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三章
75 五月 プールサイド
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空の青とも海ともつかぬ
青の中を
飛翔するきみ
寮に戻って自室に籠ると、僕は梟に貰ったジョイントを取りだした。たった1ダースしかない貴重なジョイントだ。新しい顧客を開拓するための――。
窓を開けて火を点けようとして、やっぱりやめた。鳥の巣頭が来るかもしれないもの。シガレットケースから取りだした一本をポケットに入れようとして、また、はたと思いとどまった。臭いがつく。引き出しから栄養剤の入っている密閉ボトルを取りだしてビニール袋に移しかえ、その中にジョイントを一本、迷ったあげく二本だけ入れて部屋を出た。
ひさしぶりに、あの地下室に降りた。
ペンライトで足元を照らしながら室内に入るなり、ジョイントの甘い香りがふわりと香る。ローテーブルの燭台に火を点けた。最後に来たときは子爵さまが一緒だった。ジョイントの残り香と交じり合う蝋の香りが、子爵さまの優しい笑顔を思い起こさせる。
ソファーには座らずに、向かいの壁際に毛布を敷いてその上に座った。コンクリートの壁や床からしんとした冷気が伝わってくる。もう一枚毛布を持ってきて包まってから、ジョイントを取りだし火を点ける。
白い煙が僕の脳いっぱいに膨れあがる。くらりと地面が揺れる。赤いソファーの上で子爵さまが僕を呼ぶ。
――おいで、マシュー。
寝転がって、ガサガサした硬い毛布を握りしめた。
来るんじゃなかった。
ソファーから目を逸らし、子爵さまを追い払った。
俯せて、暗い床に視線を据えて、ゆっくりと白い煙を吸い込んだ。吐きだした煙が翼のように羽ばたき揺蕩う。暗闇の中を。大鴉の翼のように。
僕から子爵さまを奪った大鴉。僕を子爵さまから開放してくれた大鴉。とろりとした琥珀のような鳶色の瞳の――。
ごろりと仰向けに寝返って、揺蕩う白い煙を目で追った。薄闇に溶けていく白煙の羽ばたき。僕を蕩かす甘い香り。
白い煙はいつだって僕を優しく包んでくれる。
一人ぼっちでジョイントを吸っていたって、僕はちっとも淋しくない。きみがその翼で僕を包んでくれるもの。ねぇ、大鴉……。
冷たい床に転がって身悶えしながら、僕はきみの夢を見る。
試験期間に入り校内の空気がぴりぴりしている。
大鴉は相変わらずだ。黒いローブをなびかせて、つんと澄ました顔で歩いている。でも、同じ一学年生と一緒にいるところを見かけることが多くなった。右腕のギプスが外れて、体育や、課外授業に参加できるようになったからだ。
大鴉は水泳部なのだそうだ。何よりも泳ぐことが好きで、姿が見えないときはまずはプールを探せ、と言われるほど毎日泳いでいるらしい。腕を怪我していた間は、もちろんプールは禁止。
だからあんな池なんかで泳いでいたのか、と駄々っ子のような彼らしさに納得して、僕はまた笑ってしまったよ。
試験期間だというのに、彼はやはり毎放課後プールにいた。
本当はそんな暇はないのだけれど、僕は時々、彼が泳ぐのを見にいった。AレベルやGCSEを受けない学年には関係ないから、部活動は普段通りに行われている。勉強の合間にリフレッシュしに来る奴らもいるしね。大鴉みたいなのは、そうはいないとは思うけれど……。
大鴉はまるで空にいるように泳ぐ。空気を翼で切るように水を掻き、風に乗るように白い飛沫に紛れて飛ぶ。
あの長い綺麗な腕は、やはり翼だったんだ。
僕は彼に見とれていた。その肢体に。その優雅な動きに。水の中にいるときだけに見せる、無邪気な笑顔に。
