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三章
73 桜のティーセット
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落ちている時は判らないもの
ここは天なのか
恋の淵なのか
土曜の午後の部活動を終えてから、鳥の巣頭と僕は連れだって例のパブへ向かった。ティータイムには遅く、夕食にはまだ早い時間帯だったのに、店内は混み合っていた。だが鳥の巣頭がここの主人と話している間に運良く席が空いて、僕たちはテーブル席に座ることができた。
「マシュー、ごめん。二階は団体の予約が入っているらしくて、テーブルを取れなかったんだ」
「かまわないよ。そんなに待たずに、こうして座れたもの」
にっこり笑って答えていると、なぜか隣のテーブルから歓声とくすくす笑いが湧きあがった。顔は窓に向けたまま、それとなく目線だけ動かして店内を見まわした。以前来たときと、どこが変わったというわけでもない。それなのに、店が明るくなったような――。
鳥の巣頭が顔を近づけて、「女の子のお客さんが多いだろ? この人気メニューのせいなんだよ」と教えてくれた。
それに……。
僕はテーブルの上のガラスコップに飾られた小さな野の花を眺め、狭い店内を忙しそうにくるくると動き回っている赤毛の女の子の姿を横目で追った。
その子が僕たちのテーブルに、カレーとナン、そして鳥の巣頭お薦めの桜のティーセットを運んできた。「ありがとう」とまた鳥の巣頭がどうでもいい雑談をしている間、僕はそっとその子の容姿を観察する。
炎のような長い髪は三つ編みに結われ、背中に下ろされている。色気も何もない、白いシャツにブルージーンズ。化粧すらしていない。もちろん僕の母の履くようなヒールの高い靴なんかじゃなくて、ありきたりな安物の黒いローファーを履いている。それに黒のウエストエプロン。
おまけにこんな特徴のない顔では、きっと道ですれ違ってもこの子だと気づかないに違いない。
緩む口許を隠すように、ガラスのカップの中で金色に揺れる紅茶を持ちあげた。甘い花の香りが鼻腔をくすぐる。ガラスポットの中では、桜の花が一輪揺蕩っている。
「お砂糖を入れなくても甘いんだね」
口に含んだとたんに広がる薫香に驚き、僕は目を見開いて鳥の巣頭を見あげた。とたんに、こいつの食べているカレーのスパイシーな臭いが鼻につく。
せっかくの気分がぶち壊しじゃないか!
いや、もともとここは、そんな上品にお茶を楽しむような店じゃないんだ――。
気を取り直してセットのスコーンの皿を手前に引き、桜色のスコーンに、添えつけのバニラアイスを載せて口に運ぶ。
「桜の香り――、それに苺かな?」
「当たり! きみ、苺が好きだろ? きっと気に入ると思っていたんだ」
どうだ、と言わんばかりに胸を張る鳥の巣頭に僕は苦笑しながら、「美味しいよ」とお世辞ではなくお礼を言った。
期待していなかったお茶もスコーンも、想像以上に僕の好みだったし、杞憂の種だったあの子はあんなだし、僕の顔は緩みっぱなしだ。
今はカウンターに入って洗い物をしているあの赤毛の子をちらちらと盗み見しながら、声を落として鳥の巣頭にも訊いてみた。
「ねぇ、きみ知っている? 校内でのカラス連中の賭けの話」
「賭け?」
鳥の巣頭は怪訝な顔をしてオウム返しに呟いた。
「知らないの?」
僕は軽い優越感に浸りながら、さらにこいつに顔を寄せた。
「このパブの女の子目当てに、カラスの子が通っているって噂だよ。カラス同士で争っていて、どちらが落とすかの賭けが大流行りなんだよ!」
あんな冴えない子が目当てだなんて、冗談みたいだけれどね! それに、そのカラスの一人があの大鴉だなんて、まったくもって信じられない!
僕は可笑しくて笑いだしてしまいそうだったよ。
だけど、大きくドアベルを鳴らして入ってきた一団を目にしたとたん、心臓がどくんと音をたてて弾んでいた。
大鴉だ!
