80 / 200
三章
79 フラッシュバック
しおりを挟む
届かない蒼穹に手を伸ばし
踏みしだく大地に
影を落とす
結局、僕は医療班につきそわれて医療棟まで送ってもらい、ここで休むことになった。広い部屋には他に誰もいない。看護師が「すぐに良くなるわよ」とおざなりな気休めを言うので、愛想笑いを浮かべて礼を返した。
彼女は僕のためにココアを淹れてくれた。
温かなカップを両手で包みこんで持ちあげ、こくりと飲んだ。ずいぶんと甘いココアだ。時間をかけてゆっくりと飲み干した。底にどろりとした粉が溜まっている。まるで澱のように。
天使くんの呻き声が耳の中で反響していた――。
彼が使っていたのは、このベッドだっただろうか……。
またドクドクと酷い動悸が繰り返される。頭がくらくらと揺れる。ベッドヘッドにあずけていた背中を丸めて横たわった。僕は耳を塞いで枕に半分顔を埋めたまま窓の外を眺めた。透き通る青が、僕の記憶をかき散らす。
きらきらした青空。
緑のフィールドの上の白いユニフォームの大鴉。あの時どうして、白い彼と大鴉の姿が重なったのだろう? 彼らはちっとも似ていないのに。青が、僕の記憶をかき廻す。風に似た笛の音が揺蕩い、記憶と幻覚が白昼夢のように渦巻き流れる。
青い空に飛沫が上がる。大鴉が泳いでいる。楽しそうに。笑っている。
僕も嬉しくなって笑った。動悸が少し和らぐような気がした。
僕はいつの間にか眠っていたらしい。気がつくと、横に鳥の巣頭が座っていた。紺のジャケットに赤のストライプのシャツ、赤いネクタイ。それに白のトラウザーズ。僕たちの寮のボートの儀式用ユニフォームだ。それに、花の落ちたストローハットが膝に置かれている。
「ああ、もうボートの儀式は終わってしまったんだね。ごめんね、きみの勇姿を見そこねてしまった」
鳥の巣頭を見あげて微笑むと、こいつもちょっと微笑んだ。だがすぐに真剣な顔をして、僕の冷たい頬に手を当てて顔を覗きこんできて尋ねた。
「マシュー、隠さずに教えて。ジョイントを吸ったの?」
いつもと違う、鳥の巣頭の射抜くような目が僕を見据えている。僕は頭を振った。吸ったのはもうずいぶん前だもの。僕は、ふぅ、とこいつに息を吹きかけてやった。かすかに甘いココアの香りが染みついた消毒液の臭いと交り合う。
「匂いでわかるだろ? それに僕がどうやってあれを手にいれるって言うんだい?」
これも本当。梟から貰ったジョイントは、とっくに吸いきってしまったもの。
鳥の巣頭はそれを聞いて安心するどころか、辛そうに顔をしかめた。
「フラッシュバックだ――」
僕の手を握り唇を押し当てる。
「心配しないで、マシュー。僕が傍にいるからね」
フラッシュ・バック、と言われて、僕はやっと理解した。
ジョイントの後遺症なのだ。ストレスや疲労、何かジョイントと結びつく記憶などがきっかけで引き起こされる発作。ジョイントを吸っていなくても、あれを吸ったときと同じような感覚だったり、苦しい離脱症状と良く似た症状だったりが、感覚的に突然蘇るのだ。入院して半年位の間はしょっちゅうだったけれど、退院してからはこんな酷い状態に陥ることはなかったので忘れていた。
「あまり酷いようなら、あの病院に薬をもらいに行こう。ご両親には僕の方からお伝えするからね」
「大丈夫だよ。軽い目眩だけだもの」
本当は息ができないくらい苦しい動悸も、吐き気もあったけれど、こいつには言わない。こんなことで親の手を煩わせるのも、あそこへ行くことも嫌だったから。鳥の巣頭は、親に見限られた僕のことを良く解っている。だから、こんなふうに僕が、彼らと、この話題について直接話さなくていいようにいつも間に入ってくれる。
僕はこいつの、何もかも見透かしているような憐憫の瞳が大嫌いだ。
「マシュー、薬で症状は抑えられるんだ。僕はきみのお母さまから、その可能性のことはお聞きしている。気をつけてやって欲しい、と頼まれていたんだよ。ね、だから我慢しないで」
こいつを突き飛ばしてやりたい衝動にかられながら、僕は窓の外へ視線を逸らした。
青い空に、彼を捜した。すべてを一瞬で忘れさせてくれる、大鴉の姿を。
「聞いて、マシュー。僕はきみを次年度の生徒会役員に推薦しているんだ。彼が協力してくれる。ほら、さっき逢っただろう? 現副総監。彼ね、次年度の副総監でもあるんだ」
僕は意味が解らず、首を傾げてこいつを見つめ返した。
僕を生徒会に推薦だって――? きみが?
