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四章
95 秋の気配
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秋は忍び足でやってくる
長く伸びる
この影の中に
寮からメインの学舎までの道筋は三通りある。一つ目は奨励されている正規のルート。学舎と他の敷地を区切ってある狭い道を通う。二つ目、川縁の林を突っきり、フェローガーデンを通りぬける。このルートが一番の近道。三つ目、フェローズの森の前を通る。僕がいつも利用しているのはこのルートだ。
生徒会の役務を終えた後、鳥の巣頭に、今日はフェローガーデンを通って寮に帰りたい、と告げた。
このルートは寮の手前であの林をぬけなければならない。林を通らずに迂回すればかえって遠回りになってしまう。今まで、僕は好んでこのルートを取ることはなかった。
鳥の巣頭はびっくりしたような顔をした。
「秋薔薇が見ごろらしいよ」
「でも――、」
口の中でごにょごにょと何か言っている。
こいつのこういうところが嫌い。僕はもう平気なのに。確かにあの花の咲くあの時期にあそこを通りぬけるのは、僕だっていまだに嫌だと思う。けれど今の時期なら、景色だって全然違うじゃないか。
僕はそっぽを向いて歩きだし、鳥の巣頭は慌てて僕を追って足を速めた。
むせかえるような芳香を放ち、色とりどりの大輪の薔薇が咲き誇っている。
「ね、綺麗だろ」
僕は鼻高々と、鳥の巣頭を振り返った。
「うん」
こいつも、ほっとしたような顔をしている。きっと、僕がすごく嬉しそうな顔をしているからだ。
ゆるゆると進みながら川縁まで出て左に曲がる。薔薇園の終わりは、逆立つ波のように咲く薄紫の西洋ニンジンボクの生垣だ。この垣根を越えると、学校の敷地内には変わりはないが、遊休地になる。川縁の道に沿って何もない更地が延々とあの林まで続くのだ。
背の高い紫の大小の波の向こうに彼がいた。
大鴉は、黒のローブも、テールコートも、銀ボタンの並ぶウエストコートさえ脱ぎ捨てて、袖をまくりあげて農夫のように鋤を振るっていた。
僕と鳥の巣頭は、唖然としてその場に立ち止まってしまった。
僕は、彼の言う『野菜の品種改良の研究』が、農夫の真似事だなんて、かけらも思いつきもしなかったんだ。
「行こう」
鳥の巣頭が僕の背を押し、先に進むように促した。僕はもう一度だけ彼を見遣り、傾いた西日に照らされ赤く染まる彼の背中を、瞼裏に焼きつけた。
鳥の巣頭は何も言わなかったし、訊かなかった。かなり行き過ぎてから、まったく関係のないどうでもいい話を喋り始めた。
そして、あの林の入口でいったん立ち止まると、「どうする? 迂回してもいいんだよ。べつに急いでいるんじゃないんだし」と、念を押すように訊ねた。
「大丈夫」
僕はちょっと微笑んで、鳥の巣頭の手を握った。
夕暮れに染まる木立を吹き抜ける川風は、もうひやりと感じるほどに涼しい。短い夏は終わり、すぐに秋の気配が漂い始める。まだ存分に生い茂る夏の名残りの葉の隙間から赤金色の木漏れ日が舞う。黒々とした濃い影の伸びる林にできた、僕たちの寮の子たちが通りぬけ、踏み固めた下生えの道を、僕と鳥の巣頭も踏みしだいて進んだ。
僕はもう猟犬に追われる、か弱い兎なんかじゃない。
この場所に来て一番に思いだすのは、僕のために拳を振るってくれた子爵さまのこと。そして、僕のために甘んじてその拳を受けてくれた鳥の巣頭のことだ。
「ね、もう平気だろ?」
きゅっ、とつないでいる手に力を込めて鳥の巣頭に笑みを向けると、こいつも「うん」と嬉しそうに笑みを返した。
それからも、僕たちはフェローガーデンを通って帰るようになった。時々、備えつけのベンチに座って休んだりなんかもする。僕はもう何年もこの学校にいるのに、ゆっくりと花を愛でることもなかったのだと、改めて気がついた。
