微睡む宵闇 揺蕩う薫香

萩尾雅縁

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三章

88 浴室で2

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 軋んで歪む記憶の狭間
 立ち昇る
 白い閃光




「きみ……、頭がどうかしているんじゃないの?」
 銀狐は呆れ返った様子でそう呟いた。僕はわけが解らず小首を傾げた。
「どうして?」
「だって、きみ、そんなのおかしいだろ? 学校うちの校則、知らないわけじゃないだろ?」
「そんなもの建前じゃないか」
 僕はそれこそ可笑しくてくすくすと笑った。

「だって生徒会なんて――、そういう奴らばかりじゃないか。きみは違うって言うの? じゃあ、どうしてここにいるの? きみだって僕を見ていたじゃないか」

 ずっと、舐めるような視線で。

 僕の言葉に、銀狐はしばらくの間ぽかんと目を見開いて僕を見つめていた。そしてツカツカとバスタブの傍まで来ると、ピシャリッ、と僕の頬を打った。

「心外だな。僕はね、酷く具合の悪そうなきみが、湯船に浸かったまま気絶したりしないか心配だったから、ここに残っていたんだよ。僕がいることできみに誤解させたのなら、今すぐ出ていくよ」

 くるりと背を向けた銀狐のシャツを、僕は思わず掴んでいた。

「行かないで。今の僕は僕じゃないんだ。お願い。一人にしないで」

 ポロポロと涙が溢れでていた。

 なぜだか解らない。きっとジョイントのせいだ。ジョイントの効き目が切れたからこんなにも不安なんだ。梟とちっとも話ができなかったからだ。たくさん聴いてもらいたいことがあったのに。それに、蛇に逢ったからだ。きっとそうだ。

 記憶の底がひっくり返る。

 急に嘔吐えずいて、堪えきれずにバスタブの縁に掴まって胃の中のものをぶちまけていた。

「マシュー!」

 銀狐がぼくを抱えて背中を摩ってくれる。服が濡れて、汚れるのにも躊躇することなく――。

「全部吐いて。その方が楽になるからね」

 そう言って、何度も、何度も優しく背中を摩ってくれる。


 胃の中のものを吐ききって、やっと嘔吐が止まった。
 浴室内に吐瀉物の匂いがむせ返る。銀狐は小さな窓を開け、てきぱきとその汚物の始末を始めた。

「ごめんね」

 僕は出しっ放しのお湯を両手で掬い口内を洗い流して、小さく呟いた。

「きみって本当に迷惑な奴」

 銀狐はちらっと僕を見て、ひょいと首をすくめてにっと笑った。

 言葉とは裏腹に、決して責めているわけではないその笑顔が僕には本当に申し訳なくて、ザーザーと流れる蛇口に手をかざしたまま、彼の声なんて聞こえていない振りをした。




 ベッドの中で目を覚まして一番に目に入ったのも、開け放った窓から外を眺める銀狐の姿だった。さわさわと、風が彼の髪を撫でていた。

 浴室から部屋に戻るまでの間も、僕は彼に叱られた。
 彼は鳥の巣頭みたいに、髪を拭くのも、服を着るのも手伝ってはくれなかったし、青い顔をしてぐったりしている僕の何の手助けもしてはくれなかった。だから僕は、またこの重たい身体を引き摺るようにして部屋まで戻らなければならなかった。

 僕は彼に嫌われてしまったと思っていたから、彼がまだここに居てくれたことがとても嬉しかった。

「起きたんだ? これを飲んで。脱水症状を起こすといけないから」
 経口補水液のボトルを手に、彼はベッドの端に腰かけた。ふっと記憶が軋む。

「少しづつだよ」
 ごくごくと飲み干そうとした僕の手を、掴んで止める。

「きみって、本当に――、」
 銀狐は呆れたような顔で、ため息を吐く。僕は黙って彼を見あげる。

「まぁ、いいよ。それできみ、昨夜お酒でも飲んでいたの?」

 吐いたのは――、たぶんジョイントのせいだ。でもこの身体の不調を説明するのに飲酒はとても都合の良いものに思えた。本当は、お酒とジョイントは相性が悪くて効果が落ちるから、一緒に摂取することはないのだけれど。

 僕が項垂れたまま頷くと、また、深いため息が聞こえた。
 呆れられている……、そう思うと、またぎゅっと胃が縮まるような不快を感じた。

「先輩方に飲まされたんだ?」

 僕はまた頷いた。涙が滲んできた。僕はジョイントを貰えて嬉しかったんだ。あの時は。蛇の相手をするのだってべつに嫌じゃない。たぶん。それに他の連中にしたって――。

 なのにどうして僕は泣いているのだろう?

「彼、きみのことをとても心配している。きみは甘い蜜のような子だから、って」

 彼? 子爵さま? 僕のことを捨てたのに?

 涙が止まらなくなった僕を持てあますような、ため息が聞こえる。

 泣き止まなければ嫌われる。それなのに、止めようとしても止まらない。面を上げて銀狐の顔を見るのが怖かった。きっとまた呆れ返った顔をしているのに違いないもの。


「きみって人は……。昨夜は妖艶な月下美人だったのに、今はまるっきり小さな子どもだな。訳が解らないよ」

 銀狐は苛立たしげな声音でそう言うと、僕の顎を掴んで上向かせ、ハンカチで涙を拭いて鼻をかんでくれた。

「べつにきみを責めている訳じゃ……。いや、責めているんだけどね。僕は彼にきみのことを頼まれているんだ。きみだって生徒会役員の端くれなら、酔っ払って前後不覚なんてザマ、あっていいはずがないだろう?」

 僕は唇を噛んで俯いたまま。

「こっちを向いて。話している時は相手の目をちゃんと見るんだよ。そんなことから言わなきゃいけないの?」

 恐る恐る視線を上げると、眉をしかめた銀狐が僕を見おろしている。涙をいっぱいに溜めた僕を見て、彼はふわりと表情を緩め、くすくすと笑った。

「昨夜のことは黙っておいてあげるから、もうきみの先輩方とは手を切るんだ」

 そんなの無理だ――。

 唇をへの字に曲げた僕の頭を彼はぽんと撫でて、金の瞳で覗きこんだ。

「僕はコインランドリーに行ってくるからね。その間に良く考えておきなよ」


 キィ、パタンと軋んで閉まるドアの音に、僕はやっと緊張を解いて枕に顔を沈めた。
 そして、少しだけもちあげて、窓から見える青い空を覆いつくそうと拡がり始めている灰色の雲を、ぼんやりと眺めていた。





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