カレッジ寮長に頭を小突かれている。大鴉は、乱暴なインド訛りの早口で文句を言い返しているけれど、訛りがきつすぎて、僕には何を言っているのか聞きとれない。
唇を嘴みたいに尖らせてふくれっ面をしているその顔が、なんだかすごく彼らしくって可愛らしい。
あれ? でも――。
「あの子、なんであんな変な発音なの? 以前は、綺麗なエリオット発音を喋っていたのに」
彼に聞かれないように、鳥の巣頭に顔を寄せて囁いた。
「彼は普段はああだよ。育ちが判るだろ?」
育ちって――。でも彼、日本人って言っていなかったっけ?
納得できていない僕の訝しげな顔が可笑しかったのか、鳥の巣頭は吹きだしながら頭を振った。
「冗談だよ。あの子ね、耳がいいんだよ。どんな訛りでも操るよ。たまに彼が授業に出ている時なんか、あの調子で先生の発音をすっかり真似て揶揄うものだから、みんな、笑い転げて授業にならないんだよ」
言いながら、鳥の巣頭は「あ!」と、軽く手を振って立ちあがる。あのカラスの集団の中に友人がいたらしい。「すぐ戻るから」と席を離れたあいつを見送る振りをしながら、大鴉を眺めていた。
大鴉は、あの赤毛の子と立ち話している。
ほらやっぱり。そんな色っぽい仲なんかじゃない。大体あの赤毛、大鴉よりずっと年上みたいに見える。僕よりも上なんじゃないか?
けれど、ふん、と鼻で嗤っていた僕の表情が、一瞬にして強張った。
大鴉の後ろに隠れるように、天使くんがいたんだ――。しごく、当たり前な顔をして。
はにかんだ、蕩けるような笑みを大鴉に向けている。どこかぎこちなく恥ずかしそうに見せながら、絶対にこの場所は譲らない、そんな空気を漂わせている。ちらちらと、あの赤毛を牽制しながら――。
あまりの腹立たしさに、心臓が凍りつきそうだった。
ここは天なのか
恋の淵なのか
土曜の午後の部活動を終えてから、鳥の巣頭と僕は連れだって例のパブへ向かった。ティータイムには遅く、夕食にはまだ早い時間帯だったのに、店内は混み合っていた。だが鳥の巣頭がここの主人と話している間に運良く席が空いて、僕たちはテーブル席に座ることができた。
「マシュー、ごめん。二階は団体の予約が入っているらしくて、テーブルを取れなかったんだ」
「かまわないよ。そんなに待たずに、こうして座れたもの」
にっこり笑って答えていると、なぜか隣のテーブルから歓声とくすくす笑いが湧きあがった。顔は窓に向けたまま、それとなく目線だけ動かして店内を見まわした。以前来たときと、どこが変わったというわけでもない。それなのに、店が明るくなったような――。
鳥の巣頭が顔を近づけて、「女の子のお客さんが多いだろ? この人気メニューのせいなんだよ」と教えてくれた。
それに……。
僕はテーブルの上のガラスコップに飾られた小さな野の花を眺め、狭い店内を忙しそうにくるくると動き回っている赤毛の女の子の姿を横目で追った。
その子が僕たちのテーブルに、カレーとナン、そして鳥の巣頭お薦めの桜のティーセットを運んできた。「ありがとう」とまた鳥の巣頭がどうでもいい雑談をしている間、僕はそっとその子の容姿を観察する。
炎のような長い髪は三つ編みに結われ、背中に下ろされている。色気も何もない、白いシャツにブルージーンズ。化粧すらしていない。もちろん僕の母の履くようなヒールの高い靴なんかじゃなくて、ありきたりな安物の黒いローファーを履いている。それに黒のウエストエプロン。
おまけにこんな特徴のない顔では、きっと道ですれ違ってもこの子だと気づかないに違いない。
緩む口許を隠すように、ガラスのカップの中で金色に揺れる紅茶を持ちあげた。甘い花の香りが鼻腔をくすぐる。ガラスポットの中では、桜の花が一輪揺蕩っている。
「お砂糖を入れなくても甘いんだね」
口に含んだとたんに広がる薫香に驚き、僕は目を見開いて鳥の巣頭を見あげた。とたんに、こいつの食べているカレーのスパイシーな臭いが鼻につく。
せっかくの気分がぶち壊しじゃないか!
