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三章
93 赤のウエストコート
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夏の夜の
冴え渡る月が明る過ぎて
あんな会話を交わしたのに、その後の銀狐の僕への態度は何も変わりはしなかった。少し嬉しくて、少し安心して、でも、それ以外のかなりの部分に生まれた警戒心と恐怖心を拭い去ることができないまま、オックスフォードでの残りの日々をすごした。
あのカフェで梟のことをいろいろ訊かれた。蛇のことも。
あの日、僕を宿舎まで送ってくれたのは蛇だったのだ。蛇はそんな風に僕の面倒を見てくれたことなんてなかったから、心底驚いてしまった。そして納得した。もし梟が送ってくれていたのなら、あんなふうにジョイントの匂いを残したり、気崩れた服のまま僕を放置するわけがないもの。
銀狐は、この二人が異母兄弟だということも知っていた。
――あの腐れ主教!
と、彼は吐き捨てるように、蛇の綽名をよんだ。彼は蛇のことが好きではないみたいだ。反対に梟には同情的だった。
梟は本当に優秀で、カレッジ寮とは別の奨学金を受けている町の奨学生だった。カレッジ寮の子が転校して空きができたときには、一番に梟に転寮の誘いがかかったらしい。けれど梟は、義理の兄よりも立場が上になる奨学生の地位を拒んで応じなかったのだという。
――もったいないよ。彼は十分一人でやっていけるのに、いまだにあのビショップの使い走りだなんてね。
銀狐は本当に残念そうに吐息を漏らしていた。
彼が蛇のことをビショップとよぶ理由も聴いた。
蛇の父親は亡くなっているけれど、祖父は国教会の主教だから聖職貴族で、貴族院議員だ。一族にも聖職者が多い。蛇は在学中、祖父の威光を徹底的に利用して好き放題していたのだと、銀狐は教えてくれた。
――親の七光りを利用しているのは、僕も同じだけどね。
銀狐はそう言って肩をすぼめ、自嘲的ににっと笑った。
僕は梟のことをあまりに知らない。蛇のことも……。
いくら銀狐に尋ねられたところで、答えることはできなかった。彼らがいた頃の記憶は朧で、思い出そうとすると息が苦しくなって気分が悪くなる。
まっ青になって卒倒しそうな僕を見て、銀狐はそれ以上僕に尋ねるのは止めた。彼の眉がわずかに釣りあがり、あの夜空の月を映したような金の瞳が失望の色に濁る。まるで視線で首を締めあげられているような気分で彼を眺めた記憶だけが、脳裏に鮮烈に焼きついていた。
カレッジ・スクールの最終日、約束通り鳥の巣頭は迎えにきてくれた。心底ほっとしたよ。
僕は銀狐のことを、決して嫌いではない。むしろ惹かれているといっていいほど、彼に魅了されている。だけど、彼のすべてを見透かすような月光の瞳は、透明過ぎて、明るすぎて、僕の羞恥を引きだして堪らなく惨めにさせるんだ。
それに何よりも、彼の傍から離れられることが嬉しかった。
だって、僕は今、ジョイントを持っているから……。
三人であのカフェで逢った後、僕は銀狐と被らない講義を休んで一度だけ梟に逢った。そのときに受け取ったものだ。僕は梟との約束を守らなければならない。
