微睡む宵闇 揺蕩う薫香

萩尾雅縁

文字の大きさ
上 下
101 / 200
四章

100 違い

しおりを挟む
 この爪の先から
 僕は生きながら
 腐っていく




「やっぱりこいつだったんだな、伝説の月下美人は! そりゃそうだな。こんな美形がそうそう何人もいるはずがないものな」
「ビショップが手塩にかけて仕込んだ極上品だ。キスだけでイかせてくれるぞ。その分、少々お高いがな。まぁ、後悔はさせないよ」
「後悔なんてとんでもない! 願ったりだよ!」
 嬉しそうな声が弾む。どこかで聴いたことのある声が通りすぎる。


「お前を抱けるのなら安いものさ」

 弾んだ声がうなじに落ちる。

 僕の瞳はもう何も映さない。白い煙に包まれてもう何も聞こえない。

 日が落ち切った部屋に街灯の灯りが差しこみ、窓の形に影を作る。僕はこの部屋にひとり、屍のように横たわりただ喰われている。生きたまま。いや、もう死んでいるのかもしれない。

 僕を包む朧な霧の中で、記憶の断片がカツンと落ちた。

 ああ、あれは、ハロッズのチョコをくれた声だ、と。




 いつの間にかふらふらと石畳の上を歩いていた。冷たい石の感触に、ああ、僕は靴を履いていないのか、と気がついた。

 虚ろな僕の頭上に、天使くんの姿があった。
 灯りの消えたウインドーの上、巨大な広告看板の中に彼はいた。


 闇の中にスポットライトで照らされ、荒涼とした大地に立つ片羽の天使くんが、顔の片側を包帯で覆い、黒のローブを羽織って、包帯で巻かれた右手を真っすぐに空に向け指し示している。

「Hold your head up high……(誇り高くあれ)」
 
 その澄み渡る空に書かれたコピーを声に出して読みあげた。

 涙が溢れてきた。

 僕ときみは同じ、そう思いたかった。こんなにも違うのに。あまりにも違うのに。きみが僕と同じならいいのに、そう願っていた。きみならきっと、僕のことを解ってくれる。僕を理解してくれる。そんな確信がどこかにあったのだ。

 それなのに、こんな時に、きみは、きみと僕の違いをこんなにもまざまざと見せつけるのか。羽をもがれ、泥にまみれようと決して誇りを失わなかったきみ。例え傷だらけであろうと、堂々と胸を張って歩いていたきみ。

 僕の瞼裏にはそんなきみの姿が焼きついている。

 僕は立っていることすらできず、その場に崩れおち、声を殺して泣きじゃくっていた。

 きみは僕とは違う。違う。と馬鹿のように繰り返していた。


「マシュー、探したぞ。そんな格好で……、風邪をひくぞ」
 梟が僕の腕を掴んで引き、立ちあがらせた。
「まともに服も着れていないのに」
 自分のコートを脱いで僕を包んだ。
「一度俺のフラットに戻ろう。酔いが覚めたら寮まで送っていってやる」

 泣きやまず、力の入らない僕を梟は支えて歩きだす。僕はされるがまま。そんな僕を天使くんが見おろしている。あの高みから。自分とは違う、愚かな僕を嗤っている。
 いや、きみは嗤ったりしない。きみは、泣いてくれているんだ、僕のために。

 僕は梟に引き摺られるように歩いていた足を止め、両手を高く伸ばして、天から落ちてくるきみの涙を受けとめた。それはまるで降り注ぐキスのように、僕をいたわり、慰めてくれる、深い慈愛の涙だ。

