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三章
77 妙なる調べ
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煌々たる月
妙なる調べ
僕を誘う
閑寂の内
また、眠れなくなった。
振りあげられた手が、掴まれた手首の感触が、白い影を呼び覚ます。
眠れないからといって、一年間の集大成である創立祭を目前にして忙しく立ち働いている鳥の巣頭にそうそう頼る訳にもいかなかった。
あの日の翌日は、さすがに授業には出なかった。泣き腫らしたみっともない顔を人前に晒すのが嫌だったから。鳥の巣頭は「大丈夫、心配しないで」と言うばかりだ。僕のために、何もしやしないくせに……。口先だけの鳥の巣頭、大嫌いだ。
僕はまた一人ぼっちになった。あの嫌な奴も、その友人ももう僕には知らんぷりだ。別にそんなのかまわないよ。僕の方から願いさげさ。あいつらなんか、本当、どうだっていいんだ。僕はただ、大鴉の話が聞きたかっただけだもの。だから、一人っきりで歩いてたって気にしない。大鴉だって、たいてい一人で歩いていた。……最近は、そうでもないけれど。でも、一人でカフェテリアに行くのは嫌だったから、お昼は食べなくなった。
そうなるとお昼時間が暇になる。寮に戻るのは嫌だったし……。必然的に、嫌な奴らに遇うことのないフェローズの森に足が向いていた。
新緑に輝くこの森はもう充分に生い茂って涼しい影を落としてくれる。また大鴉が池で泳いでいればいいのにな、と期待するだけで気分が高揚する。
高くそびえる欅の樹を見あげる、少し離れた場所に腰を下ろした。ふわりと香る草いきれを胸いっぱいに吸い込んだ。小鳥の囀り。葉擦れの音――。この数日間ほとんど眠れていなかった僕は、いつしか陽気に誘われてうたた寝してしまっていた。
かすかに耳を掠めた話し声で目が覚めた。
「ほら、だから昼間来たって無駄だって」
「でも、夜抜けだしてくるのは難しいよ」
「だからさ、創立祭の準備で居残ってね、こっそり抜けでればいいじゃないか」
何の話をしているのだろう?
「セイレーンの歌声を聞いた奴も、居残りから帰りがけの遅い時間だったって言っていたもの」
セイレーン? こいつら、真昼間から夢でも見ているのか?
僕は吹き出しそうになった。が――。草を踏みしめるあの足音に、それに、確かに漂っているジョイントの甘い香りに、急にくらりと目眩を覚えていた。一瞬の内に、身体がすくんで冷や汗がだらだら流れていた。吐きそうだ。でも、ここで吐いたらあいつらに気づかれる。
必死で口を押さえ、身体を屈めて見つからないようにと、ただ、祈っていた。
声と、足音が遠ざかって行く。ふぅっと緊張がほぐれた。肩の力を抜いて、何度も浅い呼吸を繰り返した。恐る恐る顔を上げ、声のしていた方を覗き見た。
「ちぇっ!」
腹立たしそうに舌打ちする音が聞こえたかと思うと、黒い影がふわりと舞った。
大鴉だ!
黒いローブを翻し、彼が立ち去った後も、僕の心臓はばくばくと脈打っていた。
樹の幹にもたれて落ち着いてから、ゆっくりと立ちあがった。頭がくらくらしていた。きっと、お昼を抜いたからだ。きっとそうだ。鳥の巣頭に言って、何か買ってきてもらおう。ビスケットか、何か――。
さっきの連中のことは意識して頭から追い払った。なぜあんなふうに怖いと感じてしまったのか、自分でも解らなかったもの。ジョイントの匂いを怖いなんて……。ときどき思いだすと吸いたくなるけれど、僕はもう、あれなしでやっていけている。怖いはずがない。あまり眠れていないから、神経が苛立っているんだ。きっとそうに違いない。
それよりも、大鴉に逢えたことが嬉しかった。やはり彼はこの森に戻っていたんだ。お気に入りの樹に腰かけて今日も一人。
彼は飛び立つときが一番綺麗。
彼の羽ばたきを見れたこの日は、一日僕の機嫌も良かった。
それなのに……。
また、白い手が僕の足を引っ張る。僕の腕を押さえつける。僕の口を塞ぐ。息が出来なくて目が覚める。
堪らなくなって、パジャマの上にガウンを羽織り、僕はふらふらと寮を出ていた。フェローズの森に行けば、大鴉に逢えるような気がした。
月の明るい晩だった。
初めて大鴉に遇ったときのような闇夜じゃない。梢の間から月光が漏れている。樹々の狭間から、かすかに不思議な音が流れてくる。――セイレーン? まさか!
