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三章
74 恋敵
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香りが白い記憶を呼び覚ます
過去
未来
知らない時
窓ガラスにはまったステンドグラスの透明な赤が、テーブルの上で揺蕩う。そのゆらゆらとしたさざ波のような揺らめきを、じっと見つめていた。
白い皿に置かれた食べかけのスコーンは、溶けてしまったアイスの中で溺れている。惨めで汚らしいその皿を、テーブルの端へと追いやった。
「もう食べないの?」
鳥の巣頭の表情が曇っている。僕を一人ぼっちにして友人のところへ行ったことを気にしているんだ。そのせいで僕が怒ったと思っているに違いない。
「お腹いっぱい」
無理に笑って見せた。
ときおり階上から響いてくる喧騒が癪に障る。
「さっきの話だけど……」
すっかり不機嫌になっていた僕に、鳥の巣頭が気遣うように話を蒸し返した。
「ほら、賭けをしているっていう」
赤毛がインド風の香料のきいたミルクティーを運んできた。「賭け」の一言に反応したのか、きつい一瞥を鳥の巣頭にくれている。可愛げのない、気の強そうな女――。
赤毛が立ち去ってから、鳥の巣頭はミルクティーを一口飲み、口を開いた。
「マシュー、」
「臭い。僕はその臭い、苦手だな」
眉をひそめて顔を背けた。カレーのスパイスと良く似た鼻腔を刺激するきつい香りがそれでも香ってくる。鳥の巣頭は慌てて、ティーカップを僕から離して置きなおした。おまけに口許まで手で覆っている。
「ごめん、マシュー。知らなくて……」
「いいよ、べつに」
どうせ、八つ当たりだもの。
僕は手を伸ばし、そのティーカップを持ち上げて一気に飲み干した。
やはり、まずい。甘ったるいミルクティーなのに、喉を刺激してイガイガする。これだからきついスパイスは嫌いなんだ。
続けて、すっかり冷めてしまっていた桜の紅茶の残りをポットから注ぎ飲みきった。こっちも、もう紅茶の渋みが出すぎてしまって、ざらりとした苦みが残る。
今の僕にぴったり……。
苦い思いばかりが広がっていく。
鳥の巣頭が驚いた顔で僕を見ている。
「もう帰ろう」
僕が席を立つと、鳥の巣頭もガタガタと立ちあがった。
店をでて、往来から二階を見あげると、やっぱり大鴉は以前と同じ場所に腰かけていた。でも今はテーブルではなく、ちゃんと椅子に座っているみたいだ。彼の横に座っていたのが天使くんではなかったので、少しだけ機嫌をもちなおす。
「ごめんね」
上目遣いに見あげて謝ると、鳥の巣頭はほっとしたように笑った。
「桜の紅茶も、スコーンも美味しかったよ」
「良かった。頼みこんでキープしてもらって良かったよ」
僕の機嫌がなおったので、こいつはいつものごとく喋りだした。
やっぱり話の中心は、あの赤毛の子のことだった。さすがに本人のいるフロアでの噂話は鳥の巣頭も気が引けていたらしい。あの赤毛、パブの主人の孫なのだそうだ。大鴉がいろんなメニューを考案してお客さんが増えたから手伝いに来るようになったのだそうだ。
「でもあの紅茶、確かに美味しかったけれど、ちょっと女の子向けだよね。あの子、ああいうのが好きなの? 意外だよね」
僕はちょっと馬鹿にしたように大鴉の話題を振った。
「ああ、そうじゃないよ。彼は甘いものは食べないそうだよ。あのメニューは完全に客寄せだよ。この辺じゃ、あんなこじゃれたメニューなかなかないだろ?」
「寮の食事がまずいからあそこで作っているって、言っていなかったけ?」
「初めはね。今はさ、」と、鳥の巣頭は僕の肩を抱いて耳許に口を寄せる。
「あの女の子のため、ってもっぱらの噂。潰れかけのあの店を立てなおして、あの女の子が大学に通えるだけの学費を作ってやったんだって」
僕の肩が強ばったのを、こいつは気づいただろうか……?