「彼はきみと同じなんだ。半年間入院していてね、ASレベルの試験を見送って、もう一年間四学年に残ることにしたんだ。彼が新役員の票の取りまとめをしてくれる。今年度の生徒会は、ほら、色々問題があっただろ? だから役員推薦も慎重に行われたんだ。一般投票を待たなくても、もう決まったも同然なんだ」
僕はいまだによく働かない頭で、ぼんやりとこいつを見つめていた。
「きみが生徒会に入ってくれたら、もっとずっと一緒にいられるだろ? ――それに、生徒会の赤のウエストコートが、僕以上にきっときみを守ってくれるよ」
鳥の巣頭はそう言って、慈悲深い瞳で僕を見つめ、手の甲にキスを落とした。永遠の忠誠を誓う騎士のように……。
踏みしだく大地に
影を落とす
結局、僕は医療班につきそわれて医療棟まで送ってもらい、ここで休むことになった。広い部屋には他に誰もいない。看護師が「すぐに良くなるわよ」とおざなりな気休めを言うので、愛想笑いを浮かべて礼を返した。
彼女は僕のためにココアを淹れてくれた。
温かなカップを両手で包みこんで持ちあげ、こくりと飲んだ。ずいぶんと甘いココアだ。時間をかけてゆっくりと飲み干した。底にどろりとした粉が溜まっている。まるで澱のように。
天使くんの呻き声が耳の中で反響していた――。
彼が使っていたのは、このベッドだっただろうか……。
またドクドクと酷い動悸が繰り返される。頭がくらくらと揺れる。ベッドヘッドにあずけていた背中を丸めて横たわった。僕は耳を塞いで枕に半分顔を埋めたまま窓の外を眺めた。透き通る青が、僕の記憶をかき散らす。
きらきらした青空。
緑のフィールドの上の白いユニフォームの大鴉。あの時どうして、白い彼と大鴉の姿が重なったのだろう? 彼らはちっとも似ていないのに。青が、僕の記憶をかき廻す。風に似た笛の音が揺蕩い、記憶と幻覚が白昼夢のように渦巻き流れる。
青い空に飛沫が上がる。大鴉が泳いでいる。楽しそうに。笑っている。
僕も嬉しくなって笑った。動悸が少し和らぐような気がした。
僕はいつの間にか眠っていたらしい。気がつくと、横に鳥の巣頭が座っていた。紺のジャケットに赤のストライプのシャツ、赤いネクタイ。それに白のトラウザーズ。僕たちの寮のボートの儀式用ユニフォームだ。それに、花の落ちたストローハットが膝に置かれている。
「ああ、もうボートの儀式は終わってしまったんだね。ごめんね、きみの勇姿を見そこねてしまった」
鳥の巣頭を見あげて微笑むと、こいつもちょっと微笑んだ。だがすぐに真剣な顔をして、僕の冷たい頬に手を当てて顔を覗きこんできて尋ねた。
「マシュー、隠さずに教えて。ジョイントを吸ったの?」
いつもと違う、鳥の巣頭の射抜くような目が僕を見据えている。僕は頭を振った。吸ったのはもうずいぶん前だもの。僕は、ふぅ、とこいつに息を吹きかけてやった。かすかに甘いココアの香りが染みついた消毒液の臭いと交り合う。
「匂いでわかるだろ? それに僕がどうやってあれを手にいれるって言うんだい?」
これも本当。梟から貰ったジョイントは、とっくに吸いきってしまったもの。
鳥の巣頭はそれを聞いて安心するどころか、辛そうに顔をしかめた。
「フラッシュバックだ――」
僕の手を握り唇を押し当てる。
「心配しないで、マシュー。僕が傍にいるからね」
フラッシュ・バック、と言われて、僕はやっと理解した。
ジョイントの後遺症なのだ。ストレスや疲労、何かジョイントと結びつく記憶などがきっかけで引き起こされる発作。ジョイントを吸っていなくても、あれを吸ったときと同じような感覚だったり、苦しい離脱症状と良く似た症状だったりが、感覚的に突然蘇るのだ。入院して半年位の間はしょっちゅうだったけれど、退院してからはこんな酷い状態に陥ることはなかったので忘れていた。
