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三章
90 外食
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仰ぎみる空から
零れおちる記憶
砂に似て
さらさら、さらさら
目が覚めると鳥の巣頭はいなかった。
慌てて起きあがり服を着て、窓を開けた。むわりとした室内に清涼な空気が流れ込む。
シャワー……、を浴びたかったけれど、じきに夕食の時間だ。ここの宿舎、夕食時間が早すぎる。余所よりも一時間は早い。鳥の巣頭はどうしたんだろう? 何も言わずにもう帰ってしまったのだろうか?
戸惑っていた僕は、ベッドの接している壁の向こうからボソボソと話し声がすることにはたと気がついた。隣の銀狐の部屋からだ。鳥の巣頭と話しているに違いない。ほっとして息を継ぎ、洗面台の鏡を覗きみる。
鳥の巣頭は痕を残したりしないけれど、いかにもな――、気怠そうな様子でこちらを見ている顔に、恥ずかしさで顔が赤らんだ。おまけに、馬鹿みたいに泣いたりしたから瞼が腫れている。それに……。
やっぱり一番気になるのはこの匂いだ。こんな時に限ってコロンを持ってきていない。鳥の巣頭が一緒じゃないから、必要ないと思っていたんだ。
冷たい水で顔を洗い、どうしよう? と鏡の中の僕に訊ねた。と、洗面台の脇の棚に置きっ放しだったヘアワックスが目に入った。
ドアがノックされ鳥の巣頭の顔が覗く。
「マシュー、起きたんだね」
きっちりと撫でつけた髪に、ネクタイも締めた格好で立ちあがる。銀狐に変に勘ぐられたりしませんように。
「外に食事に行こうか。そろそろ宿舎の食事も飽きてきた頃じゃないかい? レストランを予約しておいたからね」
鳥の巣頭の横にいた銀狐が、澄ました顔をして言った。
僕は何も聴いていなかったのに!
これじゃあ、いかにも楽しみにしていたみたいじゃないか。
膨れっ面をした僕を見て、銀狐はくすくすと笑った。
「コロン変えたの? 爽やかないい香りだね」
宿舎を出てハイストリートへ続く石畳を歩きながら、鳥の巣頭はやっと僕の方を振り向いて言った。この香りが、以前、自分が銀狐から借りてくれたものだということには気がつきもしない。
「ヘアワックスだよ。彼に貰ったんだ」
僕はちょっとムカつきながら呟いた。
「ああ、きみがずっと欲しがっていたあれか! それは良かったね!」
能天気な鳥の巣頭。やっと気づいた。
そしてまたすぐに、銀狐と直前の話に戻っていった。
こいつは僕がいるっていうのに、ずっと銀狐と僕には解らない話ばかりしている。面白くなかったけれど黙っていた。もうこれ以上、銀狐の前でみっともない真似を晒したくなかったから。
銀狐が予約してくれたレストランは、僕の好きな海鮮料理が評判のとても洒落た店だった。銀狐は何をするにもソツがない。僕はすっかり機嫌を直してウキウキと店内を見回した。
濃い紫の壁に、大きな窓から差しこむ光が揺れている。白い腰壁に紫が映え、薄いラベンダー色に空気を染める。壁に掛かる抽象画もくどくなくていい。鏡のように磨かれた銀色のテーブルに、セットされたグラスや皿が逆さまに映る。立てて置かれた白いメニューの表紙には、カットグラスに入った蝋燭の影が幻想的に広がって、とても綺麗だ。
日はまだ高く夕食の時間には早かったため店内が閑散としていたのも、僕には好ましい。
「もう一時間もすれば混んでくるよ」
良く知っているかのように、鳥の巣頭が言った。
