微睡む宵闇 揺蕩う薫香

萩尾雅縁

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三章

65 白い彼の訪問

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 とっぷんと揺れる深淵に
 映るのは
 空っぽの空




 その日は朝から騒がしかった。鳥の巣頭たち生徒会役員は、朝食もそこそこに緊急会議だ。寮長連中も同じらしい。
 食堂は、蜂の巣をつついたような大騒ぎだ。おまけに、寮監までがいなかった。
 僕は騒がしいのは苦手だけれど、大鴉が反省室入りした時もこんな様子だったことを思いだし、朝食の席についた。もしかして、また大鴉のことなのではないのかとドギマギしながら。

「何かあったの?」
 元同期の上級生の隣の席に着いた。僕は今の同期にはあまり親しい子はいなかったから。同じ三学年生の彼らの方も、年上の僕に一歩引いているようだったし。
 声をかけた相手は、まだ知らない奴がいたのかとばかりに驚いて、意気揚々と喋りはじめた。

「学校のパソコンが全部、ウイルスにやられたんだよ! おまけに学校の回線に繋いであった寮長や生徒会の連中のスマートフォンや私物のパソコンも全部! サイバー攻撃されたんじゃないかって、もう大騒ぎさ!」


 なんだ、そんな事か――、と僕は安堵の吐息を漏らした。もう何日も反省室に入れられたままの大鴉が、放校にでもなったのではないかと不安だったのだ。

 この学校では、携帯電話の所有は、原則禁止。ただし、監督生、生徒会役員、寮長は除く。もちろん、皆、隠し持っているさ。今時、携帯電話を持っていないなんてあるわけないだろ。

 僕は例外中の例外だけどね――。

 入院以来、僕の行動は規制されっぱなしだからね。だから、僕だけが知らなかった、ってことさ。

 このお喋りの話によると、ウイルスはパソコンと携帯電話だけでなく、学校のパソコンに接続されたデジタルカメラやメモリーカードにも及んで、保有していた貴重な記録や、個人データが一瞬にして吹き飛んだらしい。

 ここにきて、やっと僕は事の重大さが認識できた。単純に、パソコンや携帯が壊れた、というのとは違うのだ、と――。


 とはいえ、僕には関係ない……。そう思っていた。しばらくは、鳥の巣頭も子爵さまも忙しくて会えないのだろうな、というくらいで。




 数日後、白い彼が学校を訪れた。

「伝説の先輩が、校長室にいる!」

 そんな言葉が、あっと言う間に校内を駆け巡った。授業時間中に、わざと先生を怒らせて廊下に立たされ、白い彼が校長室から出てくるのを、逃さぬように見張りに立つ奴まで出てくる始末だ。
 この小さなさざ波がうねっている落ち着かない空気の中、誰もが上の空で、時折、廊下に続くドアと時計を代わる代わる見るばかりだ。

 そんな僕たちを先生も苦笑しながら見守り、授業を進め、早めに切り上げて下さった。先生の目元もほころんでいる。
 彼の訪問が嬉しいのに違いない。かつての教え子が立派に巣立ち、実社会で成功して母校に凱旋する――。その誇らしさで胸も一杯だ、とそんなお顔をされている。


 貴重な休憩時間だというのに、皆、窓という窓に張りついている。僕もごたぶんに漏れず、端っこの校長室に続く渡り廊下がかろうじて見える位置に陣取った。
 階下の端の方から歓声が上がる。波が伝播していく。開かれた窓から飛び降りんばかりに、皆、身を乗り出して白い彼の名を呼び、手を振っている。

 石畳の中庭に、白い彼が天使くんを伴って姿を現した。立ちどまり、彼は僕たちのいる窓を見あげている。少し照れたように小首を傾げ微笑した。美しい笑顔だった。
 傍らの校長先生に頷き、固く握手を交わすと、白い彼は背を向け歩きだした。天使くんと一緒に――。


 僕は拍子抜けた気分だった……。彼の訪問を聞いて、いまだ反省室にいる大鴉のためだとばかり思っていたのに!

 白い彼に伴われて俯き加減に行く天使くんの背中を尻目に、僕はその場の熱狂からそっと離れた。



 今でも皆から、こうも慕われている白い彼――。
 その彼の弟で、やはり守られている天使くん――。

 僕とは違う。僕とは違うんだ。


 悔し涙が溢れてきた。
 僕はこの頃おかしい。情緒不安定っていうのかな? 落ち着かないし、やたらと苦しくなったりするし、その癖、理由もなくウキウキしたり――。
 きっと、あまりジョイントを吸っていないからだ。子爵さまには会えないし、生徒会のボート部の先輩は、あれ以来僕を見かけてもよそよそしいし――。
 田舎鼠にねだるのは、嫌だった。あいつは嫌いだ。


 もう、一週間以上大鴉に会っていない――。



 この日の夕方、子爵さまが僕の元を訪れた。

 あの地下室ではなく、僕たちはその入口を隠すように植えられている、樹々の木陰で話をした。
 僕が時間通りに行ったときには、子爵さまは樹の幹にもたれて、すでに僕を待っていた。すっきりとした微笑を湛えて。





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