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三章
79 フラッシュバック
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届かない蒼穹に手を伸ばし
踏みしだく大地に
影を落とす
結局、僕は医療班につきそわれて医療棟まで送ってもらい、ここで休むことになった。広い部屋には他に誰もいない。看護師が「すぐに良くなるわよ」とおざなりな気休めを言うので、愛想笑いを浮かべて礼を返した。
彼女は僕のためにココアを淹れてくれた。
温かなカップを両手で包みこんで持ちあげ、こくりと飲んだ。ずいぶんと甘いココアだ。時間をかけてゆっくりと飲み干した。底にどろりとした粉が溜まっている。まるで澱のように。
天使くんの呻き声が耳の中で反響していた――。
彼が使っていたのは、このベッドだっただろうか……。
またドクドクと酷い動悸が繰り返される。頭がくらくらと揺れる。ベッドヘッドにあずけていた背中を丸めて横たわった。僕は耳を塞いで枕に半分顔を埋めたまま窓の外を眺めた。透き通る青が、僕の記憶をかき散らす。
きらきらした青空。
緑のフィールドの上の白いユニフォームの大鴉。あの時どうして、白い彼と大鴉の姿が重なったのだろう? 彼らはちっとも似ていないのに。青が、僕の記憶をかき廻す。風に似た笛の音が揺蕩い、記憶と幻覚が白昼夢のように渦巻き流れる。
青い空に飛沫が上がる。大鴉が泳いでいる。楽しそうに。笑っている。
僕も嬉しくなって笑った。動悸が少し和らぐような気がした。
僕はいつの間にか眠っていたらしい。気がつくと、横に鳥の巣頭が座っていた。紺のジャケットに赤のストライプのシャツ、赤いネクタイ。それに白のトラウザーズ。僕たちの寮のボートの儀式用ユニフォームだ。それに、花の落ちたストローハットが膝に置かれている。
「ああ、もうボートの儀式は終わってしまったんだね。ごめんね、きみの勇姿を見そこねてしまった」
鳥の巣頭を見あげて微笑むと、こいつもちょっと微笑んだ。だがすぐに真剣な顔をして、僕の冷たい頬に手を当てて顔を覗きこんできて尋ねた。
「マシュー、隠さずに教えて。ジョイントを吸ったの?」
いつもと違う、鳥の巣頭の射抜くような目が僕を見据えている。僕は頭を振った。吸ったのはもうずいぶん前だもの。僕は、ふぅ、とこいつに息を吹きかけてやった。かすかに甘いココアの香りが染みついた消毒液の臭いと交り合う。
「匂いでわかるだろ? それに僕がどうやってあれを手にいれるって言うんだい?」
これも本当。梟から貰ったジョイントは、とっくに吸いきってしまったもの。
鳥の巣頭はそれを聞いて安心するどころか、辛そうに顔をしかめた。
「フラッシュバックだ――」
僕の手を握り唇を押し当てる。
「心配しないで、マシュー。僕が傍にいるからね」
フラッシュ・バック、と言われて、僕はやっと理解した。
ジョイントの後遺症なのだ。ストレスや疲労、何かジョイントと結びつく記憶などがきっかけで引き起こされる発作。ジョイントを吸っていなくても、あれを吸ったときと同じような感覚だったり、苦しい離脱症状と良く似た症状だったりが、感覚的に突然蘇るのだ。入院して半年位の間はしょっちゅうだったけれど、退院してからはこんな酷い状態に陥ることはなかったので忘れていた。
「あまり酷いようなら、あの病院に薬をもらいに行こう。ご両親には僕の方からお伝えするからね」
「大丈夫だよ。軽い目眩だけだもの」
本当は息ができないくらい苦しい動悸も、吐き気もあったけれど、こいつには言わない。こんなことで親の手を煩わせるのも、あそこへ行くことも嫌だったから。鳥の巣頭は、親に見限られた僕のことを良く解っている。だから、こんなふうに僕が、彼らと、この話題について直接話さなくていいようにいつも間に入ってくれる。
僕はこいつの、何もかも見透かしているような憐憫の瞳が大嫌いだ。
「マシュー、薬で症状は抑えられるんだ。僕はきみのお母さまから、その可能性のことはお聞きしている。気をつけてやって欲しい、と頼まれていたんだよ。ね、だから我慢しないで」
こいつを突き飛ばしてやりたい衝動にかられながら、僕は窓の外へ視線を逸らした。
青い空に、彼を捜した。すべてを一瞬で忘れさせてくれる、大鴉の姿を。
「聞いて、マシュー。僕はきみを次年度の生徒会役員に推薦しているんだ。彼が協力してくれる。ほら、さっき逢っただろう? 現副総監。彼ね、次年度の副総監でもあるんだ」
僕は意味が解らず、首を傾げてこいつを見つめ返した。
僕を生徒会に推薦だって――? きみが?