子爵さまの払ったお金のことも、思い切って訊いてみた。あれは僕に、というよりも子爵さまと僕が吸っていたジョイントの代金だと言われて、ほっと胸を撫でおろした。
本音を言うと嬉しかった。
子爵さまが僕を守るために、あんな大金を払ってくれていたってこと。それは梟が僕を使って捌いていたジョイントを、子爵さまが全部買ってくれていた、ということだ。僕はずっと、白い彼の身代わりでしかないことが辛かった。けれど、子爵さまはそんな偽物の僕でも大切に思ってくれていたのだ。それが解って、ちょっとだけ泣いてしまったよ。
学校が始まるまでの期間は、鳥の巣頭の家ですごす。今度こそ、ジョイントに手をつけないようにしないと――。
もうこの家で、アヌビスに逢うこともないらしい。父親に兄のことを告げ口した鳥の巣頭のせいで、アヌビスは一族の関連銀行の海外支店勤務になったそうだ。体のいい厄介払いだ。大学を卒業したばかりだっていうのにね。ご愁傷さま。
のんびりとした夏の残響。一緒に乗馬をしたり、テニスをしたり。鳥の巣頭は、事細かに生徒会の心得を教えてくれた。僕は副寮長にもなるわけだから、寮内で注意しなければならないことも。そして寮長同士のつきあいについて――。
「そんなにたくさん覚えきれないよ」
テラステーブルでお茶を飲みながら、あれも、これもと忙しなく喋るこいつに飽き飽きして、僕はとうとう思い切り唇を尖らせて終わらない講釈を遮った。
「今からそんなに詰めこまなくったっていいだろ?」
「でも――」
僕の抗議に、鳥の巣頭は困ったように頭を掻く。ほら、鳥の巣頭がますます鳥の巣だ。
「ああ、そうだ。部活でエリオットに戻ったときに、きみの制服も一緒に受け取ってきたんだ。試着してみる?」
すっと背筋を伸ばした鳥の巣頭は、また一段と逞しくなっているように見えた。たった一年で制服が合わなくなったから、サイズ直しに出したのだと言う。
「きみも、この夏の間に背が伸びたみたいだね。赤のウエストコートにホワイトタイ、きっと似合うだろうな」
ずっと憧れていた赤のウエストコート!
僕はさっきまでの不機嫌をすっかり忘れて、座ったまま鳥の巣頭に飛びついた。
「うん。早く着たい。サイズが合わないようなら、直しに出さないといけないもの。僕、少し太ったかも知れない。だってね、毎日嫌になるほど散歩してお腹が空くから、美味しくないのにちゃんと残さず食べていたんだよ。ほら、」
鳥の巣頭の掌を導いて、薄いシャツの下のお腹に当てた。
「判らないよ……」
照れたような、はにかんだ笑みが零れる。
「じゃ、じかに見る?」
顔を寄せて囁くと、鳥の巣頭は僕の手を握って立ちあがった。
冴え渡る月が明る過ぎて
あんな会話を交わしたのに、その後の銀狐の僕への態度は何も変わりはしなかった。少し嬉しくて、少し安心して、でも、それ以外のかなりの部分に生まれた警戒心と恐怖心を拭い去ることができないまま、オックスフォードでの残りの日々をすごした。
あのカフェで梟のことをいろいろ訊かれた。蛇のことも。
あの日、僕を宿舎まで送ってくれたのは蛇だったのだ。蛇はそんな風に僕の面倒を見てくれたことなんてなかったから、心底驚いてしまった。そして納得した。もし梟が送ってくれていたのなら、あんなふうにジョイントの匂いを残したり、気崩れた服のまま僕を放置するわけがないもの。
銀狐は、この二人が異母兄弟だということも知っていた。
――あの腐れ主教!
