微睡む宵闇 揺蕩う薫香

萩尾雅縁

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三章

72 四月

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 その弱さが
 僕を縛りつける
 鎖




 いつの間にか眠ってしまっていた。
 もうとっぷりと日が暮れていた。鬱屈した思いを抱えたまま起きあがり、ドアの取手を引いた。
 案の定、鳥の巣頭がうずくまっている。ドアを開ける音に反応しないなんて、こいつも眠っていたのだろうか。
 しゃがみこんでこいつの顔を覗きこもうとしたら、抱えこんだ膝の上に埋めるように置かれた首筋が、かすかに震えているのが見えた。

 弱虫の鳥の巣頭、すぐにいじける……。

 その情けない背中を抱きしめてやった。白いうなじにキスを落とした。
 びくりと痙攣けいれんして、こいつはおずおずと頭をもたげて振り返った。

「マシュー、」
「中に入れよ。こんなところでみっともないよ」

 僕のきつい声音に、こいつの唇がへの字に歪む。でも、何も言わずに立ちあがった僕に続いた。部屋に入ってドアを閉めるなり、飛びついてきて僕を抱きしめる。

「ごめんよ、マシュー」
「もういいよ」


 鳥の巣頭はひどい奴だ。いつもこうやって僕に甘える。
 そんな泣きそうな顔をして震えるのなら、僕を怒らせるようなことを言わなければいいのに。

 ――頭がおが屑だから判らないんだ。

 あんな冷たい廊下にしゃがみこんで、すっかり冷え切っているこいつの頬を両手で挟んで、ぎこちなく動く唇を喰んだ。

「憐憫なんかじゃない。きみが好きだよ、マシュー」

 知ってる。
 きみはいつだって、その言葉で僕を縛る。僕みたいな奴を好きになるのは自分しかいない、って、そう言いたいんだろ? 
 きみの言葉の一言、一言が、どれほど僕を切り刻んできたか、きみには一生かかっても解りはしない。

 なんたって、きみの頭はおが屑だからね……。

「もう、黙って」

 だから僕はこいつにキスをする。こいつを喋れなくするために。こいつにこれ以上、僕を好きだと言わせないために。





 オックスフォードから学校に戻った。さすがに試験のことで頭がいっぱいだったから、梟の提案は一時お預けだ。梟も、試験が済んでからでかまわないと言ってくれていた。

 毎日学舎と寮の往復だ。つまらない毎日。
 でも、大鴉に出遇う回数が増えた。だから、まったくつまらない、ってわけでもない。

 だって、大鴉は、僕と同じGCSE試験を受けるって言うんだ。一学年生のくせに! 前倒し受験にもほどがあるだろ!

 とはいえ、うちの学校ではかなりの人数が、二学年生の内にこの試験を前倒しで受験する。さすがに一学年生で、という話は聞いたことがなかったが。


「あの例のカラスの子、ケンブリッジ大学に入学が決まっているらしいよ」

 中庭の芝生の上を突っきっている奨学生の一団を見やりながら、鳥の巣頭が囁いた。

「今年はGCSE、来年はAレベルを受験して、二年でこんな学校は出ていってやるって公言しているって。――傲慢な奴」

 知ってる。
 試験対策用の補習授業を受けるようになって、鳥の巣頭からだけでなく、あの大鴉の天才ぶりは嫌でも耳に入るようになっていた。それに、もう一つの噂も……。

「きみ、まだあのパブにカレーを食べに行っているの?」

 鳥の巣頭はひょいっと肩をすくめた。

「きみも行く? 今人気なのは、桜のスコーン。期間限定だよ。たまには息抜きに行こうよ」

 それも噂に聞いた。


 オックスフォードで梟に顧客リストを貰ってから、試験明けにスムーズに引き継ぎができるように、僕は少しずつリストの奴らと親しくなるように努力しているんだ。
 鳥の巣頭だけじゃない。誰の口からでも出てくるのが、まずは大鴉の噂話だ。彼の考えたパブの新メニュー、週末は混んでいてすぐに売り切れてしまうって話だった。

 寮内ではこいつに邪魔されても、授業は別だもの。他寮生と親しくなるきっかけくらい、自分でなんとかできる。こいつさえいなければ。僕は休暇前よりもずっと前向きに日々をすごしているんだ。梟のおかげでね。


「行きたいな。一緒に行ってくれる? そうだな、明日でもかまわない?」
「かまわないよ! 電話して予約を入れておくよ」

 同じ授業を取っている連中とは、まだ一緒に出かけるほどには親しくない。それにあんな地区に行くなら、こいつといっしょの方が安心だ。

 スコーンなんかどうでも良かったけれど、何はともあれ確かめたかった。

 あの大鴉の――。


 鳥の巣頭がいきなり腕を小突いた。何事かと横を見ると、こいつはぽかんと口を開けて、学舎に挟まれたカレッジ寮を見あげていた。
 釣られて見あげた三階の窓枠に、黒いローブがはためいるのが目に飛びこんできた。

 大鴉!

 次の瞬間、ローブはひらりと空を舞っていた。黒い羽が風を含んで大きく膨らみ、芝生の上にふわりと降り立つ。
 大鴉は振り返ると、窓に向かって声を張りあげた。

「チャールズ! そんな豚の飯なんか食えるかよ! 俺は人間だぞ!」
「おい! ヨシノ、そこを動くなよ! 反省室に突っこんでやる!」

 窓から身を乗りだしているのは、カレッジ寮の寮長だ。すぐに引っ込んで廊下を走る姿が、窓越しにかすかに透けて見える。

「ばーか。誰が大人しく待つかよ!」

 大鴉はちらりと、窓の連なる煉瓦造りの寮を眺め、あっと言う間に走り去ってしまった。


「カレッジ寮長に同情するよ」

 一瞬、大鴉を捕まえるのを協力するべきかと迷いをみせ、行きかけた鳥の巣頭だったが、まず追いつけないと踏んだのか、大きくため息をついて呟いていた。

「本当にね」
 僕は、くすくすと笑いながら頷いた。



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