微睡む宵闇 揺蕩う薫香

萩尾雅縁

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三章

89 風を追う背中

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 地上に縛られた飛べない鳥
 翼を持たないはずなのに
 その心は
 どこまでも高く、高く




 僕は戸惑い、どうすればいいのか判らないまま。

 翌朝、銀狐に叩き起こされた。まだ身体も重く、頭もぼんやりと辛かったのに。「今日は休むよ」と言ったけれど、彼は許してくれなかった。そんなの僕の自由だろ? って文句を言いたかったけれど、昨日迷惑をかけてしまったから言えなかった。

「ちゃんと食べないから、きみ、そんなに頻繁に倒れるんだよ」
 銀狐はそう言って、ビュッフェ式の僕の皿に勝手にベイクドビーンズやソーセージを継ぎ足していく。そのどちらもそんなに好きじゃないのに。
 おまけに、食べている間中、僕を怖い顔で睨むんだ。
 先週まではこんなじゃなかったのに……。

 銀狐までが、鳥の巣頭みたいに煩く世話を焼くのかと思ったらげんなりだ。僕が食べようが食べまいが、そんなことどうだっていいじゃないか!

 腹が立って、朝食の皿のほとんどを残した。本当はお腹が空いていたけれど。後で売店で何か買ってくればいい、そう思った。



 でもその日の昼食も、夕食も、銀狐はもう何も言わなかった。
 翌日の朝も。その次の日も。

 彼は僕に興味を失くしたように、他の奴らと談笑している。

 僕は皿を睨みつけ、闘いを挑むように口に運んだ。
 やっと全てを片づけ終わったとき、とっくに食べ終わってゆっくりとコーヒーを飲んでいた彼は、「おや、今日は綺麗に食べたんだね」と三日月のように目を細めてにっと笑った。



 彼は陽に当たり、風に当たるのが好きだった。よく散歩に誘われた。リハビリにたくさん歩かなきゃいけないからだと言う。僕たちは講義が終わった後、毎日のようにオックスフォードの街を散歩した。
 鳥の巣頭といたときは、一緒に出かけたりしなかったのに。
 彼は物知りで、色んなことに興味があり、面白い話をたくさん聞かせてくれた。僕の方も色んな質問をした。彼、どんな質問にだって答えてくれるんだ。

「きみって、本当に賢いんだね! それなのに奨学生を降ろされるなんて――」
 本当に残念で仕方がなかったのだ。僕の憧れてやまない奨学生――。彼ほどこの地位に相応しい人はいないのに。
「仕方がないよ。留年してしまったんだもの」
 銀狐は本当にどうでもいいことのように、くすくす笑う。

 そんな彼が不思議でならない。人一倍努力して望む地位を手にいれたのに、一瞬の事故で失ってしまった。そんな辛い目に遭ったにもかかわらず、彼はこうしてここにいる。毎日の散歩を欠かさず、リハビリを続けている。自暴自棄になることもなく……。



 彼は頻繁に空を眺める。風を追いかける。すっと目を細めて。懐かしそうに――。

 その理由を、ひょんなことから知ってしまった。

 ネットで彼の名前を検索にかけたんだ。
 そこには、ジャンプスキーの大会で何度も入賞している彼の功績が載っていた。鳥のように、空を飛んでいる写真と一緒に……。

 彼はもう、二度と飛ぶことはできない。

 空を見あげる彼を見る度に、僕は堪らなく心が痛んだ。

 銀狐は僕にとって、脆くて儚い、そのくせ闇の中で煌々と輝く月光のような不思議な存在だ。


 そして、飛べなくなった銀狐は、もうひとりの飛翔する鳥、大鴉のことを否応なく思い起こさせた。
 もしも、僕の大鴉が飛べなくなってしまったら……。と、僕はそんなことまで連想して、落ちこんでしまうことさえあった。

 大鴉に逢いたい。彼ならその翼で、僕のこの鬱々とした物思いを吹き飛ばしてくれるのに。






「週末、きみの先輩にお逢いできるか訊いてくれたかな?」
 金曜日の講義が終わった後、銀狐にそう訊ねられた。
「あ、うん」
 つい、曖昧な返事を返していた。すっかり忘れていたのだ。蛇がいたからそれどころではなかった。でも、明日また会う約束はしていた。それは覚えている。彼が一緒に来てくれれば、蛇がまたいたとしても前のようにはきっとならない。
「はっきりした返事は貰っていないのだけど、きっと大丈夫だよ」
 そんな思惑で、明日彼も一緒に梟と会う約束をした。




 宿舎に戻ると、薄暗い廊下の先にある僕の部屋の前に誰かが立っている。足音に顔を上げたそいつは満面の笑みで僕を見た。

「マシュー」

 鳥の巣頭!

 驚いて、にこにこと笑っているあいつの元へ駆け寄った。無意識に抱きついていた。ポロポロと涙が溢れでていた。

「どうしたの、マシュー?」

 鳥の巣頭が、優しく背中を摩ってくれる。

「後で行くからね」

 鳥の巣頭は背後にいる銀狐に声をかけた。僕は急いで部屋の鍵を開けた。そして部屋に入るとすぐにこいつの首筋にかじりついて思うぞんぶん泣いた。

「マシュー、淋しかったの?」

 鳥の巣頭も僕を抱きしめる。

「きみがいけないんだ。僕をこんなところに置き去りにするから」
「うん」
「僕はずっと緊張し通しだったのに」
「うん。ごめんよ、マシュー」
「僕はベイクドビーンズも、ソーセージも好きじゃないのに」
「うん。知ってる」
「我儘だと思われるから、我慢して食べたんだよ」
「偉いね、マシュー」



 まだまだ文句を言いたかったのに、こいつが僕の唇を塞いだから、それ以上何も言えなくなってしまった。
 でも、百の文句を言うよりも、こいつのキスは僕を安心させてくれたから、もうどうでもいいんだ……。





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