と、彼は吐き捨てるように、蛇の綽名をよんだ。彼は蛇のことが好きではないみたいだ。反対に梟には同情的だった。
梟は本当に優秀で、カレッジ寮とは別の奨学金を受けている町の奨学生だった。カレッジ寮の子が転校して空きができたときには、一番に梟に転寮の誘いがかかったらしい。けれど梟は、義理の兄よりも立場が上になる奨学生の地位を拒んで応じなかったのだという。
――もったいないよ。彼は十分一人でやっていけるのに、いまだにあのビショップの使い走りだなんてね。
銀狐は本当に残念そうに吐息を漏らしていた。
彼が蛇のことをビショップとよぶ理由も聴いた。
蛇の父親は亡くなっているけれど、祖父は国教会の主教だから聖職貴族で、貴族院議員だ。一族にも聖職者が多い。蛇は在学中、祖父の威光を徹底的に利用して好き放題していたのだと、銀狐は教えてくれた。
――親の七光りを利用しているのは、僕も同じだけどね。
銀狐はそう言って肩をすぼめ、自嘲的ににっと笑った。
僕は梟のことをあまりに知らない。蛇のことも……。
いくら銀狐に尋ねられたところで、答えることはできなかった。彼らがいた頃の記憶は朧で、思い出そうとすると息が苦しくなって気分が悪くなる。
まっ青になって卒倒しそうな僕を見て、銀狐はそれ以上僕に尋ねるのは止めた。彼の眉がわずかに釣りあがり、あの夜空の月を映したような金の瞳が失望の色に濁る。まるで視線で首を締めあげられているような気分で彼を眺めた記憶だけが、脳裏に鮮烈に焼きついていた。
カレッジ・スクールの最終日、約束通り鳥の巣頭は迎えにきてくれた。心底ほっとしたよ。
僕は銀狐のことを、決して嫌いではない。むしろ惹かれているといっていいほど、彼に魅了されている。だけど、彼のすべてを見透かすような月光の瞳は、透明過ぎて、明るすぎて、僕の羞恥を引きだして堪らなく惨めにさせるんだ。
それに何よりも、彼の傍から離れられることが嬉しかった。
だって、僕は今、ジョイントを持っているから……。
三人であのカフェで逢った後、僕は銀狐と被らない講義を休んで一度だけ梟に逢った。そのときに受け取ったものだ。僕は梟との約束を守らなければならない。
子爵さまの払ったお金のことも、思い切って訊いてみた。あれは僕に、というよりも子爵さまと僕が吸っていたジョイントの代金だと言われて、ほっと胸を撫でおろした。
本音を言うと嬉しかった。
子爵さまが僕を守るために、あんな大金を払ってくれていたってこと。それは梟が僕を使って捌いていたジョイントを、子爵さまが全部買ってくれていた、ということだ。僕はずっと、白い彼の身代わりでしかないことが辛かった。けれど、子爵さまはそんな偽物の僕でも大切に思ってくれていたのだ。それが解って、ちょっとだけ泣いてしまったよ。
学校が始まるまでの期間は、鳥の巣頭の家ですごす。今度こそ、ジョイントに手をつけないようにしないと――。
もうこの家で、アヌビスに逢うこともないらしい。父親に兄のことを告げ口した鳥の巣頭のせいで、アヌビスは一族の関連銀行の海外支店勤務になったそうだ。体のいい厄介払いだ。大学を卒業したばかりだっていうのにね。ご愁傷さま。
のんびりとした夏の残響。一緒に乗馬をしたり、テニスをしたり。鳥の巣頭は、事細かに生徒会の心得を教えてくれた。僕は副寮長にもなるわけだから、寮内で注意しなければならないことも。そして寮長同士のつきあいについて――。
「そんなにたくさん覚えきれないよ」
テラステーブルでお茶を飲みながら、あれも、これもと忙しなく喋るこいつに飽き飽きして、僕はとうとう思い切り唇を尖らせて終わらない講釈を遮った。
「今からそんなに詰めこまなくったっていいだろ?」
「でも――」
僕の抗議に、鳥の巣頭は困ったように頭を掻く。ほら、鳥の巣頭がますます鳥の巣だ。
「ああ、そうだ。部活でエリオットに戻ったときに、きみの制服も一緒に受け取ってきたんだ。試着してみる?」
すっと背筋を伸ばした鳥の巣頭は、また一段と逞しくなっているように見えた。たった一年で制服が合わなくなったから、サイズ直しに出したのだと言う。
「きみも、この夏の間に背が伸びたみたいだね。赤のウエストコートにホワイトタイ、きっと似合うだろうな」
ずっと憧れていた赤のウエストコート!
僕はさっきまでの不機嫌をすっかり忘れて、座ったまま鳥の巣頭に飛びついた。
「うん。早く着たい。サイズが合わないようなら、直しに出さないといけないもの。僕、少し太ったかも知れない。だってね、毎日嫌になるほど散歩してお腹が空くから、美味しくないのにちゃんと残さず食べていたんだよ。ほら、」
鳥の巣頭の掌を導いて、薄いシャツの下のお腹に当てた。
「判らないよ……」
照れたような、はにかんだ笑みが零れる。
「じゃ、じかに見る?」
顔を寄せて囁くと、鳥の巣頭は僕の手を握って立ちあがった。
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