微睡む宵闇 揺蕩う薫香

萩尾雅縁

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三章

56 梟の話

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 青白い月光の満ちる夜
 伸びる影は
 踏みつけられた誰の過去




「ソールスベリー?」
 梟はちょっと訝しげに眉根を上げた。

 クリスマスコンサートでの出来事を話した。それから、子爵さまのことも。全部ではないけれど……。
 話を聞き終えると、梟は肩を震わせて笑った。

「へぇー、あのソールスベリーがねぇ……」
 面白がって煙水晶の瞳を煌めかせ、梟はシガレットケースを取りだした。


「声を聴いているだけでも、すごく怖かった。あんな優しくて寛大な人が――」

 あのときの声をリアルに思いだし、思わず身震いした。本当は、白い彼のことを良く知らないけれど。ほとんどが子爵さまの受け売りだけれど。

 梟は狐につままれたような顔をして、継いで、声を立てて笑った。

「誰が優しくて寛大だって? あいつはそんな人間じゃないぞ! さっきもお前、変なことを言っていたな。公明正大、分け隔てなく、だっけ? あれ、本気で言っていたのか? 俺はまた上手いジョークだとばかり――」
 腹を抱えて笑われ、ちょっとムカついた。そんなに笑うことないじゃないか!

「公明正大は、まぁ、あってるよ。奴にとって大事なのは貴族の矜持とフェアプレイで、そのためならなんだって犠牲にする。マーレイの事件、知っているだろう? 学校にいた時分にちょっかいかけてきた相手を、その場で叩きのめしただけでは飽き足らず、家ごと屠るような男だぞ、あいつは。――全てにおいてそうだったよ。情け容赦がなくて無慈悲な奴だ」

 梟は軽く目を眇め、嫌なことでも思いだしているようすで唇を歪める。

 子爵さまの話と全然違う! 生唾を呑み込み、じっと梟の話に聞き入った。

「その弟をぶん殴ろうとしたって話も、俺は充分あいつらしいと思ったね。自分が後見をしているガキを泥棒扱いするなんて沽券に関わる。その弟、ソールスベリーの面子を潰した、ってことだろ? 血の繋がった弟だろうがなんだろうが、関係ないんだよ、あいつには」

 吐き捨てるように言い、梟はわずかに眉を寄せ宙を睨んでいた。だが、ふっと表情を緩めると、指先で弄んでいた二本目の煙草に火を点ける。



「でもそれなら、やっぱりあの噂は本当なのかもな」
「噂?」

 梟は微妙に唇を歪め、皮肉な笑みを浮かべている。

「そのアメリカから来た弟と、もう一人、妹もいるんだがな。その二人っていうのは、ソールスベリー家の血を引いていないって噂があるんだ。実子として籍には入っているらしいがな。なんせ父親は元社交界の花形だ。口さがない奴らがいろいろ言うんだよ。娘はともかく、その坊ちゃん、噂を払拭するためのエリオット入学だろ? ソールスベリー家は代々エリオットだからな」
「――母親の、婚外子ってこと? 嘘だ……。だって、あんなに似ているのに!」

 驚いて、僕は思わず声を詰まらせ、訊き返していた。

「ソールスベリーは母親似なんだよ。ゴシップ紙で見たことがある。あいつをそのまま女にしたような超絶美人だったよ」

 自分で言いだした癖に、梟はどこか投げやりな感じでいい足した。

「――それで? その天使のように可愛いあいつの弟がジョイントを欲しがってでもいるのかい? お前が俺に訊きたいのは、そのことなんだろう?」

 どうジョイントに結びつけて話そうかと思案していた僕は、しめた、とばかりに頷いた。

「子爵さまは、あの弟くんを思い通りにできなくてイライラされているんだ。ジョイントを使えばあの子も大人しくなるかな、って――」
 梟は怪訝そうに眉を寄せる。おもむろに、僕の肩に鼻を近づけて臭いを嗅ぐ。
「モンスーンの庭。あの坊ちゃんの香りだろ? お前の恋人じゃないのか? 俺はまた、その弟が邪魔だから、学校から追い払うためにジョイントが欲しいのかと思ったのに」

「恋人?」
 思わず吹き出して、声を立てて笑ったよ。
「冗談じゃないよ。あんな、月を見て、手に入らないと泣いているような人、願い下げだよ」

 梟は驚いたように僕を見つめた。だが間を置いて、くすくすと笑いだした。
「お前も言うようになったな!」
「僕はあなたのような大人の人が好きなんだ」


 ちらりと、大鴉の黒い翼が脳裏を掠めた。三つも年下の新入生にすぎない、そのくせ妙に大人びたあの不思議な鳶色の瞳が――。


「おい、俺に色目を使うなよ! 俺はお前みたいに面倒な手のかかるやつは願い下げだ!」
 冗談めかしてそう言うと、僕の頭をコンっと小突く。嬉しくてふふっと笑った。

 だから僕は梟のことが好きなんだ。僕のことをそんな目でみない。それなのに僕を心配してくれる。気にかけてくれる。

「それにお前、ジョイント臭い。吸ってたのか?」
 梟が眉をしかめる。自分の袖口を鼻先にあて、臭いを嗅いでみた。
「さっきの彼のだよ」
 軽くため息をついて、梟はまた僕の頭を軽く小突く。

「やめろとは言わないよ。でも、溺れるなよ」

 梟の暗い瞳を見つめ返して、頷いた。




 しばらくの間、身体を捻って僕に背を向け、梟は賑やかな音楽の流れる屋敷の方をぼんやりと眺めていた。

 そして姿勢を戻すと、また煙草を銜えた。けれど火を点けずに、その手に握ったライターを屋敷から漏れてくる光にかざすようにして、眼前に持ちあげる。

「親父の形見なんだ」

 僕は頷いてみせた。とても高価そうで、梟がいつも大切にしていたものだもの。

「あいつに貰った」

 梟は蛇の名を告げて、にっと、自分を嘲るような笑みを浮かべる。

「俺たち、似てないだろ?」

 僕は目を瞠ったまま、どう返事をしていいものか解らなかった。

「俺の母親はな、薬物中毒者ジャンキーだったんだよ。それはもう、見事なまでの中毒者でな、俺の飯代から教科書代までクスリに変えるような女だった。だから俺は、慈悲深い親父殿に、あの女から引き離されて寄宿学校に叩き込まれたんだ。家にいるよりも、学校の方がずっとマシだった」

 わずかに身をかがめて、銜えたままの煙草に火を点ける。紫煙が立ち昇る。ゆるゆると。梟は、煙草を銜えているだけみたいだ。

「あの女、結局、薬物中毒であっさり死んじまったよ」

 梟は僕を振り返り、頭をくしゃりと撫でてくれた。

「お前は、ああはなるなよ。ガキの頃は解らなかったけど、今なら俺もあの女のことが少しは解る。――中毒ってのはな、それがないと誤魔化せないほどの痛みを心に抱えているから陥るんだ。止めさせようとしたら、死んじまいたくなるほどのな。――だから、やめろとは、俺には言えない。だけど溺れるなよ。自分を追いかけてくる闇に捉まるな」

「ソールスベリー先輩は、闇に捉まったの? だからあの子を殴ろうとしたの?」

 ジョイントを吸っているときに現れる白い彼と、本物の白い彼が重なる。梟の話に、僕は混乱してしまっていたのだろうか――。

「さぁ、どうだろうな」



 なんとも言えない不思議な笑みを湛えて、梟は、銜えた煙草の紫煙をゆらりと揺蕩わせた。







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