水泳部の仲間とじゃれあっている彼は、黒いローブのお高くとまった奨学生なんかではなくて、年相応の少年にしか見えなかった。
あの生徒会の連中とポーカーをしていたときみたいな、皮肉な笑みなんか浮かべたりしない。相変わらずの、インド訛りの早口だけれど。あの連中と会話していたときの綺麗なエリオット発音よりも、ずっと溌剌として彼らしい。
彼を見ていると、僕まで気持ちが高揚する。何ものにも囚われない大鴉。その自由奔放な大らかさに、誰もが半ば当然のように惹かれてやまない。
そう、僕だけではなかった。プールサイドの見学者シートはいつも一杯。だから僕はいつも人垣の隙間から覗き見するように、大鴉を眺めていた。
周りの連中の誰もが彼の噂話をしている。悪口を言っている奴もけっこういる……。
良くも悪くも彼はみんなの注目の的。それだけは確かだ。
「マシュー」
顔が引きつれる。吐息を呑み込み、ひと呼吸置いて、振り返った。
鳥の巣頭が腰に手を当て、呆れた顔で僕を見ている。
「こんなところで何油を売っているんだい?」
周りの奴らがくすくすと嗤っている。
無神経な鳥の巣頭。
「ほら、行くよ」
まるで小さな子どもを扱うように、こいつは僕の腕をぐいと引っ張った。濡れたプールサイドで、僕は無様につんのめって倒れた。
「マシュー、ごめん! 大丈夫かい?」
差しだされたこいつの手を打ち払って立ちあがる。スラックスがぐっしょりと濡れた。また、さざ波のようなくすくす笑いが僕の背後からまといつく。恥ずかしさに耳まで真っ赤になりながら、僕は早足でその場を去った。無神経な鳥の巣頭が大声で僕の名を呼ぶ。笑い声や揶揄う声が一段と増す。
でも、僕は感謝したよ。あの無慈悲で下品な奴らの作る壁のおかげで、僕のみっともない姿を大鴉に見られなくてすんだのだもの。
とはいえ、これで当分ここへは来られなくなった。僕はそこまで厚顔じゃないからね。
また、こいつのせいで……。
鳥の巣頭、きみは、どこまで僕の楽しみを奪えば気がすむんだ?
青の中を
飛翔するきみ
寮に戻って自室に籠ると、僕は梟に貰ったジョイントを取りだした。たった1ダースしかない貴重なジョイントだ。新しい顧客を開拓するための――。
窓を開けて火を点けようとして、やっぱりやめた。鳥の巣頭が来るかもしれないもの。シガレットケースから取りだした一本をポケットに入れようとして、また、はたと思いとどまった。臭いがつく。引き出しから栄養剤の入っている密閉ボトルを取りだしてビニール袋に移しかえ、その中にジョイントを一本、迷ったあげく二本だけ入れて部屋を出た。
ひさしぶりに、あの地下室に降りた。
ペンライトで足元を照らしながら室内に入るなり、ジョイントの甘い香りがふわりと香る。ローテーブルの燭台に火を点けた。最後に来たときは子爵さまが一緒だった。ジョイントの残り香と交じり合う蝋の香りが、子爵さまの優しい笑顔を思い起こさせる。
ソファーには座らずに、向かいの壁際に毛布を敷いてその上に座った。コンクリートの壁や床からしんとした冷気が伝わってくる。もう一枚毛布を持ってきて包まってから、ジョイントを取りだし火を点ける。
白い煙が僕の脳いっぱいに膨れあがる。くらりと地面が揺れる。赤いソファーの上で子爵さまが僕を呼ぶ。
――おいで、マシュー。
寝転がって、ガサガサした硬い毛布を握りしめた。
来るんじゃなかった。
ソファーから目を逸らし、子爵さまを追い払った。
俯せて、暗い床に視線を据えて、ゆっくりと白い煙を吸い込んだ。吐きだした煙が翼のように羽ばたき揺蕩う。暗闇の中を。大鴉の翼のように。
僕から子爵さまを奪った大鴉。僕を子爵さまから開放してくれた大鴉。とろりとした琥珀のような鳶色の瞳の――。
