僕は後何回、すればいいの?」
ぼんやりと、湯気の流れを目で追った。
「月一か、二回か」
「平日は無理だよ、生徒会がある」
「解っているさ」
「ねぇ、髪を洗って」
「もう洗ったじゃないか」
「もう一回。ジョイントの匂いが取れないんだ」
「匂いなんか、」
目を瞑り、お湯の中に頭ごと沈んだ。ゆらゆらと髪の毛が揺蕩う。このまま、底の底まで堕ちていけばいいのに。ジョイントの匂いが溶けて消える、誰にも気づかれない水底へ。
ザバリッと、肩を掴まれ引き揚げられた。大きく目を見開いた梟が僕の顔を覗きこんでいる。
「何?」
くすくす笑って訊ねると、「髪を――、髪を洗ってやる」と梟は声を詰まらせて言った。
それが何だかちっともいつもの梟らしくなくて、僕は可笑しくなって、また、くすくすと笑った。
門限ぎりぎりに寮に帰りつくと、部屋の前で鳥の巣頭が待っていた。僕を見つけるなり駆け寄ってくる。
「どこへ行っていたの? 心配したんだよ」
「ほら、今日は――、」
梟が来ることは、鳥の巣頭にも話してある。
「雨が降ってきたからカフェで雨宿りしていたんだ。ほら、少し濡れてしまって」
ふわりと香ったシャンプーの香りに、こいつは気がついただろうか?
「そのせいかな、少し怠くって」
「早く休んだ方がいいよ」
「うん、でも、今日の点呼は?」
「大丈夫、僕がしておくよ」
心配そうに僕を見つめる鳥の巣頭。その耳許に唇を寄せ、囁いた。
「終わったら来てね」
こんな日は、きみに抱かれて眠りたい。
あの男が、僕に汚い痕を残さなくて本当に良かった。きっと、梟が事前に言っておいてくれていたんだ。梟は、そういうことには、とても煩いもの。
僕は生きながら
腐っていく
「やっぱりこいつだったんだな、伝説の月下美人は! そりゃそうだな。こんな美形がそうそう何人もいるはずがないものな」
「ビショップが手塩にかけて仕込んだ極上品だ。キスだけでイかせてくれるぞ。その分、少々お高いがな。まぁ、後悔はさせないよ」
「後悔なんてとんでもない! 願ったりだよ!」
嬉しそうな声が弾む。どこかで聴いたことのある声が通りすぎる。
「お前を抱けるのなら安いものさ」
弾んだ声がうなじに落ちる。
僕の瞳はもう何も映さない。白い煙に包まれてもう何も聞こえない。
日が落ち切った部屋に街灯の灯りが差しこみ、窓の形に影を作る。僕はこの部屋にひとり、屍のように横たわりただ喰われている。生きたまま。いや、もう死んでいるのかもしれない。
僕を包む朧な霧の中で、記憶の断片がカツンと落ちた。
ああ、あれは、ハロッズのチョコをくれた声だ、と。
いつの間にかふらふらと石畳の上を歩いていた。冷たい石の感触に、ああ、僕は靴を履いていないのか、と気がついた。
虚ろな僕の頭上に、天使くんの姿があった。
灯りの消えたウインドーの上、巨大な広告看板の中に彼はいた。
闇の中にスポットライトで照らされ、荒涼とした大地に立つ片羽の天使くんが、顔の片側を包帯で覆い、黒のローブを羽織って、包帯で巻かれた右手を真っすぐに空に向け指し示している。
「Hold your head up high……(誇り高くあれ)」
その澄み渡る空に書かれたコピーを声に出して読みあげた。
涙が溢れてきた。
僕ときみは同じ、そう思いたかった。こんなにも違うのに。あまりにも違うのに。きみが僕と同じならいいのに、そう願っていた。きみならきっと、僕のことを解ってくれる。僕を理解してくれる。そんな確信がどこかにあったのだ。
それなのに、こんな時に、きみは、きみと僕の違いをこんなにもまざまざと見せつけるのか。羽をもがれ、泥にまみれようと決して誇りを失わなかったきみ。例え傷だらけであろうと、堂々と胸を張って歩いていたきみ。
僕の瞼裏にはそんなきみの姿が焼きついている。
僕は立っていることすらできず、その場に崩れおち、声を殺して泣きじゃくっていた。
きみは僕とは違う。違う。と馬鹿のように繰り返していた。
「マシュー、探したぞ。そんな格好で……、風邪をひくぞ」
梟が僕の腕を掴んで引き、立ちあがらせた。
「まともに服も着れていないのに」
自分のコートを脱いで僕を包んだ。
「一度俺のフラットに戻ろう。酔いが覚めたら寮まで送っていってやる」
泣きやまず、力の入らない僕を梟は支えて歩きだす。僕はされるがまま。そんな僕を天使くんが見おろしている。あの高みから。自分とは違う、愚かな僕を嗤っている。
いや、きみは嗤ったりしない。きみは、泣いてくれているんだ、僕のために。
僕は梟に引き摺られるように歩いていた足を止め、両手を高く伸ばして、天から落ちてくるきみの涙を受けとめた。それはまるで降り注ぐキスのように、僕をいたわり、慰めてくれる、深い慈愛の涙だ。
「マシュー、濡れてしまう。さぁ、」
目を眇めて空を仰ぎ、ちっと舌打ちした梟が僕の背を押す。闇へと押す。僕はまた、ふらふらと覚束ない足取りで歩きだした。
梟のスタジオフラットのバスタブに浸かり、漂う湯気を眺めていた。
「何回?」
「ん?」
「お金がいるんでしょう? 僕は後何回、すればいいの?」
ぼんやりと、湯気の流れを目で追った。
「月一か、二回か」
「平日は無理だよ、生徒会がある」
「解っているさ」
「ねぇ、髪を洗って」
「もう洗ったじゃないか」
「もう一回。ジョイントの匂いが取れないんだ」
「匂いなんか、」
目を瞑り、お湯の中に頭ごと沈んだ。ゆらゆらと髪の毛が揺蕩う。このまま、底の底まで堕ちていけばいいのに。ジョイントの匂いが溶けて消える、誰にも気づかれない水底へ。
ザバリッと、肩を掴まれ引き揚げられた。大きく目を見開いた梟が僕の顔を覗きこんでいる。
「何?」
くすくす笑って訊ねると、「髪を――、髪を洗ってやる」と梟は声を詰まらせて言った。
それが何だかちっともいつもの梟らしくなくて、僕は可笑しくなって、また、くすくすと笑った。
門限ぎりぎりに寮に帰りつくと、部屋の前で鳥の巣頭が待っていた。僕を見つけるなり駆け寄ってくる。
「どこへ行っていたの? 心配したんだよ」
「ほら、今日は――、」
梟が来ることは、鳥の巣頭にも話してある。
「雨が降ってきたからカフェで雨宿りしていたんだ。ほら、少し濡れてしまって」
ふわりと香ったシャンプーの香りに、こいつは気がついただろうか?
「そのせいかな、少し怠くって」
「早く休んだ方がいいよ」
「うん、でも、今日の点呼は?」
「大丈夫、僕がしておくよ」
心配そうに僕を見つめる鳥の巣頭。その耳許に唇を寄せ、囁いた。
「終わったら来てね」
こんな日は、きみに抱かれて眠りたい。
あの男が、僕に汚い痕を残さなくて本当に良かった。きっと、梟が事前に言っておいてくれていたんだ。梟は、そういうことには、とても煩いもの。
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