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四章
96 コーヒー
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僕は僕
どこにも見つけられなくても
それが僕なんだ
休日に、鳥の巣頭と銀狐に誘われてあの小汚いパブへ行った。
夏の間に改装をしたらしく、一階フロアを通らずに二階へ直接上がれる入口ができている。一階ではアルコールも扱うけれど二階はだめで、エリオットの生徒の打ち上げや予約を優先してくれる専用フロアにしてあるらしい。色褪せた、剥がれかけの壁紙は、新たにエリオットのスクールカラーと同じ翡翠色に張替えられている。二つ置かれていたビリヤード台はそのままだが、テーブル数は増え、窓際と壁のソファー側とに整然と並べられている。
以前の倉庫みたいだった頃に比べると、ずいぶん普通の店になったじゃないか、と思いながら、僕たちは白い清潔なクロスのかかったテーブルについた。
注文は先に鳥の巣頭が済ませておいてくれたので、料理はすぐに運ばれてきた。二人とも、新メニューの『かぼちゃと林檎の秋カレー』を注文し、僕は無難なサンドイッチを頼んだ。運んで来てくれたのが中年の男性だったので、僕はさりげなさを装いつつ、あの赤毛の子のことを訊いてみた。
「彼女? ああ、彼女ね、Aレベルを受験しなおすために、ロンドンの学校に通っているらしいよ。大学に進むんだって」
「へぇ、そうなんだ。それで、あの賭けはどうなったんだろう?」
特別興味もなさそうな顔で、鳥の巣頭をちらりと見やる。
「ほら、きみの友人がさ――」
鳥の巣頭は、銀狐と意味ありげに顔を見合わせ、吹きだすように笑いだす。
「ああ、あれね――」
「ベンの奴、見事に振られたよ」
銀狐が引き継いで、声を潜めて教えてくれた。
私服だからよく判らないけれど、他のテーブルにいる内の何人かは、エリオットの子らしい。
「じゃ、もう一人の子の勝ち?」
「そういう訳でもないんだなぁ」
銀狐もくすくす笑う。
「銀ボタンくんは、こういう色ごとはてんでだめ。話にならないくらいお子さまだからね」
銀狐の、少し意地悪い、揶揄うような笑みを含んだ金の瞳に僕が映る。
心の奥底まで見透かすような透明な光に晒され、僕は「ふーん、そうなの。まぁ、まだ一学年生だったものね」と、どうでも良さそうな振りをする。ドキドキと、まるで僕のことを話題にされているかのような緊張に、僕自身戸惑いながら。
会話がとぎれ、食べ終えた鳥の巣頭がコーヒーを注文しに立ちあがった。
「きみも、たまにはコーヒーにしてみない? ここは紅茶よりもコーヒーの方がだんぜん美味しいんだ。銀ボタンくんのお勧めだよ」
意味ありげな最後の一言が余計だったけれど、せっかくなので頷いた。
あの赤毛の子は、もうここにはいない……。
それが分かっただけで、今日ここへ来た甲斐があった。自然に顔が緩んでくる。でも、銀狐が僕を見ている。また怒られる――。
銀狐の理屈は、どうにも僕には理解できない。
真剣な恋愛で特定の相手とだけつきあうのであれば、校則違反であっても彼は目を瞑ると言う。人の心は校則なんかで縛れないし、誰かを愛した、という理由で放校という一生を左右される罰を受けなければならなくなるのは重すぎると。けれど、彼の理屈では、上級生ならともかく下級生相手は許せないらしい。下級生の規範になるべき上級生が、道を踏み外させてしまう行為に及ぶなんて言語道断だって。
恋をしたことがないんだな、と僕は思った。だから、はい、はいって聴いていたよ。心配しなくても、僕は大鴉の道を踏み外すような原因にはならない。言っても解らないだろうから、彼には何も言わなかったけれど。僕にとって、大鴉は――、
「だけどね、」
物思いに耽っていた僕に、銀狐の声が飛びこんできた。
「ここの女の子の学費、用意したのは銀ボタンくんなんだ。この店の改装費用なんかも一切合財。それも誰かに頼ってじゃない。彼一人のアイデアで稼ぎだしたんだよ」
