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三章
59 パブ
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逢魔が時に
カラン、カランと
捻れた時間のドアが開く
日曜日の夕方、鳥の巣頭と一緒に大鴉が入り浸っているという店へ行ってみた。細い裏通りの入り組んだ場所にある、噂に違わず小汚いパブだった。
ドアを開け一歩踏み入るなり、独特のスパイシーな香りが鼻腔を刺激する。柔らかなピアノの旋律が絡みつく。
密かに顔をしかめた。鳥の巣頭は無表情のまま、注意深く店内を見まわしている。
ペンキの剥げかけた黄色い薄汚れた壁や、すきま風が入りこむ、もとは深緑だったであろう窓枠、歩くとキシキシと軋む、傷だらけの木製の床――。四つしかないテーブルは満席だ。全ての席でカレーが注文され、その香りがこの狭い店内を蹂躙している。
だがそんなことよりも、店内の片隅に置かれた古ぼけたピアノを弾いている少年の背中に、視線を釘づけにされていた。
天使くん――。きみも大鴉を追いかけてここに来ているの?
鳥の巣頭に肘を小突かれ、我に返って、こいつと並んで空いているカウンターの席に座った。
「カレー、食べる? これだよ。例の子が作っているメニューって。すごい人気なんだ」
「辛いものは苦手なんだ」
僕は首を横に振って、紅茶を頼んだ。鳥の巣頭はカレーを注文した。数量限定で、もう後わずかしか残っていなかった。
「お前さんたちもエリオットか!」と、馴れ馴れしく話しかけてきたこの店の主人らしいご老人と、鳥の巣頭がにこやかに話をしている間、僕は肩越しに天使くんを眺めていた。
一心不乱にピアノにむかう天使くんの音は、なんだか物悲しく、苦しげでさえある。
「あんた、あの子の親戚かなにかか?」
突然耳に入ってきたその言葉に振り返り、声の主のこの店の主人を見あげた。
「いえ、」
言葉少なに答え、苦笑して首を振る。白い彼がいた頃は似ているとよく言われていたけれど、あの天使くんに似ていると言われたことはなかったから。
「そりゃ失礼。あんた、あの子の兄貴に似ているから身内かと思っちまった」
続いて言われた言葉に驚いて、この太った、赤ら顔の、白髪の、いかにも労働者階級の男をまじまじと見つめた。
そんな不躾な視線に苦笑いし、店の主人は僕たちに顔を寄せるようにして身をかがめた。煙草と酒の入り混じった異臭に、思わず不快感から視線を伏せる。
「なぁ、あんた達、あの子にここにあまり来ないように言ってもらえねえか? ああしてずっとピアノを弾いてくれるのはいいんだけどよ、この店は、あんなお綺麗なお坊ちゃんが入り浸るような店じゃねえんだ。危なっかしくて見ていれねえよ」
「ご心配おかけして申し訳ありません、ご主人。なにぶん、まだものの解っていない新入生なのです。無作法を許してやって下さい。僕の方からも、ちゃんと言い聞かせておきますから」
鳥の巣頭は食べかけのスプーンを傍らに置き、背筋を伸ばして制服の下の赤いウエストコートを見せつけるように胸を張る。この主人にはこの意味が解るだろう、と判断してのことなのだろう。
カラン、カラン、と鳴るドアベルの音に何げなく目をやると、おどおどとした新入生が二人、店内に入ってきた。僕たちのいることに気づいた一方の顔色が、すっと蒼褪める。
「カレッジ寮の一学年の学年代表だ――」
鳥の巣頭が立ちあがる。
その二人組みは緊張に強張りながら、縋るような視線を店の主人に向けている。鳥の巣頭は二人に歩み寄ると、その内の一人を店の外に連れだした。残ったもう一人は慌てて天使くんに駆け寄るとその肩を叩いて顔を寄せ、耳打ちしている。
僕は天使くんと顔を合わせないように、向き直ってティーカップを持ちあげた。糾弾しにきた、と彼に思われるのは嫌だった。
すぐに鳥の巣頭は下級生を伴って戻ってきた。カウンターのハイチェアーに座り直す。下級生はまだ緊張した様子で、店の主人が用意した紙袋を受けとり、お金を払っている。
「でも、気持ちは解らないでもないよ。確かにハマる味だよね」
鳥の巣頭は笑って一学年代表の子にウインクした。ほっとしたように微笑むその子に、「でも、見逃すのは今日だけだからね」と釘を刺すのも忘れない。その子は表情を引きしめて頷いていた。
「気をつけて帰るんだよ」
「ありがとうございます。失礼します」
その子は丁寧に挨拶を返した。その後ろに隠れるようにして佇んでいた天使くんともう一人も同じように挨拶して、揃って黒いローブを翻して、そそくさと店を出ていった。
ふぅ、と息を継ぎ、鳥の巣頭は食べかけのカレーに視線を落とす。温かそうだった湯気は消え、もう冷めている様子のカレーを食べ始める。
「本当に美味しいんだよ、これ」
ここに来た目的をすっかり忘れてしまっている様子の鳥の巣頭に、僕は呆れた視線を投げかけた。
カラン、カランと
捻れた時間のドアが開く
日曜日の夕方、鳥の巣頭と一緒に大鴉が入り浸っているという店へ行ってみた。細い裏通りの入り組んだ場所にある、噂に違わず小汚いパブだった。
ドアを開け一歩踏み入るなり、独特のスパイシーな香りが鼻腔を刺激する。柔らかなピアノの旋律が絡みつく。
密かに顔をしかめた。鳥の巣頭は無表情のまま、注意深く店内を見まわしている。
ペンキの剥げかけた黄色い薄汚れた壁や、すきま風が入りこむ、もとは深緑だったであろう窓枠、歩くとキシキシと軋む、傷だらけの木製の床――。四つしかないテーブルは満席だ。全ての席でカレーが注文され、その香りがこの狭い店内を蹂躙している。
だがそんなことよりも、店内の片隅に置かれた古ぼけたピアノを弾いている少年の背中に、視線を釘づけにされていた。
天使くん――。きみも大鴉を追いかけてここに来ているの?