「マシュー、濡れてしまう。さぁ、」
 目を眇めて空を仰ぎ、ちっと舌打ちした梟が僕の背を押す。闇へと押す。僕はまた、ふらふらと覚束ない足取りで歩きだした。




 梟のスタジオフラットのバスタブに浸かり、漂う湯気を眺めていた。

「何回?」
「ん?」
「お金がいるんでしょう? 僕は後何回、すればいいの?」

 ぼんやりと、湯気の流れを目で追った。

「月一か、二回か」
「平日は無理だよ、生徒会がある」
「解っているさ」

「ねぇ、髪を洗って」
「もう洗ったじゃないか」
「もう一回。ジョイントの匂いが取れないんだ」
「匂いなんか、」

 目を瞑り、お湯の中に頭ごと沈んだ。ゆらゆらと髪の毛が揺蕩う。このまま、底の底まで堕ちていけばいいのに。ジョイントの匂いが溶けて消える、誰にも気づかれない水底へ。

 ザバリッと、肩を掴まれ引き揚げられた。大きく目を見開いた梟が僕の顔を覗きこんでいる。
「何?」
 くすくす笑って訊ねると、「髪を――、髪を洗ってやる」と梟は声を詰まらせて言った。
 それが何だかちっともいつもの梟らしくなくて、僕は可笑しくなって、また、くすくすと笑った。




 門限ぎりぎりに寮に帰りつくと、部屋の前で鳥の巣頭が待っていた。僕を見つけるなり駆け寄ってくる。
「どこへ行っていたの? 心配したんだよ」
「ほら、今日は――、」
 梟が来ることは、鳥の巣頭にも話してある。
「雨が降ってきたからカフェで雨宿りしていたんだ。ほら、少し濡れてしまって」

 ふわりと香ったシャンプーの香りに、こいつは気がついただろうか?

「そのせいかな、少し怠くって」
「早く休んだ方がいいよ」
「うん、でも、今日の点呼は?」
「大丈夫、僕がしておくよ」
 心配そうに僕を見つめる鳥の巣頭。その耳許に唇を寄せ、囁いた。

「終わったら来てね」



 こんな日は、きみに抱かれて眠りたい。
 あの男が、僕に汚い痕を残さなくて本当に良かった。きっと、梟が事前に言っておいてくれていたんだ。梟は、そういうことには、とても煩いもの。





しおりを挟む
感想 2

あなたにおすすめの小説

放課後教室

Kokonuca.
BL
ある放課後の教室で彼に起こった凶事からすべて始まる

BL団地妻-恥じらい新妻、絶頂淫具の罠-

おととななな
BL
タイトル通りです。 楽しんでいただけたら幸いです。

ヤンデレBL作品集

みるきぃ
BL
主にヤンデレ攻めを中心としたBL作品集となっています。

ヤンデレだらけの短編集

BL
ヤンデレだらけの1話(+おまけ)読切短編集です。 全8話。1日1話更新(20時)。 □ホオズキ:寡黙執着年上とノンケ平凡 □ゲッケイジュ:真面目サイコパスとただ可哀想な同級生 □アジサイ:不良の頭と臆病泣き虫 □ラベンダー:希死念慮不良とおバカ □デルフィニウム:執着傲慢幼馴染と地味ぼっち ムーンライトノベル様に別名義で投稿しています。 かなり昔に書いたもので芸風(?)が違うのですが、楽しんでいただければ嬉しいです!

【完結】ぎゅって抱っこして

かずえ
BL
幼児教育学科の短大に通う村瀬一太。訳あって普通の高校に通えなかったため、働いて貯めたお金で二年間だけでもと大学に入学してみたが、学費と生活費を稼ぎつつ学校に通うのは、考えていたよりも厳しい……。 でも、頼れる者は誰もいない。 自分で頑張らなきゃ。 本気なら何でもできるはず。 でも、ある日、金持ちの坊っちゃんと心の中で呼んでいた松島晃に苦手なピアノの課題で助けてもらってから、どうにも自分の心がコントロールできなくなって……。

鬼上司と秘密の同居

なの
BL
恋人に裏切られ弱っていた会社員の小沢 海斗(おざわ かいと)25歳 幼馴染の悠人に助けられ馴染みのBARへ… そのまま酔い潰れて目が覚めたら鬼上司と呼ばれている浅井 透(あさい とおる)32歳の部屋にいた… いったい?…どうして?…こうなった? 「お前は俺のそばに居ろ。黙って愛されてればいい」 スパダリ、イケメン鬼上司×裏切られた傷心海斗は幸せを掴むことができるのか… 性描写には※を付けております。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

壁乳

リリーブルー
BL
俺は後輩に「壁乳」に行こうと誘われた。 (作者の挿絵付きです。)

処理中です...