微睡む宵闇 揺蕩う薫香

萩尾雅縁

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三章

92 対面2

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 目を瞑り、耳を塞ぎ、口を覆っても
 僕は逃げられないのか
 僕の影から




「手を引くって? 意味が解らないな」
 梟はふっと眉尻を上げ、取りだした煙草に火を点けた。
「おや、言わないとお解りになりませんか? そこまで気の廻らない愚鈍な方とは思われませんが」
「俺のことを買いかぶりすぎじゃないのか?」
 梟は肩を揺すって含み笑う。
「まさか! カレッジ寮に移籍の話まであった優秀なあなたのことです。見くびりはしませんよ」
 銀狐はひょいと首をすくめて、にっと笑みを返す。

「ちょっと待って。それは僕の話なの? 手を引くってどういうこと?」

 僕は、動揺のあまりドキドキと高まる鼓動に負けないように、声高な早口で二人の顔を見比べながら訊ねた。

「手を切るって約束しただろう?」
「約束? きみが勝手なことを言っていただけじゃないか!」

 あの金の瞳に見据えられ、梟の冷めた視線をも意識して、僕は口の中でもごもごと反論するしかない。

 あんなの約束なんて言えるものか! 脅しじゃないか!

「それに、あのとき一緒だったのは彼じゃないもの」
「解っているよ」
 銀狐の金色の瞳が鈍く光り、かすかに歪められた口許から吐息が漏れる。

「僕は彼の保護者から彼のことを頼まれているんです。彼にこれ以上不埒な関係を強要するのは、終わりにしていただきたい」

 保護者――? 

「きみにはきみのことを真剣に想ってくれる大切な人がいるだろう?」

 念を押すように僕に告げた、銀狐の目許が優しく緩んだ。
 梟は表情を変えないまま、煙草をゆっくりと吸っている。

「少し席を外してくれないか? こいつと二人だけで話したい」

 すっと伏せていた瞼を持ちあげ、告げられた願いに、銀狐は軽く頷いて立ちあがり、店の奥の席に移動した。その彼の背中を目で追いながら、梟はくっと笑う。

「お前もとんでもない奴を連れてきたな。あいつに聴いてもしやと思ったが、取り越し苦労で終わってくれなかったな」
「とんでもない奴――?」
「言ったろう? ボビーにヤード、スコットランド・ヤードのことさ。あいつの家系は警察畑なのさ。あいつもやたら正義感が強くて面倒見がいいから、ついたあだ名が警察官ボビーだよ」

 警察官の家系――。

「親がヤード勤めってわけでもないんだがな。確かあいつの親父は、重大不正捜査局SFOの偉いさんだったはずだ」
「それで――?」

 鳥の巣頭は僕のことを、彼に話したのだろうか? 

 すーと血の気が引いていく。梟は小刻みに震える僕の手を握って小声で訊ねた。

「バレたのか?」
「身体の痕を見られた。それから、お酒を飲んだのかって」
「あれは?」
 僕は何度も首を横に振った。壊れた人形のように。
「俺がお前を送っていけば良かったな」
「え?」

 僕を宿舎まで送ってくれたのは、梟じゃなかったの?

 すっかり怖気づいてしまった僕の頭を、梟はにっと笑ってくしゃりと撫でた。

「そう心配するな。あいつが言っているのはのことじゃない。後の話は俺がつけるから、呼んできてくれ。お前は向こうでお茶でも飲んでろ」


 僕は納得仕切れないまま立ちあがり、のろのろと銀狐の待つテーブルへ向かった。


 薄暗い奥の席から眺める窓際に座る二人は、終始和やかに歓談しているようにしか見えない。仲の良い先輩、後輩同士のように――。

 しばらくして席を立った梟は、僕のところへ来て顔を寄せ、「また連絡する」とにっと笑い、ぽん、と僕の頭を軽く撫でるとそのまま店を出ていった。その間に銀狐はカウンターで新しく注文をし直して、それから僕のテーブルにやってきた。

「さあ、どうぞ」

 銀狐は紅茶をくれ、皿の上にいくつも載ったベーグルサンドをテーブルの真ん中に置く。

 ちっともお腹は空いていなかったけれど、勧められたものを断ると彼が気を悪くするかと思い、その中の一つを手に取り一口千切り、口に入れる。

「いくらだった? 払うよ」

 食べてから気がついて彼に訊ねると、銀狐は首を横に振った。

「彼のおごり。賄賂ですか、って訊いたら、僕にじゃなくてきみにって。食事する予定だったからって」

 僕たちは黙々とベーグルサンドを頬張り、お茶を飲んだ。彼はコーヒーを。

「きみはいつもコーヒーなんだね」
 なにげなく訊ねると、彼は唇の先をちょっと持ちあげて微笑んだ。
「うちの銀ボタンくん、コーヒーを淹れるのがとても上手くてね。それで僕も好きになったんだ」

 突然大鴉の話題を出され、僕は戸惑って目を伏せた。

「きみは紅茶が好きだね」

 視線を上げると、銀狐は僕に話しかけたというよりも、じっと物思いに耽っているような、そんな遠い目をしていて、どこというわけでもなく店内を眺めていた。

「彼、やはり一筋縄ではいかない人だね」

 僕を一瞥しため息を漏らす。

「きみ、セディがきみのためにいくら使っていたか知っているの? きみは金銭的に困窮しているわけでもないし、特に贅沢が好きってふうでもない。きみのその様子じゃ、きみはそのお金を受け取ってはいないみたいだ」

 代わりにジョイントを貰っていた……、なんて言えるはずがない。

「どうなの? セディが彼に支払ったのは、ラグビー部がきみに対してしたことの口止め料兼慰謝料だって言われたよ。でも当人のきみは、そのお金を受け取ってはいないんだろ?」

 畳みかけるように言い、金の瞳が獲物を狙う狐のように僕を見つめる。

「子爵さまは、いくら払っていたの?」
「七万ポンド」

 あまりの金額の大きさに、僕は目を剥いた。

「ありえないよ、そんな大金……」
「まったくだね」

 銀狐は吐き捨てるように呟く。

「『子爵さま』か――。きみは一度もセディを名前で呼ばなかったそうだね」

 どこか責めるようなその口調に、僕は目を伏せ俯いた。皿の上の食べかけのベーグルが惨めな僕を嘲笑う。


「きみって本当に解らない子だよ」

 銀狐は顔をしかめ、大きくため息を吐いていた。




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