いや、もともとここは、そんな上品にお茶を楽しむような店じゃないんだ――。
気を取り直してセットのスコーンの皿を手前に引き、桜色のスコーンに、添えつけのバニラアイスを載せて口に運ぶ。
「桜の香り――、それに苺かな?」
「当たり! きみ、苺が好きだろ? きっと気に入ると思っていたんだ」
どうだ、と言わんばかりに胸を張る鳥の巣頭に僕は苦笑しながら、「美味しいよ」とお世辞ではなくお礼を言った。
期待していなかったお茶もスコーンも、想像以上に僕の好みだったし、杞憂の種だったあの子はあんなだし、僕の顔は緩みっぱなしだ。
今はカウンターに入って洗い物をしているあの赤毛の子をちらちらと盗み見しながら、声を落として鳥の巣頭にも訊いてみた。
「ねぇ、きみ知っている? 校内でのカラス連中の賭けの話」
「賭け?」
鳥の巣頭は怪訝な顔をしてオウム返しに呟いた。
「知らないの?」
僕は軽い優越感に浸りながら、さらにこいつに顔を寄せた。
「このパブの女の子目当てに、カラスの子が通っているって噂だよ。カラス同士で争っていて、どちらが落とすかの賭けが大流行りなんだよ!」
あんな冴えない子が目当てだなんて、冗談みたいだけれどね! それに、そのカラスの一人があの大鴉だなんて、まったくもって信じられない!
僕は可笑しくて笑いだしてしまいそうだったよ。
だけど、大きくドアベルを鳴らして入ってきた一団を目にしたとたん、心臓がどくんと音をたてて弾んでいた。
大鴉だ!
カレッジ寮長に頭を小突かれている。大鴉は、乱暴なインド訛りの早口で文句を言い返しているけれど、訛りがきつすぎて、僕には何を言っているのか聞きとれない。
唇を嘴みたいに尖らせてふくれっ面をしているその顔が、なんだかすごく彼らしくって可愛らしい。
あれ? でも――。
「あの子、なんであんな変な発音なの? 以前は、綺麗なエリオット発音を喋っていたのに」
彼に聞かれないように、鳥の巣頭に顔を寄せて囁いた。
「彼は普段はああだよ。育ちが判るだろ?」
育ちって――。でも彼、日本人って言っていなかったっけ?
納得できていない僕の訝しげな顔が可笑しかったのか、鳥の巣頭は吹きだしながら頭を振った。
「冗談だよ。あの子ね、耳がいいんだよ。どんな訛りでも操るよ。たまに彼が授業に出ている時なんか、あの調子で先生の発音をすっかり真似て揶揄うものだから、みんな、笑い転げて授業にならないんだよ」
言いながら、鳥の巣頭は「あ!」と、軽く手を振って立ちあがる。あのカラスの集団の中に友人がいたらしい。「すぐ戻るから」と席を離れたあいつを見送る振りをしながら、大鴉を眺めていた。
大鴉は、あの赤毛の子と立ち話している。
ほらやっぱり。そんな色っぽい仲なんかじゃない。大体あの赤毛、大鴉よりずっと年上みたいに見える。僕よりも上なんじゃないか?
けれど、ふん、と鼻で嗤っていた僕の表情が、一瞬にして強張った。
大鴉の後ろに隠れるように、天使くんがいたんだ――。しごく、当たり前な顔をして。
はにかんだ、蕩けるような笑みを大鴉に向けている。どこかぎこちなく恥ずかしそうに見せながら、絶対にこの場所は譲らない、そんな空気を漂わせている。ちらちらと、あの赤毛を牽制しながら――。
あまりの腹立たしさに、心臓が凍りつきそうだった。
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