運ばれてきた殻つきの生牡蠣は、砕かれた氷の上にのっていてひんやりと良く冷えていたし、身はぷりぷりとして大きかった。鳥の巣頭がレモンをたっぷり絞りかけてくれた。
ポーチドエッグののったアボガドのサラダも、白い皿に美しく盛られたメインのコロッケ風仔牛のチーズ包み焼きも、本当に美味しい。
料理が運ばれてくる度に楽しくて目を丸めていた僕を見て、銀狐はまたくすくす笑っている。
「きみ、あまり外食することがないのかな?」
「もっと小さい頃、家族で旅行に行った時くらいかな。後は――、カフェくらいは行くよ」
エリオットに入学してからは、あの小汚いパブに行ったくらいだ。こんなちゃんとしたレストランに来たのは、本当に久しぶり。
そういえば、僕が牡蠣を好きになったのは、家族で訪れたコートダジュールで食べてからだ――。
ふっと物思いに沈んだ僕を見て、鳥の巣頭が顔を曇らせた。
「きみのお母さまが、きみは牡蠣が好きだっておっしゃっていたからこの店にしたんだよ」
「母が? きみこの店に来たことがあるの?」
「うん。きみのご両親と一緒に」
両親がオックスフォードを訪れたのは――。
ああ、確かに。と、僕は鼻白んだ。
僕があの蛇の友人の家で警察に捕まり、強制入院させられていた時だ。
ああ、確かに、父ならこの街のことも、レストランも良く知っているよ!
このシックな内装も、料理も母好みなのだ。だから僕は違和感なく馴染めたのだとやっと解った。
そして、僕をこの街まで送ってきても、荷物を置くと同時に帰っていった母と、息子が警察沙汰で入院していても、呑気に鳥の巣頭を誘い、こんな高級レストランで食事をしていた両親を思い、乾いた笑いが口から零れた。
「きみのこと、とても心配しておられた」
銀狐の前で、何を言い出すんだ、こいつは――。
せっかくの夕食が台無しだ。
楽しみにしていたフライドパンケーキのホワイトチョコレート掛けは、ちっとも魅力的に思えなくて、僕は少しつついただけで食べるのをやめた。
零れおちる記憶
砂に似て
さらさら、さらさら
目が覚めると鳥の巣頭はいなかった。
慌てて起きあがり服を着て、窓を開けた。むわりとした室内に清涼な空気が流れ込む。
シャワー……、を浴びたかったけれど、じきに夕食の時間だ。ここの宿舎、夕食時間が早すぎる。余所よりも一時間は早い。鳥の巣頭はどうしたんだろう? 何も言わずにもう帰ってしまったのだろうか?
戸惑っていた僕は、ベッドの接している壁の向こうからボソボソと話し声がすることにはたと気がついた。隣の銀狐の部屋からだ。鳥の巣頭と話しているに違いない。ほっとして息を継ぎ、洗面台の鏡を覗きみる。
鳥の巣頭は痕を残したりしないけれど、いかにもな――、気怠そうな様子でこちらを見ている顔に、恥ずかしさで顔が赤らんだ。おまけに、馬鹿みたいに泣いたりしたから瞼が腫れている。それに……。
やっぱり一番気になるのはこの匂いだ。こんな時に限ってコロンを持ってきていない。鳥の巣頭が一緒じゃないから、必要ないと思っていたんだ。
冷たい水で顔を洗い、どうしよう? と鏡の中の僕に訊ねた。と、洗面台の脇の棚に置きっ放しだったヘアワックスが目に入った。
ドアがノックされ鳥の巣頭の顔が覗く。
「マシュー、起きたんだね」
きっちりと撫でつけた髪に、ネクタイも締めた格好で立ちあがる。銀狐に変に勘ぐられたりしませんように。
「外に食事に行こうか。そろそろ宿舎の食事も飽きてきた頃じゃないかい? レストランを予約しておいたからね」
鳥の巣頭の横にいた銀狐が、澄ました顔をして言った。
僕は何も聴いていなかったのに!