「あのカラス、『黄金の指のミダス』って呼ばれているんだ」
「どういう意味?」
「触れるものなんでも黄金に変えるミダス王のように、鮮やかにお金に変えるってことさ。わずか数ヶ月で見事にあの店を再建させたんだよ」
「新しいメニューで?」
「それだけじゃないみたいだけどね。あの女の子に経理を教えたり、日本食の輸入販売だろ、仕入れやら何やらいろいろ手伝ってあげているらしいよ」
あの冴えない赤毛女のために?
僕にはどうしたって、そんなことは信じられなかった。
「あーあ、でもあの様子じゃ、ベンに勝目はなさそうだなぁ」
鳥の巣頭は僕の肩を離し、その腕を頭の上で組んで残念そうにため息をつく。
ベン、と呼ばれているのが大鴉と争っているという賭けのもう一方だ。鳥の巣頭の友人で、子爵さまの後輩でもある。ちらっと鳥の巣頭と話しているのを見かけたときに、生徒会連中の集まりであのパブの二階にいた、大鴉のお目付役と言われていた男だと、やっと顔と名前が一致した。
「そうかなぁ、そっちの彼の方がお似合いなんじゃないの?」
大鴉は年齢の割には上背があって体格もいい。でも、大人びているといっても、まだ一学年だ。上級生と女の子を張り合うなんて考えられない。
「僕もそう思うのだけどね……。話を聞いているとねぇ」
鳥の巣頭は残念そうにまた吐息を漏らす。
こいつも本当、良く解らない。僕なら、友人があんな冴えないのが好きだなんて言いだしたら絶対に反対するのに。何なんだ、この反応は?
やっぱり僕とこいつは相容れない……。
まぁ、あの赤毛も、賭けもどうでもいい。大鴉があんなのを相手にするわけがないもの。僕は、大鴉があの店を手伝うのはもっと別な理由があるのだと思う。鳥の巣頭なんかの知らない理由が。
とにかく、あの赤毛はない! 絶対にない!
それだけは、確信していた。
過去
未来
知らない時
窓ガラスにはまったステンドグラスの透明な赤が、テーブルの上で揺蕩う。そのゆらゆらとしたさざ波のような揺らめきを、じっと見つめていた。
白い皿に置かれた食べかけのスコーンは、溶けてしまったアイスの中で溺れている。惨めで汚らしいその皿を、テーブルの端へと追いやった。
「もう食べないの?」
鳥の巣頭の表情が曇っている。僕を一人ぼっちにして友人のところへ行ったことを気にしているんだ。そのせいで僕が怒ったと思っているに違いない。
「お腹いっぱい」
無理に笑って見せた。
ときおり階上から響いてくる喧騒が癪に障る。
「さっきの話だけど……」
すっかり不機嫌になっていた僕に、鳥の巣頭が気遣うように話を蒸し返した。
「ほら、賭けをしているっていう」
赤毛がインド風の香料のきいたミルクティーを運んできた。「賭け」の一言に反応したのか、きつい一瞥を鳥の巣頭にくれている。可愛げのない、気の強そうな女――。
赤毛が立ち去ってから、鳥の巣頭はミルクティーを一口飲み、口を開いた。
「マシュー、」
「臭い。僕はその臭い、苦手だな」
眉をひそめて顔を背けた。カレーのスパイスと良く似た鼻腔を刺激するきつい香りがそれでも香ってくる。鳥の巣頭は慌てて、ティーカップを僕から離して置きなおした。おまけに口許まで手で覆っている。
「ごめん、マシュー。知らなくて……」
「いいよ、べつに」
どうせ、八つ当たりだもの。
僕は手を伸ばし、そのティーカップを持ち上げて一気に飲み干した。
やはり、まずい。甘ったるいミルクティーなのに、喉を刺激してイガイガする。これだからきついスパイスは嫌いなんだ。
続けて、すっかり冷めてしまっていた桜の紅茶の残りをポットから注ぎ飲みきった。こっちも、もう紅茶の渋みが出すぎてしまって、ざらりとした苦みが残る。
今の僕にぴったり……。
