微睡む宵闇 揺蕩う薫香

萩尾雅縁

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三章

68 一陣の風

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 底知れぬ底から
 見上げた彼方に
 光が揺蕩う




 僕はやはりあの人のことが好きだったのだと、ふられて初めて気がついた。
 最後に子爵さまがくれた一言、一言が僕の心に焼きついて、他に何も考えられない。

 鳥の巣頭の言っていた通りに多くの生徒会役員は辞任し、誤解の解けた大鴉は反省室から出されたというのに。
 僕は子爵さまを失った痛みから、浮上できないままだった。

 でも、今なら解る。
 僕は白い彼の隣を歩く、弾けるような笑顔の子爵さまが好きだったのだ。
 僕には一度も、あんな笑顔は見せてはくれなかった。
 だからどんなに子爵さまを好きでも、もう一度以前のような関係に戻りたいとは思わない。
 子爵さまのあの笑顔は、白い彼のものだから――。

 子爵さまが僕に白い彼を求めていたように、僕も子爵さまの望む白い彼になりたかった。偽物ではなく本物の白い彼に。でも、そんなことは不可能だ。僕はどこまでいっても、僕でしかない。

 だからあんなにも虚しかったのだ。偽物の白い彼を僕に求める子爵さまが……。

 本物の白い彼を一途に慕う子爵さまの曇りのない瞳が、僕は好きだったのだから。

 子爵さまを好きだった。
 だからこそ、僕が好きで、僕を好きな訳ではない子爵さまに抱かれるのは、他のどんな奴らよりも心がぺりぺりと剥けていくようで、辛かった。その度に僕は殺されて、何度も、何度も自分に言い聞かせるしかなかったんだ。これは、ジョイントが見せる夢だからと。

 最後に子爵さまがくれた言葉は、僕自身にくれた言葉。せめてそれを、信じたい。


 たまに学舎で見かける子爵さまは、相変わらず取り巻き連中に囲まれていて、取り立てて変わったことなんてなかった様子で、引き締まった表情でこれまで以上に堂々と歩いている。

 遠目にその姿を見る度に僕の胸は疼いたけれど、これで良かったのだと、僕は自分に言い聞かせている――。




 でも、問題はこんなことじゃない!
 僕は生徒会役員になる道筋を、全て失ったのだから!
 踏んだり蹴ったりとは、まさにこの事だよ……。

 それなのに、僕は今、何も考えられないんだ。
 本当は、急いで対策を立てなくちゃいけないのに。どんなに自分を叱咤してみたところで、心が萎えていて動かなかった。
 それに鳥の巣頭の言う通りあいつが生徒総監になるのなら、僕がどう頑張ろうと邪魔されるに決まっている。
 あいつが、僕を多くの人と関わることになる状況に置くわけがないのだから……。



 正直、もう何もかもどうでもよくなっていた。
 どんなに必死になって頑張っても、上手く行かないことばかりだ。奨学生になれなかった時みたいに、何点足りなかったからとか、そんなレベルじゃない。

 一緒にジョイントを吸っていた子爵さまが、いきなり豹変してドラッグ撲滅に一役買うとか、どうやって予想しろっていうんだ? 

 子爵さまをこうも変えてしまう白い彼――。

 あの大鴉の携帯にウイルスを仕込んでサイバー攻撃とか、常軌を逸しているとしか思えない。

 僕は白い彼が心底恐ろしかった。

 奨学生――。白い彼も、奨学生だった。
 もし、奨学生になれていたら、僕は白い彼の後輩で、大鴉や天使くんの先輩で――。今みたいに、天使くんに対して歪な嫉妬や、理不尽な妬みを抱えることなく、もっと楽しく日々を送れていたのだろうか……。

 大鴉とも――。

 僕は俯いたまま、寮への道を歩いていた。いつものように少し遠回りして、フェローズの森の前を横切る道を。
 その時、視界の端に黒いローブか木立に消えるのを見たような気がした。

 このまま真っ直ぐに寮に帰るのも嫌で、その黒い影の後を追った。なぜか、大鴉だという確信があった。僕が彼を見間違える訳がないのだと。



 木立の間を大鴉は滑るように進んでいく。彼は欅の樹が好きだから、そこへ行くものと思っていたのに、ずんずんと通り過ぎ、池の端でやっと立ち止まった。

 距離を置いて、そっと樹の陰に隠れた。

 大鴉は特に辺りを気にするでもなく、ローブを脱ぎ捨て、テールコートを脱ぎ――、あっと言う間に裸になって、池の中に滑り降りるように静かに身を沈め泳ぎ始めた。

 正気の沙汰じゃないだろう!

 いくら冬の寒気は緩んできているとはいえ――、水温、何度くらいなのだろう? 触って確かめる気にもなれない。

 でも、夕闇の迫る茜色の光を弾く池で、まさに水を得た魚のように泳いでいる大鴉は、木の枝に留まって空を眺めていた時と同じくらい、自由で、美しくて、僕は何もかも忘れて見とれてしまっていた。


 そんな永遠にも似た時間は、おそらく僅かの間にすぎなかったのだと思う。
 大鴉は水から上がって、片手で、持ってきていたらしいタオルで身体を拭いて、衣服を身につけた。右手にはまだギプスが嵌っている。その上にビニール袋が被せてあるのに気づき、僕は思わず吹きだしてしまいそうになった。

 そうまでして泳ぎたいの? まるで、子どもだ!

 大鴉に気づかれないように僕は樹の陰に完全に隠れてうずくまり、声を殺して笑った。
 顔を上げ、もう一度樹の陰から覗きみた時には、やはり彼はもう立ち去った後だった。足音も立てずに!

 風みたいに!

 そう、一陣の風が吹きぬけて、僕の中の鬱屈した想いを吹き飛ばしてくれたんだ。

 僕は、この不思議な大鴉が好きだ。

 子爵さまに対する想いとは、まるで違っていたけれど。
 久しぶりに、晴れやかな気分で笑っていた。





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