夢現でここまで来ていた僕の目が一気に覚める。その妙音に絡め取られるように、足を速めた。
ああ、やはり……。
あの欅の樹の根元に大鴉が座り、笛を吹いていた。ファイフに似た横笛だ。でも、彼の奏でているのは今まで聞いたことのない旋律だった。樹々の切れ間からさす月光が、荘厳な輝きで彼を包んでいる。
彼はこの森に、月光に、彼を取り巻く空気に愛されているのだ、とそう思わずにはいられない。
彼に気づかれないように、遠目に見える位置まで離れて、僕もしゃがみこんだ。目を瞑って彼の音に耳を澄ませた。あのコンサートのフルートとは比べ物にならない澄んだ音色が僕の中に溶けていく。
と、いきなり激しい光が僕の顔を照らした。恐怖で身体が凍りつく。眩しさに目を眇め、二人組の照らす懐中電灯の灯から顔を背けた。身体が僕の意思とは無関係にガタガタと震えている。
「月の女神セレネーを夢中にさせた、エンディミオンもかくやという美貌だな」
身を屈め、僕をまじまじと見つめて一方が呟いた。僕は眩しくてまともに見返せないというのに!
「うちのフェイラーと張り合えるね」
もう一方が笑いを含んだ声で相槌を打つ。
「マシュー!」
鳥の巣頭? どうしてこいつがここにいるんだ?
「すみません、うちの寮の子です。ごめんよ、モーガン、僕を呼びにきてくれたんだね。寮で問題があったんだって? もう少しだけ待ってもらえるかな」
無遠慮な懐中電灯の灯から解放し、手を差し伸べて助け起こした鳥の巣頭の、そのあまりに他人行儀な言い方に、僕は唖然とこいつを見つめた。
「ああ、そういうことならもう抜けてくれていいよ。後は僕たちで片づけるから」
「ありがとうございます、総監。お言葉に甘えて失礼します」
「さぁ、」と鳥の巣頭が僕の肩を叩く。
「またね、モーガン」
生徒総監の横の男が、笑って手を振っている。僕は軽く頭を傾げて会釈を返した。
「それで、どうしたの、マシュー?」
ひと気がきれたとたんに、鳥の巣頭が心配そうに僕の顔を覗きこむ。こっちが訊きたいね。
「眠れなくて……」
「ああ、マシュー、可哀想に――」
暗闇に紛れて僕の手を握る。
「それより、何なの、さっきの連中は?」
「また、あのカラスの子の引き起こした騒動だよ!」
鳥の巣頭は大げさにため息をついてから、話してくれた。
あの大鴉の笛の音――。
あの不思議な音色を確かめようと、このところ夜中に寮を抜けだす輩が続出しているのだという。創立祭を前にして、問題が大きくならないようにと、生徒会と監督生とが協力してこの森周辺の見回りを強化しているのだ、とそんな内容だ。
「さっきの二人が、生徒総監と、副総監だよ」
ああ、僕を天使くんと比べた嫌な奴……。
「また今度、ちゃんと紹介するからね」
鳥の巣頭は含みを持たせた言い方をして、僕の手を強く握り顔を寄せて囁いた。
「マシュー、眠れないなら、今夜は傍にいようか?」
そんな持って回った言い方をしなくたっていいのに。
僕はもう大丈夫だ、と感じていた。あの笛の音が、僕を捕まえていた白い手を追い払ってくれたに違いない、と。でも何だか幸せな気分だったから、鳥の巣頭の手を放し、そのままその腕に僕の腕を絡めて囁いた。
「うん。お願い」
青白い月が、煌々と夜道を照らしていた。
妙なる調べ
僕を誘う
閑寂の内
また、眠れなくなった。
振りあげられた手が、掴まれた手首の感触が、白い影を呼び覚ます。
眠れないからといって、一年間の集大成である創立祭を目前にして忙しく立ち働いている鳥の巣頭にそうそう頼る訳にもいかなかった。
あの日の翌日は、さすがに授業には出なかった。泣き腫らしたみっともない顔を人前に晒すのが嫌だったから。鳥の巣頭は「大丈夫、心配しないで」と言うばかりだ。僕のために、何もしやしないくせに……。口先だけの鳥の巣頭、大嫌いだ。
