微睡む宵闇 揺蕩う薫香

萩尾雅縁

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四章

99 逢魔が時

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 どうしてかな?
 僕は忘れていたんだ
 梟は、猛禽類だってこと



 銀狐はその言葉の通りお茶を一杯だけ飲んで、部屋にさがった。送っていった鳥の巣頭がなかなか戻ってこなかったから、きっと彼の脚をマッサージしてあげているのだと思う。あいつが彼のあの顔色の悪さに気づかないはずはないもの。僕は少し羨ましいな、と思ったんだ。誰にも弱音を吐かない銀狐が、鳥の巣頭にだけは甘えている。僕に対してとは違う、安心しきった笑顔を見せる。銀狐に信頼される鳥の巣頭は、僕の知っているあいつとは別の奴なんじゃないかと思ってしまう。そんな不思議な気分だった。


 翌日からの銀狐はすっかりいつもの彼で、僕たちは三人で楽しく残りの休暇をすごした。やっぱり賢くて物知りな彼がいると、ただの散歩や、ゲームひとつするにしたって、面白くて堪らなくなる。彼は僕のつまらない日常を魔法のように変えてくれるマジシャンだ。
 そして、ときどき彼の口からポロリと漏れる大鴉の話が聴けるのが、僕にとって無上の喜びでもあったんだ。


 そんな今までにない楽しい休暇はすぐに終わり、学校が始まった。でも、僕にとってはそれもまた嬉しい。だって、やっと大鴉に逢えるもの。




 慌ただしい、けれど充実した毎日が早足で駆けぬけていく。校内の樹々も、窓から見おろす林の落葉樹もすっかり赤や黄色に染まり、はらはらとその葉を風に乗せ舞い飛んでいる。

 そんなある日、梟から連絡を貰った。
 そっちに行く用事があるから逢いに出てこないか、って。もちろん僕は承諾した。僕も梟に逢って話がしたかったんだ。


 僕は梟に謝らなければならない。
 以前なら、梟に貰ったリストに載っていた連中に声をかけたり、軽く雑談したりする時間や余裕もあったけれど、生徒会に入ってからはとても無理なのだ。
 リストの連中は、前年度は下級生組の人気スポーツでの有望選手だったみたいだけど、今はほとんどが副キャプテンや、副寮長などの何かの役職についている。だから僕が話しかけると、生徒会役員と各役職の会話みたいになってしまうんだ。
 どうも僕は、鳥の巣頭や銀狐のような気さくな社交性が欠けているみたいで、上手くいかない。プレップの頃はもっと普通に、誰とでも接していたと思うのに……。

 それに何よりも、こうも銀狐と親しくなった以上、ジョイントに手を出すのはさすがに怖かった。もしあの時のようにバレて、またあの白い箱に押しこめられたら、とその想像だけで寒気が走る。
 だから、僕にジョイントを扱うのは無理だって、ちゃんと梟に断らなければ。売るのも、僕自身が吸うのも――。
 身体の奥底からジョイントが欲しいって、心が乾いて、乾いて仕方がないときも、確かに、まだあるのだけれど――。



 ともあれ、僕は彼に逢いにいった。その土曜日の午後は、鳥の巣頭や銀狐は生徒会の役務で他の学校を訪問していたのでちょうど良かったのだ。

 待ち合わせはハイストリートの外れにあるチェーン店のコーヒーショップだ。茶色で統一された落ち着いた内装の店は、いかにも梟の好みだ。一番奥の席で、梟が軽く手招きしている。手を振り返して、先にカウンターでホットチョコレートを買った。

 梟は僕の制服を見て「よく似合っている、良かったな」と、まず褒めてくれた。この赤のウエストコートを見せたくて、わざわざ私服じゃなくて制服を着てきたんだ。嬉しくて自然に笑みが零れおちる。
 しばらく学校や生徒会の話をしてから、僕はジョイントの話を切りだした。