探るような銀狐の目つきに縛られ、咄嗟に言葉が出てこない。彼は口の端でにっと笑い言葉を継ぐ。
「あの子、本当にすごいんだよ。僕たちなんかとは次元が違うんだ」
――だから、きみなんかの手には負えない。
そう言いたいのだと判った。
「お待たせ」
鳥の巣頭が戻ってきた。ずいぶん遅いと思ったら、自らコーヒーを運んできていた。忙しそうだからって。信じられない鳥の巣頭だ。
それはともかく、銀狐に勧められたコーヒーは、今まで飲んだことのあるものよりも濃くて、苦くて、ちっとも美味しいとは思えなかった。
そえられた角砂糖だけでは足りず、鳥の巣頭や、銀狐の分まで貰っていれ、とぽとぽとミルクを足す。そんな僕を見て、銀狐がまたくすくすと笑う。
「きみも甘党? フェイラーみたいだね」
その名前に、僕はティースプーンをぎゅっと握りしめた。
「似ているかな、彼に」
「そうだね、どことなく。でも、きみはフェイラーよりもお兄さんの方、ソールスベリー先輩にどちらかといえば似ているよね」
僕が彼に似ている、といわれることを嫌がるのを知っている、鳥の巣頭の顔色が変わった。この話題を終わらせようと関係ないことを喋り始める。
「そう言えば、次の合同会議は、」
「僕は、自分が彼に似ていると思ったことは、一度もないけどな」
このとき初めて、僕は、自分自身で、僕に覆い被さる白い彼の影を切り離すことができたのかも知れない。
僕と彼は似てなんかいない。僕と彼は違う。僕と天使くんだって、違う。もう僕に彼の影を重ねるのはやめて。僕と彼を混同しないで。そう、叫びだしたい気分だった。僕の中で、白い彼への消化仕切れない憎悪が吹きだしそうになる。
横に座る鳥の巣頭が、テーブルの下の僕の左手をぎゅっと握る。右手に持つティースプーンが、コーヒーをかき回していたカップに当たり、何度もカチャカチャと耳障りな音を立てる。
そんな僕の様子を、金の瞳がじっと見つめている。まるで、取り調べでもしているかのように。
……何の?
「そうだね、確かに似ていないな。先輩はコーヒーにミルクも、砂糖も入れないもの」
銀狐はそう言って、三日月のように目を細めて微笑んだ。
どこにも見つけられなくても
それが僕なんだ
休日に、鳥の巣頭と銀狐に誘われてあの小汚いパブへ行った。
夏の間に改装をしたらしく、一階フロアを通らずに二階へ直接上がれる入口ができている。一階ではアルコールも扱うけれど二階はだめで、エリオットの生徒の打ち上げや予約を優先してくれる専用フロアにしてあるらしい。色褪せた、剥がれかけの壁紙は、新たにエリオットのスクールカラーと同じ翡翠色に張替えられている。二つ置かれていたビリヤード台はそのままだが、テーブル数は増え、窓際と壁のソファー側とに整然と並べられている。
以前の倉庫みたいだった頃に比べると、ずいぶん普通の店になったじゃないか、と思いながら、僕たちは白い清潔なクロスのかかったテーブルについた。
注文は先に鳥の巣頭が済ませておいてくれたので、料理はすぐに運ばれてきた。二人とも、新メニューの『かぼちゃと林檎の秋カレー』を注文し、僕は無難なサンドイッチを頼んだ。運んで来てくれたのが中年の男性だったので、僕はさりげなさを装いつつ、あの赤毛の子のことを訊いてみた。
「彼女? ああ、彼女ね、Aレベルを受験しなおすために、ロンドンの学校に通っているらしいよ。大学に進むんだって」
「へぇ、そうなんだ。それで、あの賭けはどうなったんだろう?」
特別興味もなさそうな顔で、鳥の巣頭をちらりと見やる。
「ほら、きみの友人がさ――」
鳥の巣頭は、銀狐と意味ありげに顔を見合わせ、吹きだすように笑いだす。
「ああ、あれね――」
「ベンの奴、見事に振られたよ」
銀狐が引き継いで、声を潜めて教えてくれた。
私服だからよく判らないけれど、他のテーブルにいる内の何人かは、エリオットの子らしい。
「じゃ、もう一人の子の勝ち?」
「そういう訳でもないんだなぁ」
銀狐もくすくす笑う。
「銀ボタンくんは、こういう色ごとはてんでだめ。話にならないくらいお子さまだからね」
銀狐の、少し意地悪い、揶揄うような笑みを含んだ金の瞳に僕が映る。