ごろりと仰向けに寝返って、揺蕩う白い煙を目で追った。薄闇に溶けていく白煙の羽ばたき。僕を蕩かす甘い香り。
白い煙はいつだって僕を優しく包んでくれる。
一人ぼっちでジョイントを吸っていたって、僕はちっとも淋しくない。きみがその翼で僕を包んでくれるもの。ねぇ、大鴉……。
冷たい床に転がって身悶えしながら、僕はきみの夢を見る。
試験期間に入り校内の空気がぴりぴりしている。
大鴉は相変わらずだ。黒いローブをなびかせて、つんと澄ました顔で歩いている。でも、同じ一学年生と一緒にいるところを見かけることが多くなった。右腕のギプスが外れて、体育や、課外授業に参加できるようになったからだ。
大鴉は水泳部なのだそうだ。何よりも泳ぐことが好きで、姿が見えないときはまずはプールを探せ、と言われるほど毎日泳いでいるらしい。腕を怪我していた間は、もちろんプールは禁止。
だからあんな池なんかで泳いでいたのか、と駄々っ子のような彼らしさに納得して、僕はまた笑ってしまったよ。
試験期間だというのに、彼はやはり毎放課後プールにいた。
本当はそんな暇はないのだけれど、僕は時々、彼が泳ぐのを見にいった。AレベルやGCSEを受けない学年には関係ないから、部活動は普段通りに行われている。勉強の合間にリフレッシュしに来る奴らもいるしね。大鴉みたいなのは、そうはいないとは思うけれど……。
大鴉はまるで空にいるように泳ぐ。空気を翼で切るように水を掻き、風に乗るように白い飛沫に紛れて飛ぶ。
あの長い綺麗な腕は、やはり翼だったんだ。
僕は彼に見とれていた。その肢体に。その優雅な動きに。水の中にいるときだけに見せる、無邪気な笑顔に。
水泳部の仲間とじゃれあっている彼は、黒いローブのお高くとまった奨学生なんかではなくて、年相応の少年にしか見えなかった。
あの生徒会の連中とポーカーをしていたときみたいな、皮肉な笑みなんか浮かべたりしない。相変わらずの、インド訛りの早口だけれど。あの連中と会話していたときの綺麗なエリオット発音よりも、ずっと溌剌として彼らしい。
彼を見ていると、僕まで気持ちが高揚する。何ものにも囚われない大鴉。その自由奔放な大らかさに、誰もが半ば当然のように惹かれてやまない。
そう、僕だけではなかった。プールサイドの見学者シートはいつも一杯。だから僕はいつも人垣の隙間から覗き見するように、大鴉を眺めていた。
周りの連中の誰もが彼の噂話をしている。悪口を言っている奴もけっこういる……。
良くも悪くも彼はみんなの注目の的。それだけは確かだ。
「マシュー」
顔が引きつれる。吐息を呑み込み、ひと呼吸置いて、振り返った。
鳥の巣頭が腰に手を当て、呆れた顔で僕を見ている。
「こんなところで何油を売っているんだい?」
周りの奴らがくすくすと嗤っている。
無神経な鳥の巣頭。
「ほら、行くよ」
まるで小さな子どもを扱うように、こいつは僕の腕をぐいと引っ張った。濡れたプールサイドで、僕は無様につんのめって倒れた。
「マシュー、ごめん! 大丈夫かい?」
差しだされたこいつの手を打ち払って立ちあがる。スラックスがぐっしょりと濡れた。また、さざ波のようなくすくす笑いが僕の背後からまといつく。恥ずかしさに耳まで真っ赤になりながら、僕は早足でその場を去った。無神経な鳥の巣頭が大声で僕の名を呼ぶ。笑い声や揶揄う声が一段と増す。
でも、僕は感謝したよ。あの無慈悲で下品な奴らの作る壁のおかげで、僕のみっともない姿を大鴉に見られなくてすんだのだもの。
とはいえ、これで当分ここへは来られなくなった。僕はそこまで厚顔じゃないからね。
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