鳥の巣頭に肘を小突かれ、我に返って、こいつと並んで空いているカウンターの席に座った。
「カレー、食べる? これだよ。例の子が作っているメニューって。すごい人気なんだ」
「辛いものは苦手なんだ」
僕は首を横に振って、紅茶を頼んだ。鳥の巣頭はカレーを注文した。数量限定で、もう後わずかしか残っていなかった。
「お前さんたちもエリオットか!」と、馴れ馴れしく話しかけてきたこの店の主人らしいご老人と、鳥の巣頭がにこやかに話をしている間、僕は肩越しに天使くんを眺めていた。
一心不乱にピアノにむかう天使くんの音は、なんだか物悲しく、苦しげでさえある。
「あんた、あの子の親戚かなにかか?」
突然耳に入ってきたその言葉に振り返り、声の主のこの店の主人を見あげた。
「いえ、」
言葉少なに答え、苦笑して首を振る。白い彼がいた頃は似ているとよく言われていたけれど、あの天使くんに似ていると言われたことはなかったから。
「そりゃ失礼。あんた、あの子の兄貴に似ているから身内かと思っちまった」
続いて言われた言葉に驚いて、この太った、赤ら顔の、白髪の、いかにも労働者階級の男をまじまじと見つめた。
そんな不躾な視線に苦笑いし、店の主人は僕たちに顔を寄せるようにして身をかがめた。煙草と酒の入り混じった異臭に、思わず不快感から視線を伏せる。
「なぁ、あんた達、あの子にここにあまり来ないように言ってもらえねえか? ああしてずっとピアノを弾いてくれるのはいいんだけどよ、この店は、あんなお綺麗なお坊ちゃんが入り浸るような店じゃねえんだ。危なっかしくて見ていれねえよ」
「ご心配おかけして申し訳ありません、ご主人。なにぶん、まだものの解っていない新入生なのです。無作法を許してやって下さい。僕の方からも、ちゃんと言い聞かせておきますから」
鳥の巣頭は食べかけのスプーンを傍らに置き、背筋を伸ばして制服の下の赤いウエストコートを見せつけるように胸を張る。この主人にはこの意味が解るだろう、と判断してのことなのだろう。
カラン、カラン、と鳴るドアベルの音に何げなく目をやると、おどおどとした新入生が二人、店内に入ってきた。僕たちのいることに気づいた一方の顔色が、すっと蒼褪める。
「カレッジ寮の一学年の学年代表だ――」
鳥の巣頭が立ちあがる。
その二人組みは緊張に強張りながら、縋るような視線を店の主人に向けている。鳥の巣頭は二人に歩み寄ると、その内の一人を店の外に連れだした。残ったもう一人は慌てて天使くんに駆け寄るとその肩を叩いて顔を寄せ、耳打ちしている。
僕は天使くんと顔を合わせないように、向き直ってティーカップを持ちあげた。糾弾しにきた、と彼に思われるのは嫌だった。
すぐに鳥の巣頭は下級生を伴って戻ってきた。カウンターのハイチェアーに座り直す。下級生はまだ緊張した様子で、店の主人が用意した紙袋を受けとり、お金を払っている。
「でも、気持ちは解らないでもないよ。確かにハマる味だよね」
鳥の巣頭は笑って一学年代表の子にウインクした。ほっとしたように微笑むその子に、「でも、見逃すのは今日だけだからね」と釘を刺すのも忘れない。その子は表情を引きしめて頷いていた。
「気をつけて帰るんだよ」
「ありがとうございます。失礼します」
その子は丁寧に挨拶を返した。その後ろに隠れるようにして佇んでいた天使くんともう一人も同じように挨拶して、揃って黒いローブを翻して、そそくさと店を出ていった。
ふぅ、と息を継ぎ、鳥の巣頭は食べかけのカレーに視線を落とす。温かそうだった湯気は消え、もう冷めている様子のカレーを食べ始める。
「本当に美味しいんだよ、これ」
ここに来た目的をすっかり忘れてしまっている様子の鳥の巣頭に、僕は呆れた視線を投げかけた。
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