僕はまた一人ぼっちになった。あの嫌な奴も、その友人ももう僕には知らんぷりだ。別にそんなのかまわないよ。僕の方から願いさげさ。あいつらなんか、本当、どうだっていいんだ。僕はただ、大鴉の話が聞きたかっただけだもの。だから、一人っきりで歩いてたって気にしない。大鴉だって、たいてい一人で歩いていた。……最近は、そうでもないけれど。でも、一人でカフェテリアに行くのは嫌だったから、お昼は食べなくなった。
そうなるとお昼時間が暇になる。寮に戻るのは嫌だったし……。必然的に、嫌な奴らに遇うことのないフェローズの森に足が向いていた。
新緑に輝くこの森はもう充分に生い茂って涼しい影を落としてくれる。また大鴉が池で泳いでいればいいのにな、と期待するだけで気分が高揚する。
高くそびえる欅の樹を見あげる、少し離れた場所に腰を下ろした。ふわりと香る草いきれを胸いっぱいに吸い込んだ。小鳥の囀り。葉擦れの音――。この数日間ほとんど眠れていなかった僕は、いつしか陽気に誘われてうたた寝してしまっていた。
かすかに耳を掠めた話し声で目が覚めた。
「ほら、だから昼間来たって無駄だって」
「でも、夜抜けだしてくるのは難しいよ」
「だからさ、創立祭の準備で居残ってね、こっそり抜けでればいいじゃないか」
何の話をしているのだろう?
「セイレーンの歌声を聞いた奴も、居残りから帰りがけの遅い時間だったって言っていたもの」
セイレーン? こいつら、真昼間から夢でも見ているのか?
僕は吹き出しそうになった。が――。草を踏みしめるあの足音に、それに、確かに漂っているジョイントの甘い香りに、急にくらりと目眩を覚えていた。一瞬の内に、身体がすくんで冷や汗がだらだら流れていた。吐きそうだ。でも、ここで吐いたらあいつらに気づかれる。
必死で口を押さえ、身体を屈めて見つからないようにと、ただ、祈っていた。
声と、足音が遠ざかって行く。ふぅっと緊張がほぐれた。肩の力を抜いて、何度も浅い呼吸を繰り返した。恐る恐る顔を上げ、声のしていた方を覗き見た。
「ちぇっ!」
腹立たしそうに舌打ちする音が聞こえたかと思うと、黒い影がふわりと舞った。
大鴉だ!
黒いローブを翻し、彼が立ち去った後も、僕の心臓はばくばくと脈打っていた。
樹の幹にもたれて落ち着いてから、ゆっくりと立ちあがった。頭がくらくらしていた。きっと、お昼を抜いたからだ。きっとそうだ。鳥の巣頭に言って、何か買ってきてもらおう。ビスケットか、何か――。
さっきの連中のことは意識して頭から追い払った。なぜあんなふうに怖いと感じてしまったのか、自分でも解らなかったもの。ジョイントの匂いを怖いなんて……。ときどき思いだすと吸いたくなるけれど、僕はもう、あれなしでやっていけている。怖いはずがない。あまり眠れていないから、神経が苛立っているんだ。きっとそうに違いない。
それよりも、大鴉に逢えたことが嬉しかった。やはり彼はこの森に戻っていたんだ。お気に入りの樹に腰かけて今日も一人。
彼は飛び立つときが一番綺麗。
彼の羽ばたきを見れたこの日は、一日僕の機嫌も良かった。
それなのに……。
また、白い手が僕の足を引っ張る。僕の腕を押さえつける。僕の口を塞ぐ。息が出来なくて目が覚める。
堪らなくなって、パジャマの上にガウンを羽織り、僕はふらふらと寮を出ていた。フェローズの森に行けば、大鴉に逢えるような気がした。
月の明るい晩だった。
初めて大鴉に遇ったときのような闇夜じゃない。梢の間から月光が漏れている。樹々の狭間から、かすかに不思議な音が流れてくる。――セイレーン? まさか!