これじゃあ、いかにも楽しみにしていたみたいじゃないか。
膨れっ面をした僕を見て、銀狐はくすくすと笑った。
「コロン変えたの? 爽やかないい香りだね」
宿舎を出てハイストリートへ続く石畳を歩きながら、鳥の巣頭はやっと僕の方を振り向いて言った。この香りが、以前、自分が銀狐から借りてくれたものだということには気がつきもしない。
「ヘアワックスだよ。彼に貰ったんだ」
僕はちょっとムカつきながら呟いた。
「ああ、きみがずっと欲しがっていたあれか! それは良かったね!」
能天気な鳥の巣頭。やっと気づいた。
そしてまたすぐに、銀狐と直前の話に戻っていった。
こいつは僕がいるっていうのに、ずっと銀狐と僕には解らない話ばかりしている。面白くなかったけれど黙っていた。もうこれ以上、銀狐の前でみっともない真似を晒したくなかったから。
銀狐が予約してくれたレストランは、僕の好きな海鮮料理が評判のとても洒落た店だった。銀狐は何をするにもソツがない。僕はすっかり機嫌を直してウキウキと店内を見回した。
濃い紫の壁に、大きな窓から差しこむ光が揺れている。白い腰壁に紫が映え、薄いラベンダー色に空気を染める。壁に掛かる抽象画もくどくなくていい。鏡のように磨かれた銀色のテーブルに、セットされたグラスや皿が逆さまに映る。立てて置かれた白いメニューの表紙には、カットグラスに入った蝋燭の影が幻想的に広がって、とても綺麗だ。
日はまだ高く夕食の時間には早かったため店内が閑散としていたのも、僕には好ましい。
「もう一時間もすれば混んでくるよ」
良く知っているかのように、鳥の巣頭が言った。
運ばれてきた殻つきの生牡蠣は、砕かれた氷の上にのっていてひんやりと良く冷えていたし、身はぷりぷりとして大きかった。鳥の巣頭がレモンをたっぷり絞りかけてくれた。
ポーチドエッグののったアボガドのサラダも、白い皿に美しく盛られたメインのコロッケ風仔牛のチーズ包み焼きも、本当に美味しい。
料理が運ばれてくる度に楽しくて目を丸めていた僕を見て、銀狐はまたくすくす笑っている。
「きみ、あまり外食することがないのかな?」
「もっと小さい頃、家族で旅行に行った時くらいかな。後は――、カフェくらいは行くよ」
エリオットに入学してからは、あの小汚いパブに行ったくらいだ。こんなちゃんとしたレストランに来たのは、本当に久しぶり。
そういえば、僕が牡蠣を好きになったのは、家族で訪れたコートダジュールで食べてからだ――。
ふっと物思いに沈んだ僕を見て、鳥の巣頭が顔を曇らせた。
「きみのお母さまが、きみは牡蠣が好きだっておっしゃっていたからこの店にしたんだよ」
「母が? きみこの店に来たことがあるの?」
「うん。きみのご両親と一緒に」
両親がオックスフォードを訪れたのは――。
ああ、確かに。と、僕は鼻白んだ。
僕があの蛇の友人の家で警察に捕まり、強制入院させられていた時だ。
ああ、確かに、父ならこの街のことも、レストランも良く知っているよ!
このシックな内装も、料理も母好みなのだ。だから僕は違和感なく馴染めたのだとやっと解った。
そして、僕をこの街まで送ってきても、荷物を置くと同時に帰っていった母と、息子が警察沙汰で入院していても、呑気に鳥の巣頭を誘い、こんな高級レストランで食事をしていた両親を思い、乾いた笑いが口から零れた。
「きみのこと、とても心配しておられた」
銀狐の前で、何を言い出すんだ、こいつは――。
せっかくの夕食が台無しだ。
楽しみにしていたフライドパンケーキのホワイトチョコレート掛けは、ちっとも魅力的に思えなくて、僕は少しつついただけで食べるのをやめた。
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