「彼はきみと同じなんだ。半年間入院していてね、ASレベルの試験を見送って、もう一年間四学年に残ることにしたんだ。彼が新役員の票の取りまとめをしてくれる。今年度の生徒会は、ほら、色々問題があっただろ? だから役員推薦も慎重に行われたんだ。一般投票を待たなくても、もう決まったも同然なんだ」
僕はいまだによく働かない頭で、ぼんやりとこいつを見つめていた。
「きみが生徒会に入ってくれたら、もっとずっと一緒にいられるだろ? ――それに、生徒会の赤のウエストコートが、僕以上にきっときみを守ってくれるよ」
鳥の巣頭はそう言って、慈悲深い瞳で僕を見つめ、手の甲にキスを落とした。永遠の忠誠を誓う騎士のように……。
踏みしだく大地に
影を落とす
結局、僕は医療班につきそわれて医療棟まで送ってもらい、ここで休むことになった。広い部屋には他に誰もいない。看護師が「すぐに良くなるわよ」とおざなりな気休めを言うので、愛想笑いを浮かべて礼を返した。
彼女は僕のためにココアを淹れてくれた。
温かなカップを両手で包みこんで持ちあげ、こくりと飲んだ。ずいぶんと甘いココアだ。時間をかけてゆっくりと飲み干した。底にどろりとした粉が溜まっている。まるで澱のように。
天使くんの呻き声が耳の中で反響していた――。
彼が使っていたのは、このベッドだっただろうか……。
またドクドクと酷い動悸が繰り返される。頭がくらくらと揺れる。ベッドヘッドにあずけていた背中を丸めて横たわった。僕は耳を塞いで枕に半分顔を埋めたまま窓の外を眺めた。透き通る青が、僕の記憶をかき散らす。
きらきらした青空。
緑のフィールドの上の白いユニフォームの大鴉。あの時どうして、白い彼と大鴉の姿が重なったのだろう? 彼らはちっとも似ていないのに。青が、僕の記憶をかき廻す。風に似た笛の音が揺蕩い、記憶と幻覚が白昼夢のように渦巻き流れる。
青い空に飛沫が上がる。大鴉が泳いでいる。楽しそうに。笑っている。
僕も嬉しくなって笑った。動悸が少し和らぐような気がした。
僕はいつの間にか眠っていたらしい。気がつくと、横に鳥の巣頭が座っていた。紺のジャケットに赤のストライプのシャツ、赤いネクタイ。それに白のトラウザーズ。僕たちの寮のボートの儀式用ユニフォームだ。それに、花の落ちたストローハットが膝に置かれている。
「ああ、もうボートの儀式は終わってしまったんだね。ごめんね、きみの勇姿を見そこねてしまった」
鳥の巣頭を見あげて微笑むと、こいつもちょっと微笑んだ。だがすぐに真剣な顔をして、僕の冷たい頬に手を当てて顔を覗きこんできて尋ねた。
「マシュー、隠さずに教えて。ジョイントを吸ったの?」
いつもと違う、鳥の巣頭の射抜くような目が僕を見据えている。僕は頭を振った。吸ったのはもうずいぶん前だもの。僕は、ふぅ、とこいつに息を吹きかけてやった。かすかに甘いココアの香りが染みついた消毒液の臭いと交り合う。
「匂いでわかるだろ? それに僕がどうやってあれを手にいれるって言うんだい?」
これも本当。梟から貰ったジョイントは、とっくに吸いきってしまったもの。
鳥の巣頭はそれを聞いて安心するどころか、辛そうに顔をしかめた。
「フラッシュバックだ――」
僕の手を握り唇を押し当てる。
「心配しないで、マシュー。僕が傍にいるからね」
フラッシュ・バック、と言われて、僕はやっと理解した。
ジョイントの後遺症なのだ。ストレスや疲労、何かジョイントと結びつく記憶などがきっかけで引き起こされる発作。ジョイントを吸っていなくても、あれを吸ったときと同じような感覚だったり、苦しい離脱症状と良く似た症状だったりが、感覚的に突然蘇るのだ。入院して半年位の間はしょっちゅうだったけれど、退院してからはこんな酷い状態に陥ることはなかったので忘れていた。
「あまり酷いようなら、あの病院に薬をもらいに行こう。ご両親には僕の方からお伝えするからね」
「大丈夫だよ。軽い目眩だけだもの」
本当は息ができないくらい苦しい動悸も、吐き気もあったけれど、こいつには言わない。こんなことで親の手を煩わせるのも、あそこへ行くことも嫌だったから。鳥の巣頭は、親に見限られた僕のことを良く解っている。だから、こんなふうに僕が、彼らと、この話題について直接話さなくていいようにいつも間に入ってくれる。
僕はこいつの、何もかも見透かしているような憐憫の瞳が大嫌いだ。
「マシュー、薬で症状は抑えられるんだ。僕はきみのお母さまから、その可能性のことはお聞きしている。気をつけてやって欲しい、と頼まれていたんだよ。ね、だから我慢しないで」
こいつを突き飛ばしてやりたい衝動にかられながら、僕は窓の外へ視線を逸らした。
青い空に、彼を捜した。すべてを一瞬で忘れさせてくれる、大鴉の姿を。
「聞いて、マシュー。僕はきみを次年度の生徒会役員に推薦しているんだ。彼が協力してくれる。ほら、さっき逢っただろう? 現副総監。彼ね、次年度の副総監でもあるんだ」
僕は意味が解らず、首を傾げてこいつを見つめ返した。
僕を生徒会に推薦だって――? きみが?
「彼はきみと同じなんだ。半年間入院していてね、ASレベルの試験を見送って、もう一年間四学年に残ることにしたんだ。彼が新役員の票の取りまとめをしてくれる。今年度の生徒会は、ほら、色々問題があっただろ? だから役員推薦も慎重に行われたんだ。一般投票を待たなくても、もう決まったも同然なんだ」
僕はいまだによく働かない頭で、ぼんやりとこいつを見つめていた。
「きみが生徒会に入ってくれたら、もっとずっと一緒にいられるだろ? ――それに、生徒会の赤のウエストコートが、僕以上にきっときみを守ってくれるよ」
鳥の巣頭はそう言って、慈悲深い瞳で僕を見つめ、手の甲にキスを落とした。永遠の忠誠を誓う騎士のように……。
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