「こんなところでできる話でもないだろ? 場所を変えないか?」
 梟の煙水晶の瞳が有無を言わさぬ様子で僕を見つめる。僕は慌てて頷いて、梟に続いて立ちあがった。



 ハイストリートから裏道に曲がった。
 黙ったまま横を歩く梟を見あげる。怒っているのかと思っていた彼は、僕の不安な気持ちを察してくれたのか、安心させるように、にっと笑ってくれた。
「知り合いとシェアして部屋を借りたんだ。これから、こっちに出てくる用事が増えるからな。お前の寮からも近くていい場所だぞ」
 僕の頭をくしゃりと撫でる。
「おっと。髪をまとめるようになったんだな」

 僕は笑みを返しながら軽く頭を振って、落ちてきた前髪をかき上げ撫でつけた。

「良い香りでしょう? 今一番のお気に入りなんだよ」
「覚えがあるよ。フランス製のコロンだろ? ヘアワックスも出ていたのか?」
「え? コロンの方は知らない! ヘアワックスは日本製なんだよ」
 歩きながら、僕はヘアワックスのケースをポケットから取りだして梟に見せた。彼は手に取って確認すると軽く頷く。

「この香りが好きなら、コロンを買ってきてやるよ」
「ありがとう! これ、どこにも売っていないし、どうしようかと思っていたんだ」

 このヘアワックスを使い終えたら無香料のものに変えて、コロンをつけよう。

 締まりなくほころんだ顔を見て、梟はまたぽんと頭を撫でてくれた。




「着いたぞ」

 赤煉瓦に白い窓のあるお洒落なフラットだ。
 二階の梟の部屋は、スタジオフラットで、キッチンは壁で区切られている。でも、いかにも借りたばかりといった感じで、広い部屋の端にダブルサイズのベッドマットレス、窓の傍に二人掛けのソファーとローテーブルがあるだけだ。

 でも……。

 部屋に染みついた甘い匂い――。ジョイントの匂いに、胃がぎゅっと縮こまり、背筋を通って渇望が駆け昇る。

 この匂いだけで目眩を起こしそうだ。

 ソファーに腰を下ろした梟が、軽く手で覆って火を点けた。ジョイントに――。

 コトリとローテーブルに置かれた梟の大切にしているライターが、窓からの赤い光をきらきらと反射する。傾き始めた夕暮れの光が、フローリングの床や、白い壁を赤く染める。その赤の真ん中に、僕は呆けたようにつっ立っていた。

 梟は腕を伸ばし、指の間に挟んだジョイントの吸い口を僕に向ける。
 僕はマタタビに惹かれる猫のように、ふらふらと引き寄せられ、唇に銜え、ゆっくりと吸いこんでいた。

 深く、深く――。

 久しぶりに味わう陶酔と安堵に、幸せな吐息を漏らすように、白い煙をそっと吐きだす。

 蛇のジョイントだ。最上級の。

 たった一口吸っただけなのに、初めてのときのように身体を支えていられなかった。もう、僕はどろどろに溶け始めている。梟にしなだれかかり、ジョイントを梟の手ごと引き寄せた。
 クスクスと笑いが零れて上手く吸えない。ジョイントを自分で持ち直し、合間合間に少しづつ吸った。クスクス、クスクス、止まらない。
 梟はその間に僕のジャケットを脱がせ、ホワイトタイを解き、ウエストコートのボタンを外していく。

「いいよ、あなたなら。僕はあなたのこと、好きだもの」

 甘い吐息が漏れる。梟の首に両腕を廻し、唇に舌を這わせ丁寧に吸った。舌を絡ませてくる梟から顔を逸らし、ジョイントを吸いこむ。薄く薄く吐きだし、漂わせる。窓から差しこむ夕映えに白い煙が揺蕩い、解けて消える。僕は梟の首筋にしがみついたまま、クスクスと笑った。


 白い霧の中、羽音が聞こえる。

 梟の?
 それとも、大鴉、きみかな?

 甘い夢が見れそうだ――。

 僕は、もう一口、じっくりと丁寧に味わいながら、ジョイントの煙を呑みこんでいた。




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