「あまり酷いようなら、あの病院に薬をもらいに行こう。ご両親には僕の方からお伝えするからね」
「大丈夫だよ。軽い目眩だけだもの」
本当は息ができないくらい苦しい動悸も、吐き気もあったけれど、こいつには言わない。こんなことで親の手を煩わせるのも、あそこへ行くことも嫌だったから。鳥の巣頭は、親に見限られた僕のことを良く解っている。だから、こんなふうに僕が、彼らと、この話題について直接話さなくていいようにいつも間に入ってくれる。
僕はこいつの、何もかも見透かしているような憐憫の瞳が大嫌いだ。
「マシュー、薬で症状は抑えられるんだ。僕はきみのお母さまから、その可能性のことはお聞きしている。気をつけてやって欲しい、と頼まれていたんだよ。ね、だから我慢しないで」
こいつを突き飛ばしてやりたい衝動にかられながら、僕は窓の外へ視線を逸らした。
青い空に、彼を捜した。すべてを一瞬で忘れさせてくれる、大鴉の姿を。
「聞いて、マシュー。僕はきみを次年度の生徒会役員に推薦しているんだ。彼が協力してくれる。ほら、さっき逢っただろう? 現副総監。彼ね、次年度の副総監でもあるんだ」
僕は意味が解らず、首を傾げてこいつを見つめ返した。
僕を生徒会に推薦だって――? きみが?
「彼はきみと同じなんだ。半年間入院していてね、ASレベルの試験を見送って、もう一年間四学年に残ることにしたんだ。彼が新役員の票の取りまとめをしてくれる。今年度の生徒会は、ほら、色々問題があっただろ? だから役員推薦も慎重に行われたんだ。一般投票を待たなくても、もう決まったも同然なんだ」
僕はいまだによく働かない頭で、ぼんやりとこいつを見つめていた。
「きみが生徒会に入ってくれたら、もっとずっと一緒にいられるだろ? ――それに、生徒会の赤のウエストコートが、僕以上にきっときみを守ってくれるよ」
鳥の巣頭はそう言って、慈悲深い瞳で僕を見つめ、手の甲にキスを落とした。永遠の忠誠を誓う騎士のように……。
0
お気に入りに追加
27
あなたにおすすめの小説



ヤンデレだらけの短編集
八
BL
ヤンデレだらけの1話(+おまけ)読切短編集です。
全8話。1日1話更新(20時)。
□ホオズキ:寡黙執着年上とノンケ平凡
□ゲッケイジュ:真面目サイコパスとただ可哀想な同級生
□アジサイ:不良の頭と臆病泣き虫
□ラベンダー:希死念慮不良とおバカ
□デルフィニウム:執着傲慢幼馴染と地味ぼっち
ムーンライトノベル様に別名義で投稿しています。
かなり昔に書いたもので芸風(?)が違うのですが、楽しんでいただければ嬉しいです!

【完結】ぎゅって抱っこして
かずえ
BL
幼児教育学科の短大に通う村瀬一太。訳あって普通の高校に通えなかったため、働いて貯めたお金で二年間だけでもと大学に入学してみたが、学費と生活費を稼ぎつつ学校に通うのは、考えていたよりも厳しい……。
でも、頼れる者は誰もいない。
自分で頑張らなきゃ。
本気なら何でもできるはず。
でも、ある日、金持ちの坊っちゃんと心の中で呼んでいた松島晃に苦手なピアノの課題で助けてもらってから、どうにも自分の心がコントロールできなくなって……。

鬼上司と秘密の同居
なの
BL
恋人に裏切られ弱っていた会社員の小沢 海斗(おざわ かいと)25歳
幼馴染の悠人に助けられ馴染みのBARへ…
そのまま酔い潰れて目が覚めたら鬼上司と呼ばれている浅井 透(あさい とおる)32歳の部屋にいた…
いったい?…どうして?…こうなった?
「お前は俺のそばに居ろ。黙って愛されてればいい」
スパダリ、イケメン鬼上司×裏切られた傷心海斗は幸せを掴むことができるのか…
性描写には※を付けております。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる