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三章
66 お別れのキス
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合わせ鏡の光が跳ねる
無限の終わり
跳ねて散る
子爵さまの顔を見て一番に思い浮かんだのは、白い彼のことだった。
大好きな先輩に逢えたから、子爵さまはこんなにも嬉しそうなのだ、とそう思った。
子爵さまは、なんだか恥ずかしそうな、照れくさそうな顔をして僕を見つめ、「生徒会役員を辞任することにしたんだ」と開口一番、とんでもないことを告げた。
青天の霹靂とは、このことだ!
天使くんのせいでかなり腑抜けてしまった子爵さまだけれど、結局はこの人さえいれば、来年度の生徒会への推薦はなんとかしてもらえるのではないかと、僕は心の奥底でどこか高を括っていたのに……。
「生徒会の最終学年生は総辞職させるつもりだったのだけれど、さすがにそれでは生徒会が立ち行かなくなると、後輩に泣きつかれてね」
夕闇の迫る紺青の中で、子爵さまは樹の根元に腰を下ろし、僕にも座るようにと促した。
「下へは?」
僕は躊躇して、まず、訊ねてしまった。
「僕は誘惑に弱いから」
子爵さまはちょっと首をすくめてクスリと笑った。
子爵さまの横に腰を下ろした。
しばらくの間、子爵さまは、僕ではなく、樹々の狭間に覗く僕たちの寮の窓辺に仄かに輝く灯を眺めていた。
「あの子、やはり先輩が目をかけているだけのことはある子だったよ」
おもむろに話始めたのは、大鴉についてだった。
あの先日のサイバー攻撃で、子爵さまのスマートフォンに保存されていた天使くんの写真のデータも消えてしまったのだそうだ。あの写真をネタにして、彼をなんとか自分の思い通りにしようとしていた子爵さまは、焦って彼を捕まえて、もう一度写真を撮り直そうとした。あのパブの二階で。
あそこは、毛色の違うエリオット校生が他の客とトラブルを起こさぬようにとの店側の配慮で、普段は使っていない二階を開放していた。天使くんを連れ込むのにちょうど良かった。大鴉は反省室だし、あの子が罰則を受けている以上、一緒に遊んでいた連中が自分たちだけであそこを利用することもなかったから。
ところがまさにその場に、大鴉が現れたのだそうだ。反省室を抜け出して!
「彼に僕の愚行を咎められ、目が覚めたよ。彼の言う通り、僕はマーレイと同じ――。ただ、先輩にもう一度僕を見て欲しかった。僕に気づいて欲しかっただけなんだ。――僕はそんな子どもじみた理由で、こんなにも愚かな真似をしてしまっていた」
子爵さまは、僕を真っ直ぐに見つめると、哀しげに唇を震わせた。
「先輩は僕たちを裏切った、僕を見捨てていったのだと、ずっとそう思って、先輩のことを恨んでいた。でも、彼に言われたんだ。僕が、敷かれたレールを降りなかっただけだ、って。先輩の後を追うより、エリオット校生であることを選んだんだって」
子爵さまは少し淋しそうに、けれど自嘲的に微笑んだ。
「その通りだよ。グレイ先輩も、ラザフォード先輩も、先輩と一緒に転校したのだから。そして僕は、ここに残ることを選んだんだ。先輩を裏切って――」
「裏切るなんて、そんな……」
そんなの、当たり前じゃないか!
いくら仲が良いからといって、友人が転校したから僕も、なんてことを普通するわけがない。
確かに白い彼が出ていった時に、何人かが彼の後を追って学校を移った話は聞いたけれど、そんなの極一部のイカレた信奉者なのだと思っていた。
「僕は、先輩に試されたんだ。何もかも捨ててついてくるだけの度胸があるか――。僕は先輩の期待に応えられなかった。先輩には、この学校の権威も、未来に向けて敷かれるレールも、そんなもの何の価値もなかったのに。僕はそんなつまらないものを失うことすら怖くて、ここにしがみついた臆病者だよ」
僕は目を見開いたまま、頭を振った。
何を言っているんだ、この人は。そんなことを強要する白い彼の方がおかしい。そんなの、誰の目から見たって明らかなのに。
「あのサイバー攻撃事件、僕たちが引き起こしたんだ」
突然変わった話題についていけず、僕は怪訝な想いで首を傾げた。
「あの子の携帯電話にウイルスが仕込んであったんだ。おそらく彼の――、あの時の写真を消し去るために。そのためにあの子は僕たち生徒会役員に近づいて、あの件にどれだけの人数が関わっていて、誰が当事者なのか、そしてどこに証拠の写真を隠してあるのか探っていたってわけさ。僕たちが学校のパソコンを使って彼のスマートフォンに安易に侵入したことで、同一のインターネット回線を通じてウイルスを学校中にばら撒いてしまったんだ」
さすがに子爵さまも、ここで苦笑を漏らした。
「おそらく、僕の携帯の中のデータを消したかっただけ――、のはずだったのにね……」
「見せしめの意味もあったのかな――。あの正義感の強い先輩が、こんな僕の愚行を見過ごしにするはずがなかったんだ。そして、こんな状況に甘んじている生徒会も……。僕は本当に、取り返しのつかない過ちを犯してしまったんだ」
深い、後悔のため息が子爵さまの口から漏れる。でも、子爵さまの口調はどこか嬉しそうだ。全てを、白い彼に知られてしまったというのに。
「先輩にお逢いしたよ――。だけど、先輩は僕を責めなかった。知らない振りをして下さった。僕は身を伏してでも謝るつもりだったのに。僕に、僕らしくあるようにと、おっしゃっただけだった」
初めて子爵さまは、眉を寄せて苦しそうに息を継いだ。気持ちを落ち着かせようと、数回深呼吸を繰り返す。僕はそっと、子爵さまの腕に手を掛けた。
「本当に、酷いことをしてしまった……。きみにも、あの子にも……」
僕の手に、子爵さまの冷え切った指先がそっと触れる。ぐっと力を込めて握られる。
「すまなかった。きみをお金で買うことで、僕は僕自身の手できみを汚してしまった。それなのに、きみは何も言わずにこんな愚かな僕を受けとめてくれていた。僕はそんな、――優しくて誇り高いきみの姿に、先輩の面影を見ていたんだ。きみと先輩は違うのに。きみに対しても、先輩に対しても失礼極まりないよね……」
子爵さまはじっと目を逸らすことなく僕を見つめたまま、言葉を継いだ。僕も、瞬きすることすら忘れ、息を殺して子爵さまの言葉を胸に刻んでいた。
「迷いの森に踏み込んでしまった僕にとって、きみの存在は、寒くて暗い日々の中に見つけた陽だまりだった」
……僕の見開いた両眼から、涙がポロポロと流れ落ちていた。
「僕はもう、先輩の影を追ったりしない。僕は、僕自身を取り戻すよ。もう一度、頭を高く上げて先輩の前に立てるように」
滲む視界で、もう、子爵さまは笑っているのか、泣いているのか、判らなかった。
「――優しいきみの事が、本当に好きだったよ。きみがずっと傍にいてくれたから、僕はこうして、先輩のいない辛い日々を耐えることができたのだもの」
僕の涙を、子爵さまの指先がそっと拭う。
「きみを一番に愛せれば良かったのにね。……でも、きみにも別に想う人がいたものね」
泣きじゃくり、涙の止まらなくなった僕の頬を子爵さまは何度も、何度も拭ってくれた。
「ありがとう、マシュー、何ものにも汚されない、気高くて温かい、僕の陽だまり――」
お別れなのだ――。
自分勝手で、我儘な子爵さま。自分の言いたいことだけを言って、この人は行ってしまうのだ。いや、帰るのか。元いた世界へ。ジョイントの幻影の見せる偽りの陽だまりなんかじゃない、明るい本物の陽のあたる場所へ。
「ほら、きみの大切な人が待っているよ」
子爵さまは、僕の頬に、そっとキスをくれた。
子爵さまがくれたお別れのキス。それは、誰の代わりでもない、僕自身にくれた、今までで一番、優しくて甘いキスだった。
無限の終わり
跳ねて散る
子爵さまの顔を見て一番に思い浮かんだのは、白い彼のことだった。
大好きな先輩に逢えたから、子爵さまはこんなにも嬉しそうなのだ、とそう思った。
子爵さまは、なんだか恥ずかしそうな、照れくさそうな顔をして僕を見つめ、「生徒会役員を辞任することにしたんだ」と開口一番、とんでもないことを告げた。
青天の霹靂とは、このことだ!
天使くんのせいでかなり腑抜けてしまった子爵さまだけれど、結局はこの人さえいれば、来年度の生徒会への推薦はなんとかしてもらえるのではないかと、僕は心の奥底でどこか高を括っていたのに……。
「生徒会の最終学年生は総辞職させるつもりだったのだけれど、さすがにそれでは生徒会が立ち行かなくなると、後輩に泣きつかれてね」
夕闇の迫る紺青の中で、子爵さまは樹の根元に腰を下ろし、僕にも座るようにと促した。
「下へは?」
僕は躊躇して、まず、訊ねてしまった。
「僕は誘惑に弱いから」
子爵さまはちょっと首をすくめてクスリと笑った。
子爵さまの横に腰を下ろした。
しばらくの間、子爵さまは、僕ではなく、樹々の狭間に覗く僕たちの寮の窓辺に仄かに輝く灯を眺めていた。
「あの子、やはり先輩が目をかけているだけのことはある子だったよ」
おもむろに話始めたのは、大鴉についてだった。
あの先日のサイバー攻撃で、子爵さまのスマートフォンに保存されていた天使くんの写真のデータも消えてしまったのだそうだ。あの写真をネタにして、彼をなんとか自分の思い通りにしようとしていた子爵さまは、焦って彼を捕まえて、もう一度写真を撮り直そうとした。あのパブの二階で。
あそこは、毛色の違うエリオット校生が他の客とトラブルを起こさぬようにとの店側の配慮で、普段は使っていない二階を開放していた。天使くんを連れ込むのにちょうど良かった。大鴉は反省室だし、あの子が罰則を受けている以上、一緒に遊んでいた連中が自分たちだけであそこを利用することもなかったから。
ところがまさにその場に、大鴉が現れたのだそうだ。反省室を抜け出して!
「彼に僕の愚行を咎められ、目が覚めたよ。彼の言う通り、僕はマーレイと同じ――。ただ、先輩にもう一度僕を見て欲しかった。僕に気づいて欲しかっただけなんだ。――僕はそんな子どもじみた理由で、こんなにも愚かな真似をしてしまっていた」
子爵さまは、僕を真っ直ぐに見つめると、哀しげに唇を震わせた。
「先輩は僕たちを裏切った、僕を見捨てていったのだと、ずっとそう思って、先輩のことを恨んでいた。でも、彼に言われたんだ。僕が、敷かれたレールを降りなかっただけだ、って。先輩の後を追うより、エリオット校生であることを選んだんだって」
子爵さまは少し淋しそうに、けれど自嘲的に微笑んだ。
「その通りだよ。グレイ先輩も、ラザフォード先輩も、先輩と一緒に転校したのだから。そして僕は、ここに残ることを選んだんだ。先輩を裏切って――」
「裏切るなんて、そんな……」
そんなの、当たり前じゃないか!
いくら仲が良いからといって、友人が転校したから僕も、なんてことを普通するわけがない。
確かに白い彼が出ていった時に、何人かが彼の後を追って学校を移った話は聞いたけれど、そんなの極一部のイカレた信奉者なのだと思っていた。
「僕は、先輩に試されたんだ。何もかも捨ててついてくるだけの度胸があるか――。僕は先輩の期待に応えられなかった。先輩には、この学校の権威も、未来に向けて敷かれるレールも、そんなもの何の価値もなかったのに。僕はそんなつまらないものを失うことすら怖くて、ここにしがみついた臆病者だよ」
僕は目を見開いたまま、頭を振った。
何を言っているんだ、この人は。そんなことを強要する白い彼の方がおかしい。そんなの、誰の目から見たって明らかなのに。
「あのサイバー攻撃事件、僕たちが引き起こしたんだ」
突然変わった話題についていけず、僕は怪訝な想いで首を傾げた。
「あの子の携帯電話にウイルスが仕込んであったんだ。おそらく彼の――、あの時の写真を消し去るために。そのためにあの子は僕たち生徒会役員に近づいて、あの件にどれだけの人数が関わっていて、誰が当事者なのか、そしてどこに証拠の写真を隠してあるのか探っていたってわけさ。僕たちが学校のパソコンを使って彼のスマートフォンに安易に侵入したことで、同一のインターネット回線を通じてウイルスを学校中にばら撒いてしまったんだ」
さすがに子爵さまも、ここで苦笑を漏らした。
「おそらく、僕の携帯の中のデータを消したかっただけ――、のはずだったのにね……」
「見せしめの意味もあったのかな――。あの正義感の強い先輩が、こんな僕の愚行を見過ごしにするはずがなかったんだ。そして、こんな状況に甘んじている生徒会も……。僕は本当に、取り返しのつかない過ちを犯してしまったんだ」
深い、後悔のため息が子爵さまの口から漏れる。でも、子爵さまの口調はどこか嬉しそうだ。全てを、白い彼に知られてしまったというのに。
「先輩にお逢いしたよ――。だけど、先輩は僕を責めなかった。知らない振りをして下さった。僕は身を伏してでも謝るつもりだったのに。僕に、僕らしくあるようにと、おっしゃっただけだった」
初めて子爵さまは、眉を寄せて苦しそうに息を継いだ。気持ちを落ち着かせようと、数回深呼吸を繰り返す。僕はそっと、子爵さまの腕に手を掛けた。
「本当に、酷いことをしてしまった……。きみにも、あの子にも……」
僕の手に、子爵さまの冷え切った指先がそっと触れる。ぐっと力を込めて握られる。
「すまなかった。きみをお金で買うことで、僕は僕自身の手できみを汚してしまった。それなのに、きみは何も言わずにこんな愚かな僕を受けとめてくれていた。僕はそんな、――優しくて誇り高いきみの姿に、先輩の面影を見ていたんだ。きみと先輩は違うのに。きみに対しても、先輩に対しても失礼極まりないよね……」
子爵さまはじっと目を逸らすことなく僕を見つめたまま、言葉を継いだ。僕も、瞬きすることすら忘れ、息を殺して子爵さまの言葉を胸に刻んでいた。
「迷いの森に踏み込んでしまった僕にとって、きみの存在は、寒くて暗い日々の中に見つけた陽だまりだった」
……僕の見開いた両眼から、涙がポロポロと流れ落ちていた。
「僕はもう、先輩の影を追ったりしない。僕は、僕自身を取り戻すよ。もう一度、頭を高く上げて先輩の前に立てるように」
滲む視界で、もう、子爵さまは笑っているのか、泣いているのか、判らなかった。
「――優しいきみの事が、本当に好きだったよ。きみがずっと傍にいてくれたから、僕はこうして、先輩のいない辛い日々を耐えることができたのだもの」
僕の涙を、子爵さまの指先がそっと拭う。
「きみを一番に愛せれば良かったのにね。……でも、きみにも別に想う人がいたものね」
泣きじゃくり、涙の止まらなくなった僕の頬を子爵さまは何度も、何度も拭ってくれた。
「ありがとう、マシュー、何ものにも汚されない、気高くて温かい、僕の陽だまり――」
お別れなのだ――。
自分勝手で、我儘な子爵さま。自分の言いたいことだけを言って、この人は行ってしまうのだ。いや、帰るのか。元いた世界へ。ジョイントの幻影の見せる偽りの陽だまりなんかじゃない、明るい本物の陽のあたる場所へ。
「ほら、きみの大切な人が待っているよ」
子爵さまは、僕の頬に、そっとキスをくれた。
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