苦い思いばかりが広がっていく。
鳥の巣頭が驚いた顔で僕を見ている。
「もう帰ろう」
僕が席を立つと、鳥の巣頭もガタガタと立ちあがった。
店をでて、往来から二階を見あげると、やっぱり大鴉は以前と同じ場所に腰かけていた。でも今はテーブルではなく、ちゃんと椅子に座っているみたいだ。彼の横に座っていたのが天使くんではなかったので、少しだけ機嫌をもちなおす。
「ごめんね」
上目遣いに見あげて謝ると、鳥の巣頭はほっとしたように笑った。
「桜の紅茶も、スコーンも美味しかったよ」
「良かった。頼みこんでキープしてもらって良かったよ」
僕の機嫌がなおったので、こいつはいつものごとく喋りだした。
やっぱり話の中心は、あの赤毛の子のことだった。さすがに本人のいるフロアでの噂話は鳥の巣頭も気が引けていたらしい。あの赤毛、パブの主人の孫なのだそうだ。大鴉がいろんなメニューを考案してお客さんが増えたから手伝いに来るようになったのだそうだ。
「でもあの紅茶、確かに美味しかったけれど、ちょっと女の子向けだよね。あの子、ああいうのが好きなの? 意外だよね」
僕はちょっと馬鹿にしたように大鴉の話題を振った。
「ああ、そうじゃないよ。彼は甘いものは食べないそうだよ。あのメニューは完全に客寄せだよ。この辺じゃ、あんなこじゃれたメニューなかなかないだろ?」
「寮の食事がまずいからあそこで作っているって、言っていなかったけ?」
「初めはね。今はさ、」と、鳥の巣頭は僕の肩を抱いて耳許に口を寄せる。
「あの女の子のため、ってもっぱらの噂。潰れかけのあの店を立てなおして、あの女の子が大学に通えるだけの学費を作ってやったんだって」
僕の肩が強ばったのを、こいつは気づいただろうか……?
「あのカラス、『黄金の指のミダス』って呼ばれているんだ」
「どういう意味?」
「触れるものなんでも黄金に変えるミダス王のように、鮮やかにお金に変えるってことさ。わずか数ヶ月で見事にあの店を再建させたんだよ」
「新しいメニューで?」
「それだけじゃないみたいだけどね。あの女の子に経理を教えたり、日本食の輸入販売だろ、仕入れやら何やらいろいろ手伝ってあげているらしいよ」
あの冴えない赤毛女のために?
僕にはどうしたって、そんなことは信じられなかった。
「あーあ、でもあの様子じゃ、ベンに勝目はなさそうだなぁ」
鳥の巣頭は僕の肩を離し、その腕を頭の上で組んで残念そうにため息をつく。
ベン、と呼ばれているのが大鴉と争っているという賭けのもう一方だ。鳥の巣頭の友人で、子爵さまの後輩でもある。ちらっと鳥の巣頭と話しているのを見かけたときに、生徒会連中の集まりであのパブの二階にいた、大鴉のお目付役と言われていた男だと、やっと顔と名前が一致した。
「そうかなぁ、そっちの彼の方がお似合いなんじゃないの?」
大鴉は年齢の割には上背があって体格もいい。でも、大人びているといっても、まだ一学年だ。上級生と女の子を張り合うなんて考えられない。
「僕もそう思うのだけどね……。話を聞いているとねぇ」
鳥の巣頭は残念そうにまた吐息を漏らす。
こいつも本当、良く解らない。僕なら、友人があんな冴えないのが好きだなんて言いだしたら絶対に反対するのに。何なんだ、この反応は?
やっぱり僕とこいつは相容れない……。
まぁ、あの赤毛も、賭けもどうでもいい。大鴉があんなのを相手にするわけがないもの。僕は、大鴉があの店を手伝うのはもっと別な理由があるのだと思う。鳥の巣頭なんかの知らない理由が。
とにかく、あの赤毛はない! 絶対にない!
それだけは、確信していた。
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