微睡む宵闇 揺蕩う薫香

萩尾雅縁

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三章

61 ピアノ

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 灰色の空に舞う黒い翼
 揺蕩う白い煙
 混じり合わない二つの影




 鳥の巣頭は僕を怒ったりしなかった。

 呆れたのなら、もう放っておいてくれればいいのに――。

 怪我の手当てを終えても、鳥の巣頭は僕の部屋から動こうとしなかった。風呂に入ってジョイントの匂いを落としておいで、とだけ言って、一人掛けのソファーに辛そうに座ったままだった。

「ベッドに寝転んでいるといいよ、身体、辛いんだろ?」
 心配して言ってあげたのに、こいつはむすっとした顔のまま頭を振った。僕は吐息をひとつ吐いて浴室に向かった。



 部屋に戻ってもどうせまだあいつがいるのだ、と思うと腹立たしくて、わざとゆっくりと湯船に浸かった。こうしていた方が、ジョイントの夢から覚める時の、あの身体にずっしりとかかってくる重力が幾分マシに感じられるから。

 僕たちは、どうしてこの肉の重さに耐えていられるのだろう――。不思議で堪らない。精神はこの白い煙の助けさえあれば、どこまでも高く飛翔することだって可能なのに。
 あんな下らない奴らですら、ジョイントの白い煙は愛で包んでくれるのに――。

 鳥の巣頭みたいな、馬鹿で頭のカチンコチンに凝り固まった奴には、解らない。

 神に近づくことが人として生まれてきた意味だというのなら、この重たくて汚い肉体を引きずるようにして生きるよりも、たとえ、この身体に多少の損傷を及ぼそうとも、ジョイントの力でこの肉体の檻の縛りを解き放ち法悦を得る方が、よほど神の御意志にかなっている。



 ゆるゆると揺れるお湯の中で身を捻り窓を覗く。灰色の冬空を。代わり映えのしない陰鬱な空。僕の光は白い煙に導かれるのに、あいつは意地でも邪魔をする。

 と、白樺の林を、黒い影が過ぎった。――ような気がした。

 片羽の大鴉が僕を嗤った。

 飛ぶのに、そんなもの必要ないよ――、って。



 部屋に戻ると、鳥の巣頭はもういなかった。
 安心してベッドに横たわった。

 お腹が空いた。ジョイントを吸うとお腹が空くんだ。
 あの大空を飛ぶから、お腹が空くんだ。




 学校に戻ってからも、鳥の巣頭とはぎくしゃくしたままだ。ボート部の先輩方は、さすがにもう僕と遊ぶ気はないようだった。
 また振り出しだ。
 僕が着々と敷いた布石を鳥の巣頭がぶち壊す。いつもそうだ。あいつは僕の疫病神。そのくせしたり顔で僕の生活の全てを支配しようとするんだ。自分が僕の面倒を全てみてあげているような顔をして。

 大嫌いだ……。




 でも、もう一度あのパブに行きたくて、鳥の巣頭に声をかけた。あんな怖い地区の小汚い店に、一人で行く勇気なんてなかったから。



 大鴉はもう、僕の部屋から見える川沿いの林に翼を休めに来ない。代わりに新入生の一団がツリーイングしている。どいつもこいつも大鴉の真似をして、ロープを引っ掛けた木の枝にみっともなく登っている。あんなもの見たって面白くもなんともない。木から降りる時だって、おっかなびっくりで伝い降りるだけ。大鴉みたいに見事なまでに美しく飛ぶ奴なんて一人もいない。

 ピーチク煩いこの小雀らのせいで、大鴉はこの林に来なくなったんだ!

 確かめたかった。天使くんがまだあの店にいるかどうか。僕の大鴉に近づいたりしていないかどうか。



 休日の外出時は私服の着用が推奨されているのに、あの時の新入生は制服だった。休み明けで気が緩んでいるかもしれないし気になるんだ、と言うと、鳥の巣頭は驚いたように目を大きく見開いて僕の顔を見つめ、それからぱぁっと嬉しそうに笑った。久しぶりだ、こいつのこんな顔。

「そうだね、きみの言う通りだ。少し前にもあの辺りの地区で恐喝事件があったんだよ。見まわりがてら行ってみようか」

 鳥の巣頭はうきうきと背筋を伸ばす。

「そんなふうに下級生のことを心配してくれていたなんて、ちっとも知らなかったよ」
 そして、また以前のように饒舌に喋り始めた。



 名家の子弟ばかりが通う有名私立校である僕たちの母校は、街の不良どもに目をつけられやすい。
 もともと外出時は制服着用だったのを、公立校の連中や、地元のならず者とのトラブルを少しでも避けるようにと、休日時の私服着用を許可して欲しいと進言したのはソールスベリー先輩なのだそうだ。特に、まだ学校にも不慣れで狙われやすい下級生のうちは、上級生が外出につき添って警護するように規則で定めるよう申しで、規則化したのも彼の派閥の功績なのだ、と鳥の巣頭は、まるで自分の手柄でもあるかのように自慢げに喋っていた。

 こいつ、いつの間に白い彼の信奉者に成りさがっていたんだ? でも、その彼が後見をする大鴉は、夜ごと、その危険な区域を遊び歩いている――。

 この事実に鳥の巣頭はきゅっと口元を引きしめて、厳しい表情を示した。



「なんとかしないとね」

 どうせ取りしまったって、あの大鴉のことだから、ひらりひらりと飛び立って逃げるに決まっている。それよりも天使くんだ――。いまだに大鴉を追いかけ回しているのか、その方が気になる。




 答えは案の定だ。
 天使くんは、相変わらず壁際の古びたピアノを弾いていた。
 前に来たときよりも音が明るい。

 僕にはそれが腹立たしくて堪らない。

 その日は空いていたから、僕たちは窓辺の席に座った。鳥の巣頭はカレーを頼まなかった。壁の黒板に、白いチョークで大きく売り切れの文字が書かれていたから。


 紅茶を注文し、しばらく顔を見合わせたまま、黙ってその場に座っていた。刻々と、ステンドグラスが一部嵌め込まれた窓ガラスの向こう側が、薄らと広がる闇に沈んで行く。窓外を通りすぎた一団に、鳥の巣頭は緊張した面持ちで立ちあがりかける。僕はこいつの腕を掴み、耳許で囁いた。

「馬術部の先輩がいる。僕がここに残って様子を探るから、彼を送ってあげて」
「でも……」
「きみじゃ警戒される。それに、これ以上新入生が巻きこまれたりしたら、大ごとになりかねないだろ? 送って、すぐに迎えにきて」

 カラカラーン、と勢いよくドアが開く。どやどやと踏み込んで来た一団を一瞥することもなく、鳥の巣頭はピアノを弾いている天使くんに歩み寄り、天使くんは素直に頷き立ちあがった。

 店の主人と喋っていたその一団は、がやがやと騒がしく厨房に続く扉を開け、階段を上がって行った。足音と、古い階段の軋む音が僕の席にまで大きく響いていた。

 けれど、その中の一人がにやっと笑い、顎をしゃくって僕に合図をするのを、見逃しはしなかった。
 馬術部の先輩ではないけれどね。だって、馬術部から生徒会に入った人なんていないもの――。



 鳥の巣頭と天使くんが店を出るのを見送ってから、僕はこの店の主人に声をかけた。

「ご主人、二階にも部屋があるのですか? さっきの一団に友人がいたもので。僕も上がっても、かまわないでしょうか?」





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