夢現でここまで来ていた僕の目が一気に覚める。その妙音に絡め取られるように、足を速めた。
ああ、やはり……。
あの欅の樹の根元に大鴉が座り、笛を吹いていた。ファイフに似た横笛だ。でも、彼の奏でているのは今まで聞いたことのない旋律だった。樹々の切れ間からさす月光が、荘厳な輝きで彼を包んでいる。
彼はこの森に、月光に、彼を取り巻く空気に愛されているのだ、とそう思わずにはいられない。
彼に気づかれないように、遠目に見える位置まで離れて、僕もしゃがみこんだ。目を瞑って彼の音に耳を澄ませた。あのコンサートのフルートとは比べ物にならない澄んだ音色が僕の中に溶けていく。
と、いきなり激しい光が僕の顔を照らした。恐怖で身体が凍りつく。眩しさに目を眇め、二人組の照らす懐中電灯の灯から顔を背けた。身体が僕の意思とは無関係にガタガタと震えている。
「月の女神セレネーを夢中にさせた、エンディミオンもかくやという美貌だな」
身を屈め、僕をまじまじと見つめて一方が呟いた。僕は眩しくてまともに見返せないというのに!
「うちのフェイラーと張り合えるね」
もう一方が笑いを含んだ声で相槌を打つ。
「マシュー!」
鳥の巣頭? どうしてこいつがここにいるんだ?
「すみません、うちの寮の子です。ごめんよ、モーガン、僕を呼びにきてくれたんだね。寮で問題があったんだって? もう少しだけ待ってもらえるかな」
無遠慮な懐中電灯の灯から解放し、手を差し伸べて助け起こした鳥の巣頭の、そのあまりに他人行儀な言い方に、僕は唖然とこいつを見つめた。
「ああ、そういうことならもう抜けてくれていいよ。後は僕たちで片づけるから」
「ありがとうございます、総監。お言葉に甘えて失礼します」
「さぁ、」と鳥の巣頭が僕の肩を叩く。
「またね、モーガン」
生徒総監の横の男が、笑って手を振っている。僕は軽く頭を傾げて会釈を返した。
「それで、どうしたの、マシュー?」
ひと気がきれたとたんに、鳥の巣頭が心配そうに僕の顔を覗きこむ。こっちが訊きたいね。
「眠れなくて……」
「ああ、マシュー、可哀想に――」
暗闇に紛れて僕の手を握る。
「それより、何なの、さっきの連中は?」
「また、あのカラスの子の引き起こした騒動だよ!」
鳥の巣頭は大げさにため息をついてから、話してくれた。
あの大鴉の笛の音――。
あの不思議な音色を確かめようと、このところ夜中に寮を抜けだす輩が続出しているのだという。創立祭を前にして、問題が大きくならないようにと、生徒会と監督生とが協力してこの森周辺の見回りを強化しているのだ、とそんな内容だ。
「さっきの二人が、生徒総監と、副総監だよ」
ああ、僕を天使くんと比べた嫌な奴……。
「また今度、ちゃんと紹介するからね」
鳥の巣頭は含みを持たせた言い方をして、僕の手を強く握り顔を寄せて囁いた。
「マシュー、眠れないなら、今夜は傍にいようか?」
そんな持って回った言い方をしなくたっていいのに。
僕はもう大丈夫だ、と感じていた。あの笛の音が、僕を捕まえていた白い手を追い払ってくれたに違いない、と。でも何だか幸せな気分だったから、鳥の巣頭の手を放し、そのままその腕に僕の腕を絡めて囁いた。
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