鳥の巣頭がいないときもこの道を使うようになったけれど、さすがに林は通らず迂回して寮に戻るようにしている。鳥の巣頭が心配するからね。自分がいないとき、もしフラッシュ・バックが起きたらどうするんだって。
大鴉には、遇うことよりも、遇わないことの方が多かった。でも、たまに彼を見かけると本当に嬉しくて、それからしばらくの間、僕は機嫌が良い。
体調が悪くて、昼過ぎてからやっと学舎に向かったことがあった。
遊休地に作られた大鴉の畑は、もうすっかり畑らしくなって、何かが植えられている。彼のものらしいローブやテールコートはあるのに、肝心の彼はいなかった。この場に彼の姿がないことに半ばがっかりし、半ばほっとしながら、黒々とした土と、そこから顔を出している小さなたくさんの芽をゆっくりと眺めた。
彼がなぜこんなことに情熱を傾けるのか、僕にはてんで理解できない。けれど、彼が、この何もない土地の一角を、何かに変えていく過程を見るのは面白くて、胸が弾む。この小さな葉っぱたちに注がれる彼の愛情を、僕は微笑ましく思い、そして羨ましく思う。
そんな、ほんわりと満たされた気分で薔薇園に入った。高く伸びた薔薇の葉に隠れるように、黒い革靴が見える。誰か倒れてでもいるのかと、その奥まった一角に行ってみると――。
大鴉がスヤスヤと昼寝をしていたんだ。雨ざらしの、ひとつだけ忘れ去られたような古ぼけたベンチの上で!
狭いベンチに幼い子どものように身体を丸め、無防備に晒しているその無邪気な寝顔を、僕は呆けたように見つめていた。思えば、こんな近くで彼の顔を眺めるのは初めてだった。
東洋人特有のきめ細かいしっとりとした肌。端正なパーツ。黒い、さらさらとした髪。そしてその髪と同じく、今は閉じられているあの鳶色の瞳を縁取る黒々とした長い睫毛――。
もしも今、この瞼が開いて、彼のあの鳶色に見つめられたら……。
と、そんな想像でいたたまれなくなって、足早にその場を後にした。
フェローガーデンの入口で、いく人かの奨学生とすれ違った。彼を探しにきたのだろうか?
願わくば、彼らが気づかず、彼の眠りを妨げませんように。
そんな祈りを捧げながら、僕は赤く火照った顔を冷ますべく、ぶんぶんと頭を振った。
長く伸びる
この影の中に
寮からメインの学舎までの道筋は三通りある。一つ目は奨励されている正規のルート。学舎と他の敷地を区切ってある狭い道を通う。二つ目、川縁の林を突っきり、フェローガーデンを通りぬける。このルートが一番の近道。三つ目、フェローズの森の前を通る。僕がいつも利用しているのはこのルートだ。
生徒会の役務を終えた後、鳥の巣頭に、今日はフェローガーデンを通って寮に帰りたい、と告げた。
このルートは寮の手前であの林をぬけなければならない。林を通らずに迂回すればかえって遠回りになってしまう。今まで、僕は好んでこのルートを取ることはなかった。
鳥の巣頭はびっくりしたような顔をした。
「秋薔薇が見ごろらしいよ」
「でも――、」
口の中でごにょごにょと何か言っている。
こいつのこういうところが嫌い。僕はもう平気なのに。確かにあの花の咲くあの時期にあそこを通りぬけるのは、僕だっていまだに嫌だと思う。けれど今の時期なら、景色だって全然違うじゃないか。
僕はそっぽを向いて歩きだし、鳥の巣頭は慌てて僕を追って足を速めた。
むせかえるような芳香を放ち、色とりどりの大輪の薔薇が咲き誇っている。
「ね、綺麗だろ」
僕は鼻高々と、鳥の巣頭を振り返った。
「うん」
こいつも、ほっとしたような顔をしている。きっと、僕がすごく嬉しそうな顔をしているからだ。
ゆるゆると進みながら川縁まで出て左に曲がる。薔薇園の終わりは、逆立つ波のように咲く薄紫の西洋ニンジンボクの生垣だ。この垣根を越えると、学校の敷地内には変わりはないが、遊休地になる。川縁の道に沿って何もない更地が延々とあの林まで続くのだ。
背の高い紫の大小の波の向こうに彼がいた。
大鴉は、黒のローブも、テールコートも、銀ボタンの並ぶウエストコートさえ脱ぎ捨てて、袖をまくりあげて農夫のように鋤を振るっていた。
僕と鳥の巣頭は、唖然としてその場に立ち止まってしまった。
