微睡む宵闇 揺蕩う薫香

萩尾雅縁

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四章

94 九月 生徒会

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 ここにいる
 ここは僕の夢
 僕の憧れ



 憧れの赤のウエストコートは、僕にはとてつもなく重かった。
 毎日、毎日、笑顔を顔に張りつかせ、笑い皺ができそうだ。肩が凝ってしかたがない。寝る前に鳥の巣頭に肩や背中をほぐしてもらうのが日課になった。
 授業が終わってから消灯まで、これでもか、っていうほど雑用がある。生徒会と部活のキャプテンを兼任しているなんて冗談みたいだ。そんなのはおおかたどちらかが名前だけで、補佐に仕事をまわしているのが現実。

 鳥の巣頭がボート部のキャプテンにならなかったことに至極納得した。
 こいつが生徒会を優先してくれるのが初めはありがたかったけれど、少し慣れてくると不思議なもので、正直鬱陶しい。
 役員は生徒の規範だから、いつもスマートに笑みを絶やさず和やかに――。なんて言っている先から、愛想をふりまきすぎるとか、握手の時間が長すぎるとか、どうでもいいことをグチグチと言いだす。


 こいつに比べたら銀狐の方がずっとマシ――。と、そう思っていたら、とんでもなかった。

「きみ、すごく綺麗な字を書くんだね」
 会議の後の議事録をつけていた僕の手元を覗きこんで、銀狐が感嘆したように言ってくれた。
「プレップのとき、カリグラフィーを習っていたんだ。いろんな書体で書けるよ」

 褒められて、嬉しくなって自慢したのが運の尽き。僕は大量の礼状や、挨拶状の清書に追われることとなった。
 他校との交流や、大学、OBとの繋がりの深いこの学校では、入学時から、常に手紙を書くことを叩き込まれる。何かの行事毎に、お世話になった方々に礼状のカードを贈るのだ。この電子メールの時代に!


 生徒会執務室に居残って、まるでノルマのようにカードを書くのが日課になった。部屋には、たいてい鳥の巣頭か銀狐のどちらかがいて、他の役員や、部活のキャプテン、監督生なんかが入れかわり立ちかわり出入りしていた。




 その日、僕は珍しく一人きりで執務室の片隅の机で頼まれた手紙を清書していた。交換留学のサマースクールでお世話になった他国の学校への礼状だ。
 しんと静まり返った真紅の絨毯の敷かれた古めかしい室内に、カリカリとペン先の音が走る。ときおり窓の外で威勢の良い呼び声や笑い声が遠く響く。古色然とした艶やかな柱や窓枠に柔らかな午後の日差しが照り返している。何百年もかけて培われてきたこの学校の歴史と伝統にしみじみと感じいりながら、僕はやっと、この選ばれた一部の生徒だけに許された特別な部屋の一員になれた喜びを噛みしめていた。


「おい、ボビーはいるか?」

 ノックと同時に、黒いローブがふわりと踏みこんできた。
 心臓が止まるかと思った。

「何だい、銀ボタンくん。久しぶりだね、元気だった?」
 入口で大鴉が振り返る。
 銀狐の声だ。良かった。
 二人は並んで執務室に入ってきた。「やぁ」と、銀狐はいつものように、にこやかな笑みを僕に向ける。僕は緊張のあまり上手く笑えない。

「ちぇ、お前まで何だよ、嫌味かよ! ――フェローガーデンの横の空き地、畑として使いたいんだ。生物のスタンリー先生に許可は取ってあるよ」
 大鴉は僕を眼中に入れることなく銀狐に喋りかけている。
「生物の? 園芸部とは関係なし?」
「花じゃない。野菜の品種改良の研究をするんだ」
「英国の野菜は不味すぎて食べられないからって、自分で作ることにしたの? まったくきみらしいね」

 冗談めかした銀狐の言葉に、「ご明察!」と大鴉は声を立てて笑った。朗らかな屈託のない様子で。

 息を殺してそっと眺めていると、僕に背を向け執務机の片端に腰かけている大鴉に、銀狐はくすくすと笑いながら椅子を勧め、ひらひらと掌を向ける。
「申請書は?」
 大鴉はローブから手品のように書類を取りだす。
「すぐに読むから、お茶を淹れてくれる?」
 銀狐はいかにも親しげな笑みを大鴉に向けている。

「あ、いいんだ」
 立ち上がった僕を銀狐は制止し、大鴉を見あげた。
「久しぶりにきみのお茶が飲みたい」

「別にいいけど。コーヒーじゃなくて?」
「紅茶を」
「電気ケトルだろ? 最高温度が低いんだよなぁ」

 大鴉はなぜだか不満そうな声音で立ちあがると、勝手知ったる様子で、僕とは反対側にある壁際のチェストに置いてある電気ケトルでお湯を沸かし、慣れた手つきで紅茶を淹れた。

「きみもどうぞ」と、銀狐が僕にもティーカップを運んでくれた。そしてまた執務机に戻ると、机に置いた書類を眺め、お茶を飲みながら大鴉と話し始めた。


 やがて立ちあがり、「じゃ、頼んだぞ」と大鴉は執務室を後にした。僕は、ほーと息を吐く。
 気がつくと、銀狐が面白そうに僕を見ていた。


「きみさぁ、ステディなんだよね、この席の彼とさ」
 言いながら、トントンと、いつもは鳥の巣頭が座っている執務机の天板を叩く。

 何て答えていいのか解らなかった。

 そうなのだろうか?

 僕はいつでも誰かの所有物で、そうしていなければ、自分を守ることなんてできはしなかった。僕は蛇のもので、子爵さまのもので、鳥の巣頭のもので――。ステディなんていえる対等な関係であったことなんてない。
 唯一、梟だけが僕を自分のもののように扱わなかった。そりゃ、決して対等とはいえなかったけれど。だから僕は梟の頼みを聞いてあげたい。梟に喜んで欲しいと思うんだ。

 ふっと意識が沈みこんだ僕を、月光の瞳が静かに照らす。

「それなのに、そんな瞳で他の子を見つめて、頬を染めたりするんだね、きみは」


 そんな瞳でって、僕はどんな瞳で大鴉を見ていたのだろう? 彼は、そんな僕に気がついたのだろうか?

 冷ややかな視線を向けている銀狐よりも、その方が気になって、僕はますます赤くなって下を向いた。
 書きかけのお礼状の文字が、つんと澄まして跳ね飛んで、気取り返っているように見えた。




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