心の奥底まで見透かすような透明な光に晒され、僕は「ふーん、そうなの。まぁ、まだ一学年生だったものね」と、どうでも良さそうな振りをする。ドキドキと、まるで僕のことを話題にされているかのような緊張に、僕自身戸惑いながら。
会話がとぎれ、食べ終えた鳥の巣頭がコーヒーを注文しに立ちあがった。
「きみも、たまにはコーヒーにしてみない? ここは紅茶よりもコーヒーの方がだんぜん美味しいんだ。銀ボタンくんのお勧めだよ」
意味ありげな最後の一言が余計だったけれど、せっかくなので頷いた。
あの赤毛の子は、もうここにはいない……。
それが分かっただけで、今日ここへ来た甲斐があった。自然に顔が緩んでくる。でも、銀狐が僕を見ている。また怒られる――。
銀狐の理屈は、どうにも僕には理解できない。
真剣な恋愛で特定の相手とだけつきあうのであれば、校則違反であっても彼は目を瞑ると言う。人の心は校則なんかで縛れないし、誰かを愛した、という理由で放校という一生を左右される罰を受けなければならなくなるのは重すぎると。けれど、彼の理屈では、上級生ならともかく下級生相手は許せないらしい。下級生の規範になるべき上級生が、道を踏み外させてしまう行為に及ぶなんて言語道断だって。
恋をしたことがないんだな、と僕は思った。だから、はい、はいって聴いていたよ。心配しなくても、僕は大鴉の道を踏み外すような原因にはならない。言っても解らないだろうから、彼には何も言わなかったけれど。僕にとって、大鴉は――、
「だけどね、」
物思いに耽っていた僕に、銀狐の声が飛びこんできた。
「ここの女の子の学費、用意したのは銀ボタンくんなんだ。この店の改装費用なんかも一切合財。それも誰かに頼ってじゃない。彼一人のアイデアで稼ぎだしたんだよ」
探るような銀狐の目つきに縛られ、咄嗟に言葉が出てこない。彼は口の端でにっと笑い言葉を継ぐ。
「あの子、本当にすごいんだよ。僕たちなんかとは次元が違うんだ」
――だから、きみなんかの手には負えない。
そう言いたいのだと判った。
「お待たせ」
鳥の巣頭が戻ってきた。ずいぶん遅いと思ったら、自らコーヒーを運んできていた。忙しそうだからって。信じられない鳥の巣頭だ。
それはともかく、銀狐に勧められたコーヒーは、今まで飲んだことのあるものよりも濃くて、苦くて、ちっとも美味しいとは思えなかった。
そえられた角砂糖だけでは足りず、鳥の巣頭や、銀狐の分まで貰っていれ、とぽとぽとミルクを足す。そんな僕を見て、銀狐がまたくすくすと笑う。
「きみも甘党? フェイラーみたいだね」
その名前に、僕はティースプーンをぎゅっと握りしめた。
「似ているかな、彼に」
「そうだね、どことなく。でも、きみはフェイラーよりもお兄さんの方、ソールスベリー先輩にどちらかといえば似ているよね」
僕が彼に似ている、といわれることを嫌がるのを知っている、鳥の巣頭の顔色が変わった。この話題を終わらせようと関係ないことを喋り始める。
「そう言えば、次の合同会議は、」
「僕は、自分が彼に似ていると思ったことは、一度もないけどな」
このとき初めて、僕は、自分自身で、僕に覆い被さる白い彼の影を切り離すことができたのかも知れない。
僕と彼は似てなんかいない。僕と彼は違う。僕と天使くんだって、違う。もう僕に彼の影を重ねるのはやめて。僕と彼を混同しないで。そう、叫びだしたい気分だった。僕の中で、白い彼への消化仕切れない憎悪が吹きだしそうになる。
横に座る鳥の巣頭が、テーブルの下の僕の左手をぎゅっと握る。右手に持つティースプーンが、コーヒーをかき回していたカップに当たり、何度もカチャカチャと耳障りな音を立てる。
そんな僕の様子を、金の瞳がじっと見つめている。まるで、取り調べでもしているかのように。
……何の?
「そうだね、確かに似ていないな。先輩はコーヒーにミルクも、砂糖も入れないもの」
銀狐はそう言って、三日月のように目を細めて微笑んだ。
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