僕は、彼の言う『野菜の品種改良の研究』が、農夫の真似事だなんて、かけらも思いつきもしなかったんだ。
「行こう」
鳥の巣頭が僕の背を押し、先に進むように促した。僕はもう一度だけ彼を見遣り、傾いた西日に照らされ赤く染まる彼の背中を、瞼裏に焼きつけた。
鳥の巣頭は何も言わなかったし、訊かなかった。かなり行き過ぎてから、まったく関係のないどうでもいい話を喋り始めた。
そして、あの林の入口でいったん立ち止まると、「どうする? 迂回してもいいんだよ。べつに急いでいるんじゃないんだし」と、念を押すように訊ねた。
「大丈夫」
僕はちょっと微笑んで、鳥の巣頭の手を握った。
夕暮れに染まる木立を吹き抜ける川風は、もうひやりと感じるほどに涼しい。短い夏は終わり、すぐに秋の気配が漂い始める。まだ存分に生い茂る夏の名残りの葉の隙間から赤金色の木漏れ日が舞う。黒々とした濃い影の伸びる林にできた、僕たちの寮の子たちが通りぬけ、踏み固めた下生えの道を、僕と鳥の巣頭も踏みしだいて進んだ。
僕はもう猟犬に追われる、か弱い兎なんかじゃない。
この場所に来て一番に思いだすのは、僕のために拳を振るってくれた子爵さまのこと。そして、僕のために甘んじてその拳を受けてくれた鳥の巣頭のことだ。
「ね、もう平気だろ?」
きゅっ、とつないでいる手に力を込めて鳥の巣頭に笑みを向けると、こいつも「うん」と嬉しそうに笑みを返した。
それからも、僕たちはフェローガーデンを通って帰るようになった。時々、備えつけのベンチに座って休んだりなんかもする。僕はもう何年もこの学校にいるのに、ゆっくりと花を愛でることもなかったのだと、改めて気がついた。
鳥の巣頭がいないときもこの道を使うようになったけれど、さすがに林は通らず迂回して寮に戻るようにしている。鳥の巣頭が心配するからね。自分がいないとき、もしフラッシュ・バックが起きたらどうするんだって。
大鴉には、遇うことよりも、遇わないことの方が多かった。でも、たまに彼を見かけると本当に嬉しくて、それからしばらくの間、僕は機嫌が良い。
体調が悪くて、昼過ぎてからやっと学舎に向かったことがあった。
遊休地に作られた大鴉の畑は、もうすっかり畑らしくなって、何かが植えられている。彼のものらしいローブやテールコートはあるのに、肝心の彼はいなかった。この場に彼の姿がないことに半ばがっかりし、半ばほっとしながら、黒々とした土と、そこから顔を出している小さなたくさんの芽をゆっくりと眺めた。
彼がなぜこんなことに情熱を傾けるのか、僕にはてんで理解できない。けれど、彼が、この何もない土地の一角を、何かに変えていく過程を見るのは面白くて、胸が弾む。この小さな葉っぱたちに注がれる彼の愛情を、僕は微笑ましく思い、そして羨ましく思う。
そんな、ほんわりと満たされた気分で薔薇園に入った。高く伸びた薔薇の葉に隠れるように、黒い革靴が見える。誰か倒れてでもいるのかと、その奥まった一角に行ってみると――。
大鴉がスヤスヤと昼寝をしていたんだ。雨ざらしの、ひとつだけ忘れ去られたような古ぼけたベンチの上で!
狭いベンチに幼い子どものように身体を丸め、無防備に晒しているその無邪気な寝顔を、僕は呆けたように見つめていた。思えば、こんな近くで彼の顔を眺めるのは初めてだった。
東洋人特有のきめ細かいしっとりとした肌。端正なパーツ。黒い、さらさらとした髪。そしてその髪と同じく、今は閉じられているあの鳶色の瞳を縁取る黒々とした長い睫毛――。
もしも今、この瞼が開いて、彼のあの鳶色に見つめられたら……。
と、そんな想像でいたたまれなくなって、足早にその場を後にした。
フェローガーデンの入口で、いく人かの奨学生とすれ違った。彼を探しにきたのだろうか?
願わくば、彼らが気づかず、彼の眠りを妨げませんように。
そんな祈りを捧げながら、僕は赤く火照った顔を冷ますべく、